20

人前に立つのは、多分苦手な方。

だけど、流される性格なせいで人一倍機会に恵まれる。

今だってそう。

ガヤガヤとうるさい講堂の舞台袖で、なぜだか自分の出番を待っている。手に握られた楽譜を再三読み直しながら、器用にもついさっきの出来事が脳内を反芻した。と、いうより色んな事がごちゃごちゃと脳内を散らかした。

つい、ほんの30分程前のこと。

屋上にて、私は彼女の"頼み事"というのを引き受けた。ろくすっぽ中身も聞かずに。そうして、色々な事を知った。

まず、"彼女"というのが今朝どこかで目にした『縦水 湊』という名前であったこと。本日2度目、こんな事あるんだと思わされた。不思議だけれど、会いたかった人とたまたま見かけた名前が私の中で細く繋がっていたのだ。そして名前を知って数分後、彼女が何者かも思い出した。

『縦水 湊』は、コントラバス奏者だ。

後に知るのだが、『縦水 湊』は業界では若手ナンバーワンを騙れるほどの逸材らしい。コントラバス自体がそんなにメジャーじゃないのでしらなかったけれど、その道では有名なのだそう。そんなとんでもない彼女が、ただの女子高生にする頼み事、というのは。

「でもよかった。代わりの伴奏者見つかって」

彼女のコントラバス演奏の伴奏だった。

ふっと思考の全てが消え失せて、真横に来た湊さんの事しか考えられなくなる。淡いブルーのワンピースに着替えてきた彼女は、黒髪を揺らしながら肩をぐるぐる回した。

「どう?出来そうかな」

曖昧な返事しか出来ない。練習はわずか数十分、演奏曲は3曲。どうにか頭には入れたけれど、成功するなんて確証はない。そしてなにより気になるのが、3曲目の楽譜がどう見たって『群青崇拝』と書いてあるのだ。譜面も何故か同じ。真相は、湊さんが着替えに行ったりでまだ聞けていない。

「あの…」

「よし、じゃあチューニングも兼ねて一回だけ合わせとこっか」

コントラバスと弦を持って、スタスタと緞帳の下がった舞台へと進み出ていく。躊躇うことなく中央に据えられた丸椅子に腰を下ろすと、ひとつ深呼吸をした。

綺麗な所作で、コントラバスを撫でるように奏で始めた。緞帳が下がっているせいで少し暗い中舞台上で、湊さんのいるそこだけが輝いて見えた。

「あ、この音」

オーケストラの演奏前、色々な楽器が鳴る中なぜだかよく目立つ音があった。低いから、音が大きいから、分からないけれど記憶に残る音だった。

一通りの確認が済んだのか、ふと湊さんがこちらを向く。

「ほら、時間ないわ。やりましょ」

手招きをして、ピアノを指す。今出てったら、本当に演奏することになる。後戻り出来なくなる。ぎゅ、と楽譜を握りしめた。

クラスの人とは話さないけれど、でも顔は知られてるもんな。バレるかな。後で茶化されるかな。緊張してきた。

自分でやると言ったから。

そうだ、言っておいてやらないなんて卑怯だ。それに、逃げたら湊さんに迷惑だ。

わかってる、わかってるのに、足がすくむ。

「一緒に逃げる?」

よく通る声が、舞台中央から響く。コントラバスを抱えたまま、彼女はこちらを向いていた。

「今日ね、本来ピアノ弾くはずだった人もね、逃げたのよ。今更、私が逃げてもあなたが逃げても一緒よ」

『どうする?』と、その目は言っている。頷いたら、本当に一緒に来てくれそうで。

だから、私は。

「逃げません。やります。弾きます」

楽譜を床に置いて、ピアノの方へ歩き出した。

「ありがとう」

湊さんが微笑んで、弾く準備をした。

「ごめんなさい縦水さん、お待たせしてます。今生徒全員揃ったので、そろそろ始めてください」

舞台袖にやってきた年配の教員に言われて、湊さんが弦を下ろす。お預けを食らった子供みたいにむくれたと思えば、すぐにキリッと表情を整えた。

「わかりました。緞帳上げてください、始めますね。あ、とその前に」

一度楽器を全て下ろして、湊さんがつかつかと私の前に来る。何事かと思ってる間に、シュルりと二つに結んだ髪が解かれて、広がった。それから、私に自分のかけていた眼鏡をかけた。

「眼鏡、貸したげる。これなら多少誤魔化せるでしょ」

気遣いは嬉しいけれど、その眼鏡はしっかり度が入っていて正直視界が悪い。ピアノの鍵盤はなんとなく認識できる。けど見えにくい事は間違いない。

「さ、始めましょう」

幕が上がる。

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