第8話
青空の下、黄色いボールがコートを舞った。度々高鳴る打球音を鳴らしながら、ボールはネットを挟んだコートを飛び交った。
一際強い打球音が辺りに響いた。ボールは度重なる強打から開放されて、壁にぶつかって、力なく転がった。
「もうムリっ!」
ボールの行く末を見送ることも出来ないほど疲弊した俺は、握っていたラケットをクレイコートに落として、膝に手をついて荒れた息を整えながら、必死な形相で叫んだ。
俺の運動不足を解消するために組まれたマナとの今回のデートは、言うまでもなくスポーツだった。それも、俺が中学時代テニス部だったことを得意げに語ったために、テニスに決議されたのだった。
マナは居住区にあるいくつかのテニスコートからクレイコートを選択して、ここまで俺を連れて来てくれた。ラバーや芝のコートは、管理者不在の状況ではどうなっているかわからないということで選択しないでくれたらしい。懸命な判断だったと思う。それこそ、芝のコートなんて雑草まみれでも何ら不思議じゃない。
コートに来てからは、しばしマナによるラケット、ボール等の備品やコートのメンテナンスが行われたものの、すぐに試合が出来る程度の状況となり、俺達はシングルスの試合をすることに相成った。
久しぶりのテニスだったこともあり、俺は気合を入れて快活にプレーに臨んでいた。その甲斐もあってか、試合は当初、経験者である俺優勢で進んだのだった。久しぶりのテニスの割に、サーブは決まるし、リターンもコート奥隅を捉えて外さない状態だった。そんな状態での試合が心地よくなった頃に、「もっと本気出してくれ。このままじゃ余計腕が鈍るよ」と彼女を煽った。それが間違いだった。
俺の煽りをマナが聞いた途端から、パワーバランスが一変したのだった。どうやらマナは、テニスが下手なのではなく、俺に合わせて手を抜いていてくれたらしかった。それからは、どれだけ俺がコートの奥隅を狙っても、自慢の脚力で全てのボールを返球され、あまつさえは人智を超えたパワーサーブでこちらのガットを引き千切ってきたのだから、彼女の容赦のなさったら半端ない。下手に煽るんじゃなかった。
「大丈夫ですか、颯太」
「大丈夫ではない」
ボコボコにされた相手に容態を心配されるのはかなり惨めな気持ちだった。マナは無表情ながら俺の様子を心配しているようで、こちらのコートまで足を運んで来てくれた。しかし、しばらくして俺の息が整い始めると、再び向こうのコートに戻っていった。何をするつもりだろう。
「もう一セットしましょうか」
マナの誘いに、悲鳴を上げたくなった。とはいえ、ここで引き下がっては男が廃ると思い、俺はラケットを拾い上げて、額の汗を拭った。手首に巻いていたリストバンドに、多量の水分が付着した。リストバンドが汗で重かった。
「せ、せめてもう少し手加減でしてくれ」
「承りました」
結局惨めであった。
とはいえ、マナが素直に聞き入れてくれたことに安堵しながら、俺はボールを天に放った。第二セットの開幕であった。
それからはまともなテニスが続いた。一進一退の攻防の末、何とか第二セットは俺が取った。
ただ、すっかり体力の限界を迎えた俺は、コートに大の字になって寝転んでいた。土が服に付くことを煙たがる体力は、もうなかった。
「良い運動になりましたね」
「そうですね」
少しだけ恨み混じりな口調でマナに言った。マナは、こちらに近寄りながら微笑んでいた。いつもは無表情な癖に、俺をいじめ抜いた末に微笑むとか、もしかして君はサドなのか?
* * *
俺の体力の限界が予想よりも早く来たために、テニスコートを後にした俺達は昨日向かった図書館に、再び足を運ぶことにしたのだった。一度宿屋に戻って汗を流した俺達は、疲労で重い体を動かしながら、再び外に出て図書館を目指した。俺はマナの後ろを付いていった。
マナはこちらを時たま心配しながら、ゆっくりと道を歩いた。
「気晴らしになりましたか?」
「うん。途中までは」
マナの問いに文句混じりに答えた。途中まではとても良い気晴らしだった。途中……具体的には、俺が煽った後からは、とても辛かった。嬲り殺しにあって気晴らしになってたまるか。
まあ、元はと言えば煽った俺が悪いといえば悪いのだから、文句を言うのもおかしな話なのだが。
「そういえば、昨日借りてった本、もう読み終わったんだね」
気を取り直すように、俺はマナに言った。
マナは珍しく、今日トートバックを肩に掛けて来ていた。しかも、そのバックはパンパンに角張りながら張っていた。中には昨日図書館から持ち帰った本がギシギシに詰まっているのだろう。
「はい。夜は長いので」
彼女はロボットだから、夜に人間のように眠る必要がない。だからこそ、対ネズミのために打ち出したこの前の作戦が実行出来るのだが、どうやら夜は彼女にとっては、ネズミ駆除だけでは暇を持て余す時間でもあったようだ。
トートバック一杯の本が一夜にして読まれたのだから、その暇具合は窺えた。
「何冊読んだの?」
とはいえ、さすがに読み過ぎではなかろうか。俺は尋ねた。
「二十五冊です」
「多いね」
「そうでしょうか?」
そうです。まあ、ロボットだから速読も出来るのだろう。少しだけ羨ましかった。
「面白かったかい?」
「わかりません。でも新鮮ではありました」
「新鮮?」
「はい。胸の奥が締め付けられるような感情に、度々襲われたのです。辛かったわけではないですし、苦しかったわけでもないのです。でも、本を読み進めるほどにその挙動は増えていきました」
挙動って……。
「でも、読み終わった後にはその胸の締りもなくなっており、むしろ目の前の視界がより広がったような錯覚も覚えました。体を動かしたくなるような気持ちも」
テニスで俺に対して無双したのって、その気持ちも一因になっていたのではなかろうか。
「人が恋をして、例えば失恋した時に、そういう閉塞感にも似た絶望を覚えたとはよく聞くね」
「そうですか。そういえば、その挙動をした時に読んでいた本は失恋するお話でした」
「そうだろう。マナ、君は多分、主人公に感情移入したんだろうね。だから、その主人公の身に起きた絶望感とか閉塞感とか、報われた時の爽快感とか感動を味わえたんだよ」
「なるほど」
マナは納得したように頷いていた。
「颯太は詳しいですね。凄いです」
突如褒められて、俺の頬が染まった。折角、彼女が人らしい感情を抱けたことに対して喜んでいたというのに。これでは形無しである。
「今日もたくさん借りていくの?」
「はい。気になった本があれば」
「そうか。じゃあ俺も、何か借りていこうかな」
そんなやり取りをすることしばし、俺達は図書館にたどり着いた。正門を抜けて、エントランスを横切って、階段を昇った。扉を開けると、昨日と同じ本棚一杯の景色が眼前に広がった。
俺達は昨日、大衆小説の本棚に向かった。マナはトートバックに詰めていた本を出して、一冊一冊、元々置かれていた場所に戻していった。その様子を確認して微笑んで、俺は対面の本棚を覗いた。背表紙から気になる本はないかと見ていた。しばらくして、気になるタイトルの本を見つけて、取り出した。早速読書スペースで読んでみるか。マナの具合はどうだろうと思って振り返ると、彼女の足元には五冊の本が積まれていた。後五冊で片付け終わるようだ。
「手伝うよ」
俺はその本を掴み、本棚に押し込もうとした。
「颯太、それはこれから読む本です」
「え、そう?」
どうやらマナは、俺が読みたい本を一冊見つける間に本を片付け終わって、今日読む本を五冊もピックアップし終えていたらしい。
俺は苦笑しながら、本を積み直した。
「颯太は一冊でいいのですか?」
「うん。マナは後どれくらい探すの?」
「そうですね。後四十冊くらいでしょうか」
「そ、そんなにっ?」
思わず声を荒げてしまった。いやはや、ロボットというのは凄いものだ。今日まで何度も、彼女には人智を超えた力があることを確認させられてきていたが、こういう場面においても、人よりも早く、性格に情報をインプット出来るらしい。
マナの吟味はそれから十分くらいで片付いた。トートバックに目一杯、入らない本は両手に抱えて、アンバランスに歩き出した。傍目から見て、マナの今の姿は少しだけ滑稽に見えた。
「手伝うよ」
「いえ、大丈夫です」
「いいから」
マナが俺を制するために手を出せば、途端にアンバランスでギリギリのバランスを保っている本は崩れて床に散乱することだろう。故に、マナは今俺に手を出せない。それを良い事に、俺は彼女の抱えた本を五冊くらい手に取って歩いた。
「すみません。颯太の手を煩わせて」
「何を言うか。俺はいつも君の手を煩わせているんだぞ。そんなことで謝らないでよ」
「ですが、今日は本を読むのに夢中になって、宿屋の掃除をサボってしまいました」
「そうなの?」
「はい。時間を忘れていたんです。ごめんなさい。それにも関わらず、この場でも颯太の手を煩わせるだなんて、そんなこと出来ません」
「別に一日掃除をサボったくらいで謝らないでくれよ。掃除に協力しようとしない俺だっておかしいんだから」
「そんなことはありません。あたしは人間に尽くすために生まれたロボットです。颯太の手を煩わせないことが、あたしの至上命題です」
「それが君の至上命題なら、そんな命題さっさと捨ててくれよ」
「どうしてですか」
「俺は君と対等だと思っているからだよ。それなのに、君だけが俺に尽くすだなんておかしいだろう。俺達は支えあっていくべきだよ」
「……すみません。よくわかりません」
「ゆっくり知っていけばいいさ」
俺は苦笑した。マナは不満げであったが、状況が状況だけに頑なな態度はこれ以上示さなかった。静かな館内に、絨毯が踏まれた音だけが響いた。読書スペースに着くと、俺達は手に抱えた本を机に置いた。
「ごめんなさい。颯太の手を煩わせて」
マナは俺に謝罪をした。
「違うよ、マナ」
俺は続けた。
「俺は君に謝罪されたくて、君の手伝いをしたわけじゃない。もし君が俺に手伝ってもらったと思ったならさ。こういう時はさ、お礼を言ってよ」
「……ありがとうございます」
「いいよ。こっちこそ、いつもお世話をしてくれてありがとう」
マナは眉をしかめていた。多分、お礼を言われた理由がわからなかったのだろう。でも俺は、俺が彼女にお礼を言う理由を既に彼女に伝えていた。それは、俺が彼女と対等になりたいと思ったから。
彼女が俺の気持ちを理解出来ないのは、彼女が今まで人に対等に扱われたことがないからだろう。この居住区にいた人間は、マナをロボットとしてしか扱ってこなかったのだろう。暗殺用ロボットとして、人間がリスクを犯さず、他国に仇名すことが出来る道具として彼女を認識していたのだろう。
そんなのは間違っている。少なくとも、俺はマナとそんな関係になりたいわけじゃない。だから、俺はこれからもこの態度を一貫すると思う。出来ればいつか、彼女が俺を頼ってくれる日が来てくれると嬉しい限りだ。
そう思った俺だったが、その嬉しい日は予想よりも早く訪れることになった。
俺達が椅子に腰掛けると、再び無言の時間が流れた。二人して読書の時間を思い思いに過ごしていた。
「颯太颯太、少しよろしいでしょうか」
珍しく口早に、マナは俺に声をかけてきた。
「なに?」
持ってきた本が思いの他面白くなくて、俺は強烈な眠気に襲われている途中だった。だから、声が少し上擦った。
「颯太の手を煩わせてしまい、ごめんなさい。でも、どうしても聞きたいことがあって」
「だから、謝る必要はないよ。それで、聞きたいことって何?」
俺は苦笑して答えた。そうか。マナは早速俺を頼ってくれたみたいだ。それが少しだけ嬉しくなり、すっかり眠気は吹き飛んでいた。身を乗り出して、マナの方を向いた。
「この一文がどうしてもわからないのです」
どうやらマナは、小説の一節が理解出来ずに俺に説明を求めてきたらしい。
「どれどれ?」
頼ってくれたことが嬉しくて、俺はちゃんとした答えを導けるかという不安も抱かず、彼女の握る本に視線を落とした。頁から察するに、本は既に終盤まで向かっているところらしい。
『俺はただ、他の連中には存在すら知り得なかった、真実の愛への階段を昇っているに過ぎないのに』
マナの指差す文章を読み終えて、俺は目を丸めていた。慌てて前後の文章も読み解いた。そして、頭が回るような錯乱にも似た気分を抱いた。なんて本読んでんだ、君。
「直前に、稔は病気であると言われていました。病気と言われる真実の愛、とは何なのでしょうか?」
「マナ、多分それは真実の愛じゃない」
「えっ、違うのですか?」
俺は黙って頷いた。どうやらマナが読んでいた本は、猟奇殺人をテーマにしたサスペンス小説らしい。まったく。恋愛小説だけを読んでいたと思っていたのに、こんなクレイジーな本を読んでいるだなんて。こんな猟奇的な男の語る『真実の愛』が、本当に『真実の愛』であってたまるか。
「では、真実の愛とは何なのでしょうか?」
「えっ?」
続くマナの質問に、俺は声を荒げた。眠気からではなかった。羞恥から。俺は今、羞恥を感じる程度には恥ずかしがっていた。年頃の男がロマンチックに愛を語るだなんて、端から見ても不穏な絵面だろう?
「颯太、わかりますか?」
何も答えずにいたら飛び火してきた。末恐ろしいロボットである。
素直にわからないと言っていいのだろうか。
俺はうろたえていた。素直にわからないと言って、マナからの信用を失って、二度と頼られないことはなかろうか。俺が望むマナとの関係、それは信用度がものを言う関係だった。それなのに、今早速マナからの疑問を無下にしていいのだろうか。
「それは。真実の愛ってのはさ……」
やっぱりだめだ。期待に応えない選択肢はない。こんな些細なことをきっかけに最悪な結果を招きたくない。
ただ、言いかけて俺は言葉をつぐんだ。
真実の愛って何だ?
「颯太もわからないですか」
マナから残念そうな声が漏れた。
「ご、ごめんなさい」
あれほどマナに対して謝るなと言ったのに、俺は謝罪の言葉をマナに捧げていた。
「良いのです。わからないものは仕方ありません。謝らないでください」
「そ、そうですか」
「はい。それに、大体この一文への表現は納得しました。用は、稔は狂っていて、彼の見た『真実の愛』は幻想に過ぎない、ということですね」
「そういうことだと思います」
「であれば、話の流れに納得できます。颯太、ごめんなさ……いいえ、ありがとうございました」
マナは微笑み、お礼を言った。
見惚れるようなその笑顔を見ていたら、先ほど抱いた羞恥とかそういう感情は全て消え失せていた。彼女にお礼を言われるような行いを出来た。ただそのことに対する喜びだけが心に残った。
それからもしばらく、俺達は図書館での読書を続けた。
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