2:いざなう風
薄っすらと、瞼を開いた。一輪の花が、横たわってくたびれていた。ユイカの選んだ花だった。
意識を取り戻したところで、どうする気も起きなかった。ひとりを、ひとりで、理解する。たった今なす術なく奪われていったものが、己の全てだったこと。それだけのために生きようとしていたこと。それらを順番に自覚して、あたしはただそこに寝そべっていた。物言わず、微動だにせず、ひとりきりで。
あの子はどこ。あたしのたった一人の妹は、どこに行ってしまったの。もう帰ってこないの。どうしてあの子が。これからどんなひどい目に遭うの。まだ十二になったばかりの、幼くて無邪気でかわいらしい妹。返して。どうか、返して。代わりにあたしが囚われたっていい。だから、あの子を、ユイカを、返して。返して。
突然、腕をつかまれた。持ち上げられて、立たされる。下卑た笑い声を遠くに聞いた。黒くて毛むくじゃらの太い腕だった。引っ張られる。足が動く、歩かされる。どうだっていい。どこでも好きなところに連れて行けばいい。どうせあたしに行く場所なんてない。あの子がいないなら、どこにも行けない。どこに行ったって仕方がない。どうだっていい、何だっていい、あたしに意味はなくなった。ユイカ。どこにいるの。どうしたら取り戻せるの。あたしは何をすればいいの。この無力なだけの両手で、何ができるの。
もうひとつ、腕を取られたのはそのときだった。感じたのは、風。
「あ? 何か用かい、お兄ちゃん。いや、まだガキか」
最初にあたしをつかんだ方の男が、たぶんそんなようなことを言った。二の腕に太い指が食い込む。痛い。放してほしいけれど、でも、放されてしまったらどこに行けばいいのか分からなくなる。それはとても、怖かった。
「こんなガキでも一応白軍なんで、こういうことは見過ごせないんです、おじさん」
次にあたしの腕を取った方は、最初の方の腕と比べて、ずいぶんと細かった。辿ってみると、袖に小さく白の紋章が刺繍されている。かなり若い声だが、自称するとおり白軍らしい。腹から何かが込みあがってきて、喉の奥が詰まった。腕が震える。恐れじゃない。そうではなくて。
「おーおー、夜遅くまで任務ご苦労さん。お利口さんだな。お利口さんついでに見逃してくれよ。ほら、いい月じゃないか。おれは誰にも邪魔されずこの夜を楽しみたいんだ。お前さんだって痛い目には遭いたくないだろ?」
「ご心配どうも。だけどそういう目には遭わないで済む自信があるんで大丈夫です。おじさんこそ、夜を楽しめなくなる前に別の楽しみを探した方がいいと思いますよ。もっと全うな、さ」
「へへっ、最近のガキは生意気でいけねえや。おれたちみたいなおじさんが、ちゃんとしつけてやらねえとな」
太い腕が離れる。行く場所がなくなる。怖い。そう思ったとき、細い腕に強く引かれた。何の抵抗もしない身体はひとりでによろけて、横に倒れる。見上げると、背中が見えた。庇われていた。刃物を振り回しながら、男が飛び掛かっていく。白軍の方は、腰に提げている剣を抜くことすらしなかった。横に振り回されたナイフをさっとかがんで避け、がら空きになった巨漢の腹へ膝を。肉を打つ音がして、次に甲高い音が鳴った。ナイフが落ちた音だ。男が呻く。両膝を突いたそいつを見下ろして、若い白軍が言った。
「連行をご希望ですか。エルティまで来てもらうことになるけど。それとも、大人しくこの町を出る?」
「ぐ、てめえ」
「そんな強く蹴ってないから、もうすぐ動けるようになるよ。早めにご退去願います。じゃあ、これにて」
白軍は踵を返すとあたしのところまで歩み寄り、再び左腕を取った。ゆっくりと立たされる。なぜ。なぜあたしは助けたのに、ユイカは助けなかったの。相手がただの荒くれなら助けて、貴族なら無視をするの。振り払う。冷えた指は簡単に離れた。
「ここの住民?」
全然気にかけない様子に、さらに腹が立つ。本当は分かってる。礼を述べるべき場面だと。でも、あたしは助かってない。連れて行かれることを拒んだわけじゃないから。
「あちこち怪我してるけど、それ、今じゃないよな。半日くらい前か?」
「放っておいて」
鬱陶しい。目を落とせば、二人分、影が伸びている。あたしと、もうひとり。だけどユイカのものじゃない。ユイカは、もう、あたしのところへは帰らない。遠いところに、連れて行かれてしまった。
「悪いけど、そういうわけにもいかなくてさ。とりあえず安全な場所に行ってもらわないと困る。ここ、裏通りな? ああいうのが一杯いるから」
「放っといてよ!」
「だから、そういうわけには」
また、腕を引かれた。顔が白軍の胸にぶつかる。耳元で空気が鋭く唸った。ナイフの音だ。
「手加減しすぎたかな。さっきので懲りてほしかったんだけど」
「口の達者な坊やだ。今度はこっちが懲りさせてやるぜ」
再び白軍に背中へ庇われそうになったが、その前に身体をよじって、腕を振り払った。助けられたくない。あたしだけ、助かりたくなんかない。
「待てよ、危な――」
「形勢逆転だな、小さい白軍さん」
強い力で引き寄せられる。ナイフの男の方だ。首に冷たい金属が触れる。また、あの下品な笑い声が耳元で鳴った。人質にされたらしい。
「剣は抜くなよ。そのまま三歩近づけ」
白軍は溜息をひとつ落とした。少しも躊躇うことなく、大人しく従う。一歩、二歩、三歩。静止。
「さっきはどうもな。よけるなよ」
ナイフの男の蹴りが飛ぶ。十分によけられる間があったのに、白軍は身動きひとつしなかった。丸太のような足は勢いのまま綺麗に腹に入る。重い音がした。手加減のあった先ほどとは違う、容赦のない一撃だと分かった。そのまま飛ばされて、白軍は建物の脇に積んであった樽や木箱に突っ込んだ。砂埃が舞う。木が軋み、それから割れる音がした。若い男は一声すら発しなかったが、さすがに胸が痛んだ。思わず寄ろうと動けば、刃が食い込んで今度は首に痛みが走った。男が笑う。大声で。
「おーっと、お嬢さん。動いてもらっちゃあ困る。行こうか。邪魔者はいなくなった。お楽しみはこれからだ」
やはり強引に、腕を引っ張られた。方向転換させられると、もう何も見えない。罪悪感がこみ上げてくる。逃れようとしたが、強く握られていて、できない。まさか死んではいないだろうが、怪我はしただろう。痛々しい音だった。あたしがこの男に捕まっていなければ、もしくはさっさと逃げていれば、そうはならなかっただろうに。ごめん。今さら謝っても何にもならないのだけれど、心の中で謝罪する。それでも胸の疼きは消えず顔を俯けた。
その途端、ふいに風が吹く。背中からの涼しげな風だった。揺れた髪が頬を撫でる。振り返ると同時に、またもや、腕を取られる。
「これくらい、勘弁しろよ。こっちはもっときついのもらってんだから」
言いながら素早く動かした右腕には短剣が握られていて、ナイフの男の手首の端をちょっと斬った。あたしの腕に食い込んでいた指の力が、瞬間、緩む。同時に抱きすくめられた。温度を感じる。風が吹いた。強い風だ。足が離れて、身体が浮いた。瞬きひとつ分の静寂、そして。視界の両隅で景色が飛んでいく。ナイフの男がどんどん遠くなって、遠くなって、やがて見えなくなって。ああ、助けられたと理解する。助けられてしまった。なぜ、あたしなんかを。
「よし、と」
ゆっくりと身体が下降して、足が地面についた。自由になる。明るい場所に来ていた。月の光が降り注いでいる。広く開けたところだ。
「中央広場な。強行突破だったけど、悪く思わないでくれ。何があったのかは知らないけどさ、自棄になったってろくなことにはならないからな。大人しく家に帰れよ」
白軍のつま先があたしの方に向いた。家なんて、あたしにはもうない。必要ともしていない。
「あたしなんか、なんで助けたの」
「なんでって。仕事だから?」
「お腹、平気なの?」
「ああ、あれ。ちょっと堪えたけど、まあ、慣れてる」
顔を上げた。初めて、白軍の顔を見る。思っていたよりずっと若い。たぶんあたしと変わらないくらいの年だ。翡翠のような、澄んだ目が真っ直ぐあたしを見ている。強い光を持つ目だなと、ぼんやりそう思った。
「あの……ごめん」
「何が?」
「何がって」
もう一度、視線を下ろす。ところどころ破れた袖のあちこちに血が滲んでいた。割れた木が刺さったのだろう。蹴られた腹にも、ひどい痣ができているはずだ。骨が折れていなければいいのだけれど。
「あたしがいなければ、怪我なんてしなかった」
「別にいいって。このくらいで怪我って言ってたら、白軍なんてやってられない。それに、すぐ治せるから」
白軍は右手をかざした。そこに生まれた光があたしの方へふわりと寄ってくる。淡い青、綺麗な色だな、と思う。ひやりと冷たい感触がした。腕を見る。擦り傷と痣が消えていって、最後には見えなくなった。頬や腹の痛みもなくなっている。
「その傷、どこで?」
短い質問に、あの光景を思い出した。抱え上げられたユイカ。涙を幾筋も走らせて泣いていた。動けなくなったあたしの前で、妹はどんどん見えなくなっていった。何もできなかった。身体が震える。あたしは、無力だ。白軍が身じろぎした。
「……悪い。送るよ。家は? それとも宿?」
首を振っていた。家も宿もない。そう、あたしに帰る場所なんてない。行くあても。あたしは、ひとりだ。白軍が何も答えないあたしに、困っているのが分かる。けれども催促はなかった。
「ごめん。何でも、ない」
「名前は?」
「え?」
「名前」
唐突な質問に、思わず首を傾げていた。名を聞かれているのだとようやく悟って、答える。
「ユウラ」
かすれてしかも小さくて、きちんと届いたか不安だった。しかし白軍はひとつ頷く。そして、言った。
「行く場所がないならさ、ユウラ」
風が吹いた。後ろ髪と破れた裾が遊ぶ。背中をそっと押し出すような、そんな優しい風だ。とてもとても、温かくて。
「来いよ」
言われて、そっと、白軍の顔を窺った。白軍は微笑んでいた。その笑みがとても優しくて、なぜか、胸が一杯になった。多分、一生忘れられない。
「う……」
最初に、声が零れた。次に、熱い雫が眦から溢れる。堪え切れなくなって、あたしは、ついに。
「うわああああっ!」
小さい子がそうするみたいに、大声で叫びながら泣いた。声も、涙も、止まらない。知らない間に目の前の人に縋りついて、わんわん泣いた。泣いてもどうにもならないことは知っていたのに、それでも止まらなかった。遠慮がちに背中を撫でられて、それでまた泣いた。延々と、ひたすら、声が嗄れるまで泣き続けた。
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