14
"照元 月出"。私のたった一人の姉。
6才離れているけれど、その顔は私と殆ど同じ顔。お姉ちゃんの髪が短くなければ、よく他人から間違えられる。
かつてピアノの天才と呼ばれたお姉ちゃんは、今は音楽学校のピアノ専攻科で教師をしている。新卒で働き始めたお姉ちゃんは、最近気性が荒くなった。きっと色々あるんだろう、と割り切って咎めないようにしている。
「あんた、手が汚い」
全身が汚いことも、片頬が真っ赤なことも何も心配しないのに、ピアノに触る手が汚い事だけは気に触るらしい。
「ごめんね」
また謝って、私はポケットからハンカチを出した。あげる、と言われて渡されたハンカチは真っ白でレースのついた上品な物。それを、擦り傷から滲んだ血や泥で染める。
納得したお姉ちゃんが、部屋のドアを開ける。狭い部屋は、壁一面が本棚になっていて、楽譜や音楽教本でいっぱいになっている。入口から向かいの壁は、大きな窓がはめられていて、暗い外で今も雨が降っている。
畳の上で、場違いで立派なグランドピアノが一際存在感を放っている。
「"月光"な」
そう言って、お姉ちゃんがピアノの前に座る。
"月光"又の名を、"ピアノソナタ第14番"。
何も言わないってことは、全楽章やるつもりだろう。
ため息が出そうになる。明日学校があるのは、お姉ちゃんも変わらないだろうに。
仕方なくお姉ちゃんの横に腰を下ろして、弾き始めるのを待つ。
月光の連弾は、たまにやるけれど毎回私が即興で合わせていく。元の曲は頭に入っているから、それに合うように音を自分の中で組み立てるのが私のやり方。
本当は、ピアノを弾くのが嫌い。この部屋に入ることが嫌だ。だって、両親が詰まった部屋だから。私達を捨てた両親の全てがこの部屋に詰まっているから。
お姉ちゃんのショートヘアが激しく揺れて、力強くでも切なげに、音を奏で始めた。もう、お姉ちゃんにはピアノの音しか聴こえていない。私は、辿るように合わせていく。
私が物心ついた頃、もう既に両親はいなかった。血縁でもない、比企という夫婦のもとで私達姉妹は育った。比企のおばさん達も、お姉ちゃんも、誰一人として両親の話題に触れなかった。存命だという事実だけを告げられ、何も知らず疑わず私は両親に捨てられた、とただ思った。
お姉ちゃんが、私に構わず先を弾き始める。
置いていかれたくない、と必死に食らいついていく。本当は不気味さを感じる所なのに、お姉ちゃんはどこか嬉しそうな顔で弾いている。なら、私も。
4年前。お姉ちゃんは大学進学を機に、比企の家を出てこの家に引っ越すと言い出した。薄々気づいていた。高校3年間をバイトに費やして、家にいる事が減っていたのは目に見えてわかった。本当は、お姉ちゃんはあの家に居心地の悪さを覚えてた。おばさん達は、私達を本当の娘の様に可愛がってくれていた。けど、私と違ってお姉ちゃんには両親の記憶がある分、いつまでもあの家は"他人の家"だった。だから、急いであの家を出ることばかり考えていたんだと思う。お姉ちゃんには、私が見えなくなっていた。その事実をわかっていながら、私はお姉ちゃんについてきた。理由はそう、たった一人の家族で、姉だから。
「あ…」
2楽章への差し掛かり、本来しっとりさせるはずの所を私は無駄に盛り上げてしまった。勿論、その音は曲にそぐわず、ただ場違いさだけを恥ずかしく残していった。
拳が飛んでくるのを覚悟して、目を瞑る。
けれど、いつまでも経っても衝撃は来なかった。薄目を開けて、お姉ちゃんを確認する。
綺麗なお姉ちゃんの横顔は、天井を見上げながら、頬に透明な線が走っていた。穏やかな顔をして途切れ途切れに息を吐いている。まるで、呼吸を初めて知ったみたいな、下手くそな息の吐き方。
「おね、ちゃ…」
「今日はもう終わりね。明日も学校でしょ。寝ようか」
笑って、言う。その顔が、さっきと違いすぎて、不気味という感覚を思い出した。
部屋から出ようとするお姉ちゃんは、最後に振り返って「おやすみ」と、微笑んだ。
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