第三章
第12話
目を開けると、俺は見覚えのある部屋で寝転がっていた。
昨日の記憶は鮮明だった。ご飯を食べ、お風呂に入り、明日の授業に向けての予習を数時間こなし、友人と電話で軽い雑談をして、眠りについた。
なんてことはない。いつものただの日常だった。
いいや、だったとはおかしい。だって、今日も今日とて変わらぬ日常なのだから。そろそろサラリーマンや学生の通勤、通学の時間だろうか。喧騒とする外を他所に、俺は肌寒い外に出るのが億劫で、毛布を頭から被って惰眠に耽ろうと思った。
しかし、それからすぐに鳴り響いたスマホの目覚ましアプリが喧しくて、俺はベッドから飛び起きた。朝起きるのを億劫に思わないように、勉強机の上でスマホを充電していたのが仇となった。
舌打ちをして、目覚ましを止めた。再び眠るのも億劫になって、俺は渋々制服に着替えた。
朝ごはんを食べて、外に出た。空っ風の冷たい冷気が頬を刺激した。そろそろマフラーを巻いて通っても、目立たない季節になってきた。
俺は踏み慣れたアスファルトを踏みしめて、通学路を歩いた。見慣れた景色が移ろいでいく。見慣れた景色へ移ろいでいく。
しばらくそうして、俺は首を傾げた。
こうしてこの道を歩く光景が酷く懐かしく感じたのだ。どうしてなのかはわからなかった。
不思議なことに、見慣れた景色も懐かしく感じるような気がしてきた。胸の奥がざわついた。
「……あれ」
俺は呟いた。
見慣れたはずの懐かしい景色の先に、何かが見えた。人の形をした何かが見えた気がした。その何かの亜麻色の髪が揺れたような気がした。
目を擦って、再び前を見た。
そこには何もいなかった。幻覚だったのだろうか。
首を傾げて、俺は再び通学路を歩き始めた。
* * *
騒がしい教室で、俺は一人夢でも見ているような錯覚を起こしていた。先ほどの通学路で見た幻覚もそうだったのだが、胸の奥で違和感のような何かが広がっていた。
その違和感の正体はわからなかった。わからない内に、数学。国語。世界史と授業は進んでいった。頭の奥底で、こんな他愛事に頭を悩ませる時間はないだろ、と警告が響いた。まもなく俺は受験生になる。他所事に現を抜かせるほど、俺の成績は良くなかった。
黒板に白い文字が書きとめられていく。チョークを握る教師の指は、白い粉が付いていた。
「こういった理由から、我が国はかつて戦争に興じたわけだな。終戦から八十年近くが流れている。もう当時の戦争を体験した人は残りわずかとも言われている。そういうわけだから、来年の修学旅行が学びの場であることは決して忘れないように」
教師が言った。
戦争。
その言葉を聞いて、俺は泣きそうになっていた。理由はわからない。俺はそんなに感受性豊かな人間だっただろうか。伝聞でしか知らない戦争のことで悲しみを覚えるほど、感受性豊かだっただろうか。
わからなかった。
そんな疑問を拭えぬまま、放課後になった。ショートホームルームを聞きながら、教室の窓から外を見た。この前までこの時間はまだ明るかったのに、今ではすっかりと外は暗くなっていた。
ふと、夢でも見ているのかもしれないと思った。
今日という日は全て夢。何かを忘れているような気がするのも、自由に動けない夢と似たようなモノなのではないだろうか。
つまり、そう。日常の中で大切な何かを忘れる夢を、今の俺は見ているのではなかろうか。
そう思って、俺は自らの考えを鼻で笑った。いつまでこんな他所事で頭を悩ませるのだろう。
「速水君。速水颯太君」
モヤモヤする胸中に見切りをつけると、俺は誰かに呼ばれた。
それが俺の机の前に立つ少女の発した言葉と気づいたのは、それなりに時間を要した。
何も言わず、俺は俺の指で俺を指した。
少女……クラスメイトの会田蘭子さんは、俺の反応が大層面白かったのか、微笑みながら頷いていた。
「これから暇?」
「暇だけど」
「そう。なら一緒に勉強しない?」
「何故?」
「速水君。頭良いから」
頭が良いから一緒に勉強しよう、か。俺の頭は決して良くはない。だってこの前まで、たくさんのことに疑問を抱いては、誰かにその理由を教えてもらっていたのだから。
……あれ。
誰にだっけ。
俺は一体、誰にそんなことをしてもらっていたのだっけ。
見切りをつけたはずの違和感が膨らんだ。俺は薄暗くなった外を眺めながら、モヤモヤする胸中を払拭する手立てになりはしないかと、会田さんの誘いに応じた。
* * *
会田さんとの勉強会は、ファストフード店で行われた。
俺達はポテトだけを頼んで、二階の飲食エリアの窓際の席を陣取った。外ではたくさんの車が帰り道を急ぐかのように結構なスピードで走り回っていた。
そんな景色に気を取られながら、勉強会は進んでいった。ただこれは、果たして勉強会と呼べるのだろうか、と俺が疑問を抱き始めたのは、俺達が教科書とノートを横長の机に目いっぱい広げているものの、三十分もすれば雑談しかしていないと気付いた時だった。
多分、初めからよくなかったのだろう。雑談交じりに勉強を始めればこうなるのは当然だと今更ながら思った。教科書やノートを広げているくせに、勉強は今やまったく行われなくなっていた。喧騒とする店内に交じって、微笑み交じりにたくさんの会話を会田さんと行っていた。
初めは勉強のこと。途中から互いの共通の友達の笑い話。それからは本当にたくさんのことを話した。全ては鮮明に思い出せなかった。
「へえ、じゃあ会田さん。あそこの喫茶店でバイトしているんだ」
「そう。安月給なのにいつもこき使われてるの。本当、疲れちゃうよ」
俺は苦笑していた。こうして苦笑しているのも、何だか懐かしい気がした。
会田さんは親父臭く肩を揉みながら回していた。
「速水君はバイトしないの? 折角、うちの高校はバイト禁止されていないんだから、やればいいのに」
「いいよ。だって俺、この前まで隠居みたいな生活を送っていたし」
本当、毎日アスファルトを歩いて、色んな場所を巡ったな。
茶化した話を笑い飛ばしながら言って、俺は目を丸くした。
一体いつ、俺はそんな生活をしたのだろうか。
「何それー」
会田さんは笑っていた。
また一つ疑問が増えた。辟易とした気持ちを抱きながら、俺は苦笑をしていた。
「正直、バイトに興味はあるんだ。でも、やっぱり大変なんじゃないのかい。だって、お金っていう対価をもらえるくらい働かなきゃいけないわけだろ。それって、やっぱり責任とか生じるからさ」
「難しく考えすぎだよー」
会田さんは、俺の不安を軽く笑い飛ばしていた。
「まあ、嫌なこともあるよ? 残飯を裏路地に捨てに行くこととかさ。あそこって凄い汚いんだよねー。この前なんて、あたしネズミ見たよ。ネズミ」
「噛まれたりしなかった?」
「うん。でも可愛かったー。和んだよー」
「気をつけてね。ネズミは不衛生な環境で生きているせいで、たくさんの感染症を持っているんだ。噛まれたりしたら大変だからね」
彼女を心配するあまりに言った発言だったが、会田さんは目を丸めていた。
しばらくして、会田さんは苦笑を見せた。
「ネズミって怖いんだね」
「うん。そうなんだよ」
「速水君。よくそんなこと知っていたね」
「そりゃ……」
ネズミがたくさんの感染症を持っている理由を話そうとして、俺は固まった。
どうして俺はそんな話を知っているのだろう。
疑問は矢継ぎ早に増えていった。思わず辟易としそうになった。でも、なんだかんだ会田さんとの雑談会は楽しかった。微笑む彼女を見ていたら、モヤモヤした気持ちが晴れていった気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます