11

土砂降りの中を、傘もささずに駆け出した。

大雨なのに、人の往来は激しい。先の道を照らす街灯がぽつりぽつりと点在する中に、彼女の姿を見つけた。赤い傘の下で緑の黒髪が揺れているのが見える。

その背中を必死に追った。掠れた声で待ってと告げても、雨の音に掻き消されて遠く及ばない。

川になりかけのアスファルトに足元をすくわれる。あっという間に、全身がアスファルトの上で強かに跳ねた。痛みに悶えるなか、冷たい雨が四肢を打ちつけてくる。人の足音がすぐ間近で聞こえた。

無様だな。惨めになってきた。

擦りむいた手足を動かして、立ち上がろうとしたその時、私の頭上の雨が止んだ。視界が淡い赤に染まって、仄かに鈴蘭の香りがした。

見上げれば、そこにはあの人がいた。真っ白い陶器のような肌に、射抜くような澄んだ真っ黒の瞳が一際印象的だった。

端正な顔立ちは、心配したように歪んでしまっている。

「あなた、大丈夫?」

声も綺麗だった。心地よくて、ほんの少し舌の足らない発音が更に刺さる。

冷たかった全身に、熱がこもってきた。何を言おうか模索して、目が泳ぐ。

「さっき、演奏していた子よね」

伸ばされた手が、私の為にそこにあるのか疑った。こんなにも綺麗な人が、自分に手を差し伸べている事が信じられなかった。

「覚えてて、くれたんですか」

ガラガラの声が彼女の耳に入ってしまう事が申し訳なくなった。汚している気になる。

「勿論、とっても素敵だったもの」

彼女は私の手を握って、地べたにある私の体を優しく起こした。私も細い方だけど、彼女はもっと華奢だ。器用に傘を差しながら、私の肩に腕をまわして立てるように促した。サラリと顔にかかった黒髪に、私の首とお揃いの朱色が見えた。真っ赤なリボンが彼女の横髪で蝶々を模して佇んでいる。よくある、どこにでも売っている物だから、気にする事はない。なのに、こんなにも胸が踊る。運命と信じるには十分すぎた。


とっても素敵だったもの


彼女の言葉が反芻する。

追ったことは間違いじゃなかった。あの瞬間、見つけた気がしたんだ。特別な存在を。

「あなたの歌…」

彼女の薄い唇から発せられる、細い声がやたら大きく聞こえた。雑踏の中にいながら、雨の音も人の音も聞こえない。ただ、まるで世界に2人だけになったように、彼女の声だけが聞こえる。

彼女が先を続けた。

「あなたの歌、映画や劇を観ている気分になったわ。感情が、そのまま歌と演奏に現れていた。正直すぎるくらいにね」

彼女が視線を持ち上げると、瞳を通して心を射抜かれた。私の内側の奥深くに、彼女の視線が潜り込んでくる。

「きっと、あなた自身が素直なんでしょう」

その、一言に私の全てがすくわれていく。

努力も、工夫も、私という人間も。過去の知らない誰かのものにされてきた。まるで、私なんか初めからいなかったかのように。

けれど、貴女は。

私が貴女を見つけたように、貴女も私を見つけてくれたんだ。あんな拙く、醜くすらある音楽の中に。

「愛してる」が、口の中で溶けていく。

それを言うには、彼女を知らなさすぎる。だから、知らなくてはならない。何も無い私を見つけてくれた、彼女の全てを。

語れるくらいに知りたい。

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