25
午後六時を回っている。湊さんが、先生みたいな口ぶりで帰ろうかと切り出して、私たちはようやっと腰を上げた。湊さんの向かう方向と、私の家は真逆だったけれど楽器が重そうだったから、途中まで持ちましょうかと申し出た。けれど優しく、いらないわ、と断られた。そうして、コントラバスを前に抱えててくてくと歩いていった。アルカイックな微笑みで、浮世離れした掴めない人だった。結局、一方的に話を聞いてもらってしまった。かなり明け透けに、赤裸々に吐露したそれを、湊さんはひとつ残らず飲み込んでくれた。嬉しかった。あわこにもイッチンにも、親しいからこそ言えなかったこと。全部吐き出せて、心は晴れやかだった。湊さんは、不思議な人。ずっとずっと、私は彼女に惹かれてる。歩いていた一本道を振り返る。とっくに湊さんはいないけれど、まだ走れば会える気がした。話すことなんかもうないけれど、名残惜しくて追いかけてしまった。案の定、湊さんは学校からそう離れていなかった。
「湊さん」
声を少し張り上げた。湊さんはゆったりした仕草で振り返って、あらと上品に驚いて見せた。
「やっぱり、それ持つの手伝います」
「わざわざ戻ってきてくれたの?なんか申し訳ないけど、そこまでしてくれるなら、お願いするね」
黒い光沢の高級感あるケースを手渡される。想像通りすごく重い。女性一人が持つものじゃない。
「これを持って帰るって正気ですか」
「ね、そう思うでしょ。それがね、ピアノの逃げた奴が車出すはずだったの。だから、そいつが居ないってことは、こういうこと」
最悪よね、と言いながら微笑みは崩さない。同調しながら、その本来のピアノ奏者が湊さんにとって親しい間柄なのだ、と思いつく。その人がちょっと羨ましい。もっとピアノ上手くなろうと決心した。少なくとも湊さんの隣に立っても恥ずかしくないくらいには。
「私が今日泊まってるホテルすぐそこなの。ちょっと上がっていかない?帰りたくないんでしょ」
その言葉が嬉しくて、間髪入れずに頷いた。「素直ね」
湊さんは笑って、ついておいでと声をかけた。湊さんの泊まっているのはビジネスホテルで、一人分の部屋はベッドとドレッサーでギチギチで、それに加えてコントラバスを置くと凄く狭い。
「座って」
湊さんがベッドに座るように勧める。ふと、携帯が鳴る。相手はお姉ちゃんだった。それより前から、何件もメッセージが届いていた。かなりご立腹の様子で、口の端が引きつった。
「オレンジジュースか、こっちの炭酸どっちがい…大丈夫?顔色悪いよ」
「え、あぁ平気です。少し冷えたかも」
「そう?空調つけましょうか」
湊さんがエアコンをつけてくれる。私はオレンジジュースを貰った。
「この後ご飯を買いに行こう。あと、映画でも観ない?」
「あの、なんでそんな風にもてなしてくれるんですか」
「お礼、かな。あんな重いの持つなんて気が触れてなきゃできない。それをやってのけた貴方にはそれ相応の謝礼を、ね?」
真面目、なのか。嬉しいのは間違いないから、甘んじて受け入れた。
「それより、貴方こそいいの?こんなホイホイついてきて」
「いいですよ。湊さんなら」
「あら、殺し文句ね。じゃあ、もうひとつ貴方を連れてきた理由を教えてあげる」
この部屋には私たち二人しかいないのに、なぜだか湊さんが耳打ちをする。
「…貴方のこと、放っておけなかったの」
それこそ殺し文句じゃないか。
朝をかたりたい 菅原 @konimao0512
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