第4話

 あたしには人と違うところがあった。

 大好きだった人に思いを伝えたら「あんた普通じゃないよ」って言われた。

 それは去年の夏のこと。


 普通って、何なんだろう。

 あたしにはあたしの普通があって、あの子にもあの子の普通があって、それが違っただけのこと。

 だけど、あたしの普通は少数派で、だから世間一般では「普通」と言われないことを知ったのは、そのときだった。


 それから、あたしは本音を隠し、みんなと同じ色に染まれるように努力して、人を好きにならないように心に決めて過ごしてきた。

 心の扉だけじゃなく、門にまで鍵をかけた。

 同じだから、先輩のことも気になったのだ。

 何か、重いものを背負っているんじゃないかなと思って。


 自分の鍵は開ける気がないくせに、先輩の鍵を開けてあげたいなんて……そんなふうに考えるのはおかしいかな。



 美術部に入部を決めた次の日。

 あたしは紙袋を提げて第二校舎の四階へと赴いた。

 西日を受けるドアを開け、元気に挨拶をする。


「こんにちは」


 昨日と同じ位置でキャンパスに向かっていた先輩は、こちらに視線を投げかけ、あたしの姿を確認すると、目を見開いて固まってしまった。

 まさか、また幽霊部員の顔と照合してる?


「昨日見学に来た茜谷まほろですよ」

「いや、さすがに覚えてるけど……何? やっぱり入部やめますとか言いに来たの?」


 先輩はキャンパスに隠れてしまうような猫背であたしを見上げてきた。何だか、人間に心を閉ざしている猫みたい。


「違いますよ。美術部の活動をしに来たんです。あたし、今日から入部します。昨日必死に小学生のころの絵の具を探してきたんですよ」


 あたしは紙袋をがさりと見せつけて、先輩のとなりの席に腰かけた。袋から、十二色の水彩絵の具を取り出す。子どもっぽいビニールのチューブで、先輩が使っている金属チューブからすると見劣りするけど、絵が描けさえすれば部活はできる。


 先輩はまだ幽霊部員が実は人間だったのを知って驚いたような顔をしている。ほうけたままで「ああ、そう」とオレンジ色の絵の具をパレットにぶにゅっと出した。もうすでに、オレンジ色はたっぷり用意してあるのに。

 あたしは気合い十分で、使い古した絵筆を構えた。


「てことで、早速教えてください」

「何を?」

「絵の描き方ですよ」


 先輩は、パレットの上のオレンジ色を筆先でつつくのをやめると「ええ?」という顔でこっちを見た。実際に「ええ?」とは言ってないけど、艶のある漆黒の瞳がそう言っていた。


「教えることなんてない。絵は教えられるものじゃないよ」

「何でですか? 先輩なのに」

「先輩扱いはしなくていいって言ったでしょ。部活動紹介のときに」

「部長扱いは、じゃないんでしたっけ?」


 先輩はごまかすように、への字に結んだくちびるをもぞもぞと動かした。

 そして、じゃれついてくる子犬を追い払うように、乾いた声で言った。


「絵なんて描きたいように描けばいいよ。わたしだって教えてもらったわけじゃないし」


 先輩は絵のことで何かあったのかな……。

 一年生のころも、たったひとりで部活をやってたのかな。

 あたしは何も言い返せず、とりあえずパレットに絵の具を十二色出してみる。バケツに水を汲み、筆を濡らしたところで、はたと気がついた。

 物音が止まったからか、先輩がこちらを向いた。何もない机を一瞥して、表情も変えずにあたしの目をのぞきこんだ。たぶん今、あたしの顔、ちょっと赤くなってる。


「スケッチブックも何もないの?」

「も……盲点でした……」


 いつもは忘れ物なんてしないのに!

 美術なんて、慣れないことをしようとするからだ。頭を抱えていると、となりからぱちんと小さな音がした。


 先輩が、あたしと会ってから、はじめて筆を置いてくれた。


 席を立つとロッカーへ向かい、がさがさと音をさせたかと思うと、一冊のスケッチブックを差し出した。ぱっと出されるとA4とかB3とか、サイズなんて分からないけど、一般的と思えるスケッチブックだった。

 何事かと、先輩とスケッチブックとを交互に見てしまう。


「わたしのストックあげる」


 その言葉の意味を理解するのに数秒必要だった。


「えっ、いや、ダメですよ! あたしなんてズブの素人だし百均ので充分……」

「ちゃんと部活に来る後輩ができるなんて思ってなかったけどさ」


 先輩の声は相変わらず抑揚が少ないけど、少し肌触りが柔らかくなったような気がする。ほんのり血色が良くなった頬を、黄色いパーカーの袖で隠している。


「もしできたら、ちょっとは先輩らしいことしたいな……とは思ってた」


 先輩の心の門が開いた音が聞こえたような気がした。いや、鍵を錠前に差し込んだ音かな? どっちでもいいか。少しは近づけたということだから。


 あたしは立ち上がり、先輩の手からスケッチブックを受け取った。握手をするようなこそばゆさに、くちびるを噛んで先輩をちらっと見ると、先輩もくすぐったそうな顔をしていた。


 あたしは少し考えてから、スケッチブックを先輩に返した。先輩は戸惑いを浮かべた瞳で見つめてくる。


「ありがとうございます。でも、あたしにはまだ早い気がするんで……見てていいですか?」

「何を?」

「先輩が描いてるとこ」

「え、やだ」


 心の門が閉まった。ついでに二重ロックにされた気がする。


「何でですか」

「いや、わたしは見られてると緊張するっていうか、実力を発揮できないというか」


 先輩はもぞもぞと言い訳をし、スケッチブックで目の下まで隠してしまった。


「大丈夫です。あたしのことは空気だと思ってください。まだ入部してないものと思ってください」


 ダメ押しで畳みかけると、先輩は視線を泳がせながら小さくため息をついた。

 あんまり嫌そうじゃない、柔らかいため息。


「じゃあ……勉強するぞとか参考にしようとか思わないで、適当な気持ちで見ててくれる? テレビのCMを流し見するみたいな。そうすればたぶん、緊張しなくて済む」


 先輩は大真面目に謎理論を語った。部活動紹介のときのクールさからは想像もつかない。席に戻り、絵筆を握った先輩の手は少し震えていた。


「ええ? あたしの気持ち関係ありますか?」

「ある。大あり。失敗したら茜谷さんのせいだから」


 はじめて名前呼ばれた!


 あたしは今この瞬間、美術部への入部を本当に許可されたような気がした。

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