第3話
次の日の放課後。
教室はいつにも増してにぎやかだった。
みんな、どの部活に見学しに行くかとか、もう入部したとか、部活の話で持ち切りだ。昨日部活動紹介があったからだろう。
人気は弓道部。だけど、毎年三十人入部しても八割が辞めちゃうらしい。
野球部の顧問は怖いらしい。でも、地区大会でさえ一回戦で敗退するらしい。
調理部に入ると、一年で三キロ太るらしい。
そんな、どこから仕入れたんだって感じの情報が飛び交っている。入学して一週間で友だちができたり、学校の噂を入手してきたり、みんなすごいな。あたしにはできない。
騒がしい教室をひとりで飛び出して、あたしは第二校舎へと向かった。教室のある第一校舎と比べるとほこりっぽい階段をのぼり、四階へ。
まだ足を踏み入れたことのない領域だ。なぜか泥棒になったような気分で、足を潜めてしまう。
廊下を北へと進み、突き当たりまで行くと、木くずのかおりがしてきた。古い紙のようなにおいもする。
ドアにはめこまれた磨りガラスからは、傾きはじめた陽の光が漏れている。
「ここが美術室か……」
ネクタイが緩んでいないか、スカートの丈が新入生にそぐうものか、たしかめる。
そして、深呼吸を一回、二回。
意を決してドアに手をかけ、ゆっくりと開ける。
「こんにちはー……」
美術室はがらんとしていた。整然と並んだ机が、水面のように日差しを反射している。木くずと紙のにおいが強くなった。
もしかして、だれもいない?
そう思って一歩、美術室に足を踏み入れたとき。
日差しが人のかたちをとったかのような唐突さで、窓際に人影が見えた。
もちろん、そんなわけはないので、最初からそこにいたのだろう。作業着代わりなのか、黄色いパーカーを羽織っているから、なおさら西日に溶け込んで見えなかったのだ。
中途半端な長さの黒髪。線の細い身体。舞台に上がっているのを見たときには遠すぎて気づかなかったが、瞳は黒曜石のような深い色をしていた。
「……」
「……」
あたしたちは、無言のまま見つめあった。空中に舞うほこりだけが、ゆらゆらと動いている。
「あのー……」
あたしから沈黙を破ってみる。梅若先輩はびくりと身体を硬直させた。右手に握られた絵筆が、キャンパスを汚してしまわないか、あたしの方が心配になってしまう。
あたしは笑みを浮かべて、少し腰を折った。
「見学、いいですか?」
あたしがそう言うと、先輩は肩の緊張を解いた。絵筆を置き、こちらに歩み寄ってくる。
「あっ、ごめんなさい。一年生か……見覚えないからあんまり来ない部員だったかなと思っちゃって……どうぞ、といっても、特に見せるほどのことしてないけど」
「えっと、今日は部長さんひとりですか?」
「ああ、うん。三年生四人、二年生は三人いるんだけど、ほとんど来ない。みんな展覧会にひと作品出すだけの幽霊部員だから」
先輩は部活動紹介のときと同じ、何とも思っていない顔で言うと、元いた席へと戻ってゆく。あたしはあとを追って美術室の中ほどまで進んだ。
椅子に座った先輩が、キャンパス越しに問いかけてくる。
「えっと、名前は?」
「茜谷まほろです。一年七組です」
「他の部活も考えてるの?」
「いえ、特には……。見学に来たって言いましたが、もう入部決めるつもりで来ました」
先輩はちらりとあたしの右手を見た。ような気がした。
あたしは、美術の授業以外ではまともに絵を描いたこともない右手を、スカートのうしろに隠した。
美術部に興味を持ったのは、部活動紹介のときの先輩の、人を寄せつけない雰囲気にひかれたからだ。こんな不純な動機じゃ、先輩はがっかりするかな。
「そう、よろしくね」
先輩は何も気づかない様子でうなずいた。部員が増えるというのに、喜びの表情ひとつ見せなかった。
「はい。よろしくお願いします」
「一年生の入部は来週からだけど、今日はどうする?」
「えっと……じゃあ来週から来ます」
先輩はもう、キャンパスに目を向けてしまい、あたしなんか目に入らない様子だった。あたしは大人げなくムキになって、先輩の視線をこっちに向かせたくなった。
「何か持ってくるものとかありますか?」
「絵の具でも彫刻刀でも、自分がやりたいことに必要なものかな。ひと通り画材はあるから、特にこだわりがなければ、ここにあるものを使っていいよ」
先輩は絵筆を持ち直し、パレットに目を落とした。
「先輩は毎日部活やってるんですか?」
「うん。わたしだけは毎日来てる。でも、絶対毎日来るようにとは言わないから、来たいときだけ来たらいいよ。別に、休むって連絡もいらないし」
先輩は顔を上げるが、見ているのはキャンパス。もうひと押し、と思ったけど、それは叶わなかった。
「じゃ、来週、待ってるから。新入生歓迎会とかはないけど」
無理やり話を切り上げられては、帰るしかない。美術室をあとにし、階段をおりることにした。
あたし、幽霊部員になると思われてるのかな。
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