第ニ章

第4話

 少しだけかび臭いベッドに身を沈めながら、微かに光が漏れるカーテンの隙間をぼんやりと見ていた。光に、小さな小さな塵が照らされていた。元いた世界の馴染みある我が家でもよく見た光景だった。多分ここが異世界でなければ、俺は今眼前に広がっていたこの光景に興味すら抱くことはなかったのだろう。


 人間のエデンと呼ばれた『T―二十三』に住んでいた人間が全員死んだというショッキングなニュースを聞いてから、数日が経った。



 ……数日が経ったのだ。



 でも俺は、未だ心に踏ん切りがついていなかった。心を支配する感情は、悲しみ。怒り。恐怖。そういった負の感情ばかりだった。


 マナに連れられて、国防省周辺の宿屋に俺は今いた。勿論、ここを取り仕切っていたロボットもいない。そのロボットも、人のエゴによって作られ、人がエゴによって死に絶えると生きる意味を見失い、ショートしてしまったらしい。


 だから俺は今、この宿屋に無銭で居座っていた。ただ、そんな俺を咎めるモノは誰もいなかった。


 マナは平坦な声で、悲しむ俺を慰めてくれていた。ただその平坦な声が業務連絡を受ける上司のような錯覚を起こして、俺はつい感情的になって彼女に一人にさせてくれと叱責混じりに願ったのだった。あれ以来マナは、俺にどこからか手に入れてきたご飯を届けてくれるだけで、深い接触を行うことはなくなった。


 数日にも及ぶ癇癪の末、俺の目から涙が落ちることはなくなった。溢れる涙を流すために必要な水分が不足したのが理由だろう。少しだけ、頭も痛かった。


 カーテンの隙間を、俺は再び見ていた。


 明るい陽の光に似た何かが、部屋のフローリングを照らしていた。


 外は、恐ろしく静かだった。


 眼前に映る景色は、元いた世界でも見たことがあるものだったのに。


 外の静けさが、ここが異世界だと俺に証明していた。


 寂寥感が俺を襲った。


 そんな時、扉が三度ノックされたのだった。


「颯太、いますか」


 マナだった。いつも通り平坦な声で、俺を呼んでいた。


 俺は何も答えなかった。


「いるんですか?」


「わかっているんだろ」


 囁くように悪態をついた。


 マナはしばらく黙っていた。


「はい。わかっています。あたしの目にはサーモセンサーが内臓されていますので。今の颯太の体温まで、わかっています」


 それは数日前、マナが国防省の施設に人が誰もいないと判断出来たカラクリだった。


「なら聞くなよ。そんなの無駄じゃないか」


 胸にどす黒い感情が広がっていくのがわかった。思わず、辛い口調で言ってしまった。


「失礼しました」


 マナは扉の向こうで謝罪した。


 この世界に来てから、俺は一体彼女に謝罪をさせたことだろう。初日こそ大したことはなかった気がする。だけど、あの時から……。人間が滅んだと知った時から。俺は彼女にただ当り散らしていた。


 何度も俺のご飯を提供してくれた彼女を。

 何もわからない俺に色々教えてくれた彼女を。

 命だって助けてくれた彼女を。


 俺は今、自らの怒りの捌け口にしていた。


「ここにお昼ご飯を置いておきます」


 マナの平坦な言葉の後、扉の向こうで食器が置かれる音がした。


 ここまで尽くしてくれている彼女に、酷い仕打ちをした。その事実を認めたくなくて、俺はそれきり彼女に返事をすることなく、ただ天井を眺めていた。


 しばらくそうして、腹の虫が鳴った。


 機械的に、彼女を使っていることに対する罪悪感すら感じずに、お礼も言わずに、ベッドから立ち上がって、フラフラとした足取りで扉の前に向かった。


 扉を引いて開けた。足元には、お盆。お盆の上にはお椀や食器が置かれていた。今日の昼ごはんは、白米。味噌汁。白身魚のようだった。


 マナはもう、廊下のどこにもいなかった。


 周囲を確認して、お盆を持ち上げた。



 ガシャン――。



 その時、宿屋内に大きめな物音が響いた。


「マナか?」


 返事はなかった。多分、マナじゃないのだろう。マナだったら、多分返事をしてくれるから。


 お盆を持って部屋に戻った。机の上にお盆を置いた。


「あ」


 そして、気付いた。


 マナでないなら、一体何モノが物音を立てたのか、と。


 気付いた途端、内心で湧き上がる感情に気が付いた。


 ここに俺以外の人がいないと知り、俺は孤独感とか怒りから今の今まで腐っていた。元いた世界に帰る術をなくした気がして、寂寥感を隠すことすら出来ず、マナに当り散らしてしまった。


 もし今の物音が、人により起こされたものだとしたら……。

 この居住区の人間が滅びていないのだとしたら。


 昼ごはんを食すことも忘れて、俺は駆け足で廊下を出た。

 

 この宿屋は二階建てで、今俺は二階の角部屋にいた。腐った今の姿を誰にも見せたくなくて、少しでも億劫に思ってほしく、敢えて一番遠い部屋を選んだのだ。


 俺は慌てて一つ一つの部屋の扉を開けて回った。


 二階の俺の寝泊りしている部屋以外はもぬけの殻だった。


 階段を伝い、一階に降りた。一階の部屋も一つ一つ確認した。しかし、やはりここにも人の気配はなかった。


「後は……」


 周囲を見回すと、従業員用通路に繋がる扉を見つけた。扉を開けると、来賓者用とは異なり、地下へと続く階段が目に付いた。


 一瞬うろたえたものの、俺は導かれるように階段を降りた。


 地下一階の廊下は、非常灯しか灯っておらず、いつかの施設のように薄暗かった。壁伝いに、俺は廊下を歩いた。


 しばらく歩いて、目の前に大きな扉が現れた。


 意を決して、俺は扉を開けた。


 扉の先は、静寂に満ちていた。


「何だよ」


 拍子抜けしてしまい、俺はしばらく動けずにいた。


「ん?」


 しかし、スリッパを履いただけの素足に何かがぶつかる感触があって、足元を凝視したのだった。


 部屋内は廊下よりも一層薄暗く、いくら凝視しても足元は見えそうもなかった。


 俺は再び、壁伝いに部屋内を歩いた。やはり、歩くたびに足に何かぶつかる感触があった。動き回っているのか?


 しばらくして、手頃な高さにスイッチのような突起を見つけた俺は、それを操作した。


 通電した異音と共に、眩い光が部屋内に灯った。どうやら灯りのスイッチで間違いなかったようだ。


 灯りが付いたことに安堵しながら、俺は早速足元を見下ろした。


 足元には、灰色の毛綿のようなものが無数に転がっていた。


「何だ、これ」


 その毛綿を拾おうとして、屈んだその瞬間。

 毛綿が動き、目があった。真っ赤に充血した目だった。そして、グレーの鼻。突起した前歯が順に見えた。


「うわああ!」


 ネズミだった。

 部屋内に転がる灰色の毛綿が、俺の悲鳴に驚いてこちらに振り返った。どうやらこの毛綿は全てネズミだったようだった。


 小さな悲鳴を矢継ぎ早に上げながら、俺はネズミを避けながら扉まで小走りに歩いた。


 しかし、ふとした拍子に一匹のネズミを踏みそうになり、バランスを崩して転びかけた。何とか転びはしなかったものの、両手を床に着いてしまった。


 途端、俺の手に驚いたネズミがこちらに襲い掛かってきた。


「危なっ!」


 ネズミに右手を噛まれそうなところを、間一髪で回避した。


 しかし、あまりに俺が暴れすぎたからか、他のネズミ達も外敵を排除するためかこちらに迫ってきていた。


「ちょっ、ちょっと!」


 背筋に冷や汗が溢れていた。元いた世界では馴染みのなかった害獣ネズミに襲われるという体験は、ある種身の毛もよだつものだった。


 そんな他愛事を思っている余裕は微塵もないようだった。津波のように押し寄せてきたネズミ達が、眼前まで迫っていた。


 恐怖で、俺は目を瞑っていた。再び、悲鳴を上げそうだった。


 しかし、結局悲鳴を上げることになるのは俺ではなった。ネズミ達は情けない鳴き声を上げながら、何モノかに蹴飛ばされていた。


「颯太、大丈夫ですか」


 マナだった。


「え、ああ。うん」


 いつもより幾ばくか慌てたマナの口調に、俺は戸惑ったように返事をした。いいや、本当に俺は戸惑っていた。先ほど辛い口調で当たってしまったこととか、とにかくあまり彼女と顔を合わせたくなかった。


 俺は床に手を着いたまま俯き、微動だにすることすら出来なくなった。


「あ」


 そんな俺の手を噛み付くべく、ネズミが一匹その前歯を鈍く光らせていた。




 グシャリ。




 血が滴った。


「マナ、君って奴は」


 思わず、血の気が引いていた。顔を合わせづらいとかそんな感情はどこかに吹き飛んで、目の前にいるロボットに対して、少しだけ引いていた。


 ネズミの血が滴っていた。体躯に似合う小さな内臓が、床に飛び散っていた。


 マナがネズミに平手打ちを与えた結果であった。そう、彼女は今まさに俺に噛み付こうとしたネズミを圧死させたのだった。


「行きましょう」


 マナはネズミを潰した方とは逆の手で俺の手首を掴んだ。


 俺は成すすべなく、マナの馬力によって宙を待った。


「いでえっ!」


 しかし扉を抜けた先で、彼女が壁伝いに方向転換をしたものだから、俺の体は壁に激突する羽目になった。

 腰がジンジンと痛んだ。


 そのままマナは、階段付近まで一気に進んで、俺を抱きかかえた。


「ここまで来れば大丈夫でしょう」


 闇の中でも利く目を凝らして、マナは言った。


「申し訳御座いません。緊急事態なので体まで庇うことが出来ませんでした。大丈夫でしたか」


「大丈夫じゃなかったです」


 腰を抑えながら、恨み節で答えた。


「申し訳御座いません。後ほど手当ていたします。まずは部屋に戻りましょう。階段、昇れますか」


 俺は黙って頷いた。


 痛む腰を抑えながら、マナに導かれるまま、俺は階段を昇った。従業員用通路の扉を出て、廊下を歩いた。


 思わず後ろを振り返った。さすがにネズミ達も、ここまでは追ってこれないようだ。


 二階の居ついている部屋に戻ると、俺は腰を摩りながらベッドに腰掛けた。


「大丈夫ですか」


 マナは平坦な声で言った。


「大丈夫。まずは、君だよ。手を洗いなよ」


「はい。わかりました」


 部屋にある洗面台で、水の流れる音が聞こえた。しばらくして、その水の音も止んだ。まもなく、マナが姿を見せた。


「申し訳御座いませんでした」


「いいよ。元はと言えば、勝手にあんなところに行った俺が悪い」


 腰を摩りながら、俺は苦笑して続けた。


「それよりも、まさかネズミを素手で圧死させるだなんて。そっちの方がちょっと引いた」


「お気を煩わせて申し訳御座いません」


 マナは平坦な声で言って、深々と頭を下げた。


「ですが、緊急事態だったので」


「緊急事態って。ネズミに噛まれることくらい、大したことじゃないだろう」


「いいえ、ネズミは住んでいる場所などの要因もあって、たくさんの感染症をあの体に持っています。そのネズミに噛まれて、人が感染症にかかったというケースも少なくありません。鼠咬症と呼ばれる感染症もあります」


「え、そうなの?」


 血の気が引いていくのがわかった。


「はい。ですので、もしあたしが来る前にネズミに噛まれたなどがあったら急ぎ教えてください」


「いや、噛まれていないと思う」


 声を震わせて、不安げな顔で俺は返事をした。


 マナは不安げな俺の心境を察したのか、足を中心に噛み跡がないのかを確かめてくれた。


 結果、


「大丈夫ですね」


 とのことだった。


 ホッと胸を撫で下ろした。


「そういえば、颯太はどうして地下に行ったのですか?」


「えっと、宿屋のどこかから物音がしてさ。もしかしたら人間の生き残りかもって思って、宿屋中を探してたんだ。そしたら、従業員用通路を見つけて、そこからあそこにたどり着いた。まさか、ネズミの大群に出会うとは思わなかった」


 ひとしきり理由と所感を説明すると、マナは顎に手を当て物思いに耽っていた。


「地下のあの部屋は厨房でしたね。そういえば奥で瓶が割れていました。ネズミ達が悪戯して落としたのでしょうね」


「そういえば、何かが割れるような音だったような」


 おぼろげな記憶を頼りに、呟いた。


 ……なんだ。人ではなかったのか。

 落胆したように、俺は大きなため息を吐いた。


「まったく。散々な目に遭ったな。人はいないし、ネズミに噛まれそうになるし。なんであんなにネズミが繁殖していたんだか、まったく」


 俺は恨み節交じりに呟いた。


 マナはしかとその呟きを聞いていたのか、ゆっくりとこちらに近寄って、床に座った。


「ネズミは短い期間でたくさんの繁殖を繰り返せます。その繁殖力、先ほど語った感染症の危険性、悪臭、何でも齧る習性。理由を挙げればキリはないですが、そういった理由からネズミはかつてから害獣と呼ばれていました」


 そ、そうなんだ。


「でもこんな事態になるまで、俺はネズミがそんなに害獣だなんて知らなかったな。むしろ、なんだか可愛いイメージを持っていた」


 少しだけ口を窄めていった。腰の痛みがようやく止んできていた。


「基本的にネズミ駆除の方法はかつてより確立されてきていましたから。汚いところに生息しているイメージはあっても、実害を被らなかった。故に危険視する機会がなかったのでしょう」


「なるほど。ちなみにその駆除方法って何?」


「猫です」


「猫?」


 俺は首を傾げていた。まあ確かに、猫の好物がネズミという話はよく聞く。


「古来より猫は、害獣であるネズミ駆除の動物として有名でした。かつて、西方の国が宗教上の理由で国中の猫を殺して、結果ネズミが大繁殖して街がネズミだらけになり悪臭騒ぎが起きたという出来事もありました。

 猫は、犬のように人に中々媚びない。それが気に入らず、国によっては迫害対象だったのです。魔女裁判全盛期の時代では、魔女の傍らにいる悪魔の動物と認知された時期もありましたね」


「へえ」まるで見てきたように話すな、と思った。


「この居住区は、人間の楽園です。飼い猫を連れて居住された人もいましたが、飼い猫は去勢されていることが多いでしょう。故に、この国では猫が絶滅してしまった。

 ネズミ駆除ロボットも作られましたが、件の理由で全てショートしてしまったのでしょうね」


 そして、結果この街にネズミが繁殖してしまったと。


「去勢されていないノラ猫はこの街にはいないの?」


「はい。いません」


「どうして?」


「この街の景観に、ノラ猫はそぐわないからです」


 思わず、顔を歪めてしまった。結局これも、人のエゴ、か。

 この街に来てからというもの、俺は何度人のエゴにより世界が、動物が淘汰された様を目の当たりにしたのだろう。ロボットという最先端技術を手にしたからなのか、この世界の住人は利己的な考えの上で行動していることが多すぎやしないか。


 ……いいや、違う。


 最先端技術を手にしたから、人が利己的な考えになったのではない。

 かつてから人は、すぐ利己的になる生き物だったのだ。

 マナが語った西方の猫狩りの話だってそうだ。宗教だなんて曖昧なものを崇拝して、人はこの世に生まれた猫達の尊い命を奪った。その結果、食物連鎖の法則が崩れて、ネズミを繁殖させる失態だって犯した。


 そういった失敗例が物語っているじゃないか。

 人が、かつてから利己的な生き物だなんてことは。


 そして……。


『わかっているんだろ』


『なら聞くなよ。そんなの無駄じゃないか』


 そして、利己的なのは俺もそうだった。

 辛いことがあったからって、この数日俺を介抱してくれたマナに、俺はどれだけ酷い仕打ちをしてきた。ネズミの大群から助けてもらったくせに、今だって俺は彼女にお礼の一つもしていないじゃないか。


 エゴに犯された人の行く末を、俺は先日目の当たりにしたじゃないか。この街で死に絶えて、果てに絶滅したエゴイスト達を、俺は知っているじゃないか。


 どうして俺は、その人達の失敗を繰り返そうとしているんだ。

 それじゃ駄目なことはわかっているじゃないか。

 少なくともあの時俺は、彼らに怒りを抱いた。それは無責任な彼らに対して、文句を言ってやりたかったからだ。


 でも、果たして俺がこの街で育った人間だったとして、俺は彼らと同様にエゴイズムに染まらなかっただろうか。

 否定は出来なかった。わからなかったからじゃなかった。答えはわかっていた。否定出来ないという答えはわかっていた。


「ありがとう、マナ」


 帰りたい。

 元いた世界に、帰りたい。

 父や母と再会して、食卓を囲んで、恋をして。そんな日常に帰りたい。

 でもそんな気持ちを抱くよりも先に、俺はしなければいけないことがあるのではないか。


「色々教えてくれてありがとう。ネズミから助けてくれてありがとう。介抱してくれて、ありがとう」


 マナに。

 人型暗殺用ロボットである彼女に。

 しなければならないことがあるではないか――。


「命を救ってくれて、ありがとう」


 俺は苦笑した。

 マナは、無表情だった。感受性が豊かではないからではない。多分、戸惑っていたんだ。


「これからも色々教えてよ」


 そんな彼女が可笑しくて、俺は微笑んで続けた。


「君に色々教えてもらっている時間さ。結構、気晴らしになるんだ。だから、お願いしてもいいかな」


 帰りたい。元の世界に帰りたい。

 その気持ちは消えない。一生消えないだろう。

 でもその気持ちを爆発させる前に、俺は俺に尽くしてくれた彼女に、恩返しをしなければいけない。そう思ったんだ。

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