アネモネの埋葬 (ネロ短編)
「前髪切った方が良いよ。」
アンネと名乗った大人しそうな女の子に断言された時、ネロは驚いてゆっくりと瞬いた。どうして気づかなかったのだろう。
「確かに、もう切ってもいいのかもしれない。」
魔法学校へ行くことが決まって、もう家を出たのだから前髪を放っておく必要なんてなくなったのだ。このうっとおしい前髪を切れば、視界も晴れて世界がもっと綺麗に見えるのだろうか。それはきっと正しくて、けれどもネロにとって少し寂しくもあった。それは今まで大切に抱え込んできた歪な執着を手放すことと同義だったから。
「大きなゴミ袋と、鋏持ってきた。鋏、文具用のしかなかったけどいい?」
早速髪を切ってくれると言うので、寮のロビーでソファに座って待っているとアンネはゴミ袋と鋏を手に持って駆け寄ってきた。
「鋏に文具用じゃないとかあるの?」
首を傾げると、アンネは驚いたように少し目を見開いた。
「あるよ。美容室の人が使うやつ。私の家は前髪だけ家で切ることもあったから、家にもあった。」
「そうなんだ。」
何にも知らなかった。そっか、美容室に行って切るのが普通か。
「じゃあここに座って。」
考え込んだネロを気にしないで、アンネが後ろに回りやすい椅子に席を指し示す。
「誰か来ないかな?こんなとこで散髪なんて誰かが通りかかったら奇異の目で見られる。」
ネロは開放的なロビーを見渡す。四つの寮の真ん中にあるロビーは、たとえ今の時間が朝の六時なのを考慮したって人通りが少ないとは断言できなかった。
「大丈夫だよ。切らないでそのうっとおしい前髪を晒してた方がそうなるから。」
「酷い。」
「私の優しさだよ。」
アンネはネロの文句を容赦なく切り捨てると、赤い鋏を手に取った。
「じゃあ切るね、目を閉じて。」
前髪に冷たい鋏の刃が当たる。目を閉じた瞼の裏で、ネロは前髪を頑なに切らなかった執着について、追想した。
「ネロ、前髪大分伸びちゃったね。」
じっとこっちを見つめる瞳に幼いネロは嬉しくなる。やっとこっちを見てくれた。いつもは何を聞いても答えてくれないのに。
「切ってあげるからじっとしてて。」
母はチラシの紙を投げて寄越した。膝にチラシを載せて、落ちてくる髪を受け止められるように構えた。
「目、つぶって。」
銀色の刃が光る。ぎゅっと力を込めて目をつぶる。ひんやりとした鋏が額に当たって、さくっと音を立てる。さくっ。さくっ。さくっ。
「あ、切りすぎた。」
ネロがその声に目を開けると、母は半笑いで鏡を手渡してきた。覗き込めば、眉よりだいぶ上で切られた不揃いな前髪が映っている。
「散髪屋に連れていけなくてごめんね。」
少しした後、静かに呟いた母に、っきまで笑ってたのにとネロは残念に思う。
「気にしてないよ。お母さんに切ってもらうの好きだし。」
「本当?」
「……多少友達にはなんか言われるかもだけど。」
「駄目じゃん。」
そう言って微笑んだ母を見て、ネロも嬉しくなって笑った。いつぶりだろう。お母さんとこうやって話すのは。前髪が伸びてきたら、お母さんが切ってくれる。
「前髪伸びちゃった。」
そう言って恐る恐る見上げると、母は疲れた顔でネロを見た。
「はいはい、おいで。」
やっと目が合った。嬉しくなって、ネロは引かれた椅子に座る。ご飯の時に話しかけてもただ黙々と食べて返事をしてくれないお母さんが返事をしてくれた。学校で転んで帰ってきても、傷に視線さえくれないお母さんが、前髪を切ってくれる。鏡に映る不揃いな前髪を見てネロは笑った。
「前髪、伸びてきたから切って欲しい。」
床に座り込んで、たばこを吸っていた母はその声が聞こえなかったかのように何も答えない。もう一言、なにか言おうとしてネロは口をつぐむ。その口からは空気が漏れただけだった。言葉にならない失望が空気の中に溶けてゆく。きっと前髪が伸びたら、また切ってくれると思い込んでいた。前髪が伸びていたってもう、駄目なんだ。もう、お母さんが僕を見て笑ってくれることはきっとない。それでも、前髪を伸ばすことはやめられなかった。希望が裏切られることと、自分で断ち切ることは似ているようで違う。伸びきったら諦めて、鋏を手に取った。繰り返されるそれはまるで自傷行為だ。
「ネロの目って青かったんだ。髪に隠れてたから黒に見えてた。綺麗。」
そう言ったアンネの瞳がとても真っ直ぐで、ネロは悪い夢から目が覚めた時のような感覚を覚えた。その小さな手で僕を掬い上げて欲しいなんて言えないけれど、前髪とともに無駄な執着を切り捨ててくれた彼女と共に歩いて行けたなら、きっと今まで見えていなかった世界を見せてくれるに違いない。そんな期待に胸を膨らませて、ネロは「ありがとう」と静かな声でお礼を言った。
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