第3話 ウィザードクロス
ソフィア校長の声は広間に響き渡った。今、初めてアンネはふわふわと夢の中を漂っていた心を無理矢理引き戻された感覚がした。
「以上だ。学校のカリキュラムや生活の説明はヴォルガンに任せる。」
カツカツとヒールの足音を響かせて壇上から降りて、ソフィアは壁際にある椅子に座る。それと入れ替わるようにして、壁際に立っている三人の教師の中から黒い神父服を身にまとった男が壇上に上がる。
「校長に代わって副校長兼、テルミレイズ寮寮監督のヴォルガン・ブルームがこれからのことについて説明する。まず、これから寮分けを行う。寮分けにはこの水盆を使う。」
ヴォルガンは木製の演台に置かれた半透明の水盆を指し示す。一見、ガラスで出来ているように見えるが、それにしては光の入り具合にムラがある。
「この水盆に血液を垂らすと皆の試練の記憶を辿り、水盆が素質を判断して寮を決める。寮は全部で四つある。まずはローラムファスト寮。」
そう言ってヴォルガンが指先を空に向けて開くと、そこから赤い光が踊るように
「近接戦闘の訓練をカリキュラムのメインとする寮だ。身体強化の術式や武器の変形術式などを習得する生徒が多い。次にレイモンド寮。」
今度は青い光が指先から放たれた。形作られた天使は石のついた杖を振りかざしている。
「遠距離戦闘の訓練をカリキュラムのメインとする寮だ。飛び道具の術式、あるいは味方の援護になる術式などを習得する生徒が多い。次にウィルメイゼル寮。」
指先から放たれた光は緑。天使は小瓶を大切そうに抱えている。
「魔法薬や呪術を学ぶカリキュラムが組まれている寮だ。」
ウィアメイゼルの名前を聞いて、隣に座っているネロにだけ聞こえるようにそっと囁く。
「さっきの先輩の寮だ。」
「シーッ。」
ネロは人差し指を口の前で立てる。アンネは声ひそめてるんだから少しくらい喋ってもいいじゃないか、と唇を尖らせた。
「最後に、テルミレイド寮。この寮のカリキュラムは座学が主になる。戦場においては使い道がない魔法を習得する生徒が多い。」
次に放たれた光の色は黒く、もはや光ではなく影だった。天使の形をした影は床に垂れ下がるほど長い鎖を手にしている。生徒たちはそれを見て、少しざわついた。さっきまでの三つの寮の天使は割とわかりやすかった。近接戦闘を学ぶ寮が剣、遠距離戦闘の寮が杖、魔法薬を学ぶ寮が小瓶なのは納得できる。が、テルミレイド寮の天使が鎖を手にしているのは関連性が感じられず、あまりに唐突だと感じた。ヴォルガンもそれに気づいてはいるのだろうが、私語をする生徒たちに視線を向けることもなく説明を続けた。
「皆には以上の四つの寮に分かれて学んでもらう。このナイフを使って、」
彼は演台の上にあったナイフを手に取ると、そのまま銀色に光る刃を手の甲に滑らした。赤い線が走り、水盆の中にぽたりと血液が落ちる。透明な水の中に滲んで広がり、すぐにわからなくなるはずの一滴の赤い血は、水盆の中に落ちた瞬間、黒く変化した。そうして、血液自体がまるで意思のある動物かのように揺らぎのない水の上に模様を描いていく。描かれたのは鎖。
「このように血を垂らすと振り分けて水盆が紋様を描いてくれる。早速、一人ずつやっていくが必要な血液は一滴なので深い傷をつけないように注意して扱ってくれ。」
生徒たちは声を潜めて顔を見合わせた。
「切るんだ……。」
不安と喜びの入り混じったような顔で呟いたアンネにネロは眉を
「その複雑な表情はなに?」
「能力行使の代償みたいでそそるなぁって……。」
「あぁ、そう。」
ネロは恍惚とした表情でのたまうアンネに、なんともいえない微笑を浮かべて口を閉じた。
一人目の背の高い少年が水盆の前に立った。少し戸惑いながらも、ナイフを握ると手の甲に刃を押し当てた。水盆に垂れた血液は瞬時に濃い赤色に染まり、剣の紋様を描く。
「君はローラムファスト寮だ。」
ヴォルガンはそう告げて、少年に一番左の列へ並ぶように指示した。そうして一人づつ寮の組分けが行われていったのだが、金髪のお人形のような顔をした少女の番になると、少女はナイフを持とうとしなかった。
「怖い……。怖い。」
「大丈夫です。一滴、一滴だけですから。」
首を振って、差し出されるナイフを拒む少女相手にヴォルガンはにこりともせず、無表情で告げる。震える手にナイフを持たせると、少女はふるふると首を振った。ああはなりたくないな、とアンネは心の中で呟いた。生徒の冷たい視線が一身に突き刺さっている。一滴の血を流すことより、こんなに注目を集めてしまう方が恐ろしい。眉根を寄せて、ヴォルガンは無理矢理ナイフを持たせた手を上から握ると、少女の左手に押し当てて純白の肌を切り裂いた。
そんな見ていられないやり取りの後だったから、アンネは水盆の前に立つと躊躇いもなくナイフを手にすることが出来た。水盆に落ちた血液は青色に染まった。水面に浮かんだのは杖の紋章、レイモンド寮の印だった。レイモンド寮の列には、一つ前に水盆の前に立ったネロが並んでいて、安心した二人は顔を見合わせて笑った。
「レイモンド寮寮長のスーザン・グレイ。よろしく。」
寮分けが終わると、銀色の髪をポニーテールにした快活そうな少女はレイモンド寮に選ばれたアンネたち新入生に、寮の部屋を案内してくれた。寮はそれぞれ、塔が別れていてレイモンド寮は東側に面した塔だった。
「太陽の光が一番入りやすいから、一番健康的な寮かもね。」
スーザンは今はもう西に沈んでしまった太陽を探すかのように窓の外を見て言った。
男子寮と女子寮は長い廊下で隔てられていて、ネロとは後で共用の遊戯室で会う約束をして途中で分かれた。自分の部屋だと言われた部屋に荷物を置いて、同室の子への挨拶もそこそこにアンネは遊戯室へと急いだ。扉の前まで来ると、既に先客がいたようで話し声が聞こえてくる。扉を開けるのを躊躇して立ち尽くす。
「インターネットもないし、ゲームもない。ここはほんとに地獄だな。」
「テレビもないしな。ほんと終わってるって。」
うんざりとした口調で、二人の男子生徒が喋っている。アンネは扉を開けるのを躊躇して立ち尽くした。
「なんで持ち込み禁止なんだよ。ただでさえ、牢獄みたいなもんなのにさぁ娯楽くらい満足にさせてくれてもいいのにな。」
「ボードゲームとか、カードゲームならあるけどやる?」
突然後方から聞こえた声にアンネはぎょっとして、悲鳴を上げそうになった。後ろにはいつの間にか、ウィアメイゼル寮の寮長オズワルトが立っていた。彼はそのままアンネの目の前の扉を躊躇いなく開く。
「おすすめはこの、『ウィザードクロス』。この盤で色々な種類の駒を動かして、」
突然、目の前の扉を開けられて丸見えになったアンネの方を見ることはなく、オズワルトはテーブルに腰かけている男子生徒二人に喜色を浮かべて話しかける。しかし、彼らは異質なものを見る目でオズワルトを見て、何も言わずに遊戯室を出て言った。
「行っちゃった……。」
小さな声で呟く後ろ姿には哀愁が漂う。
「私!私やりたいです。」
思わず声を掛けると、オズワルト先輩は喜色満面で振り返った。
「ほんと?」
さっきまでアンネが目に入っていないかのようだったのに驚くべき変わりようだ。目を丸くするアンネに、オズワルトは棚の中から一つの箱を引き抜いて、テーブルの上に置いた。
「これ、『ウィザードクロス』。駒は四種類で、」
箱を開けて、駒を並べ始める。時折、こちらを向く瞳には小さな子供のような純真な輝きがあり、圧倒される。
「騎士、魔導士、賢者、宣教師。『ウィザードクロス』はこの白い盤面でこの四種類の駒を動かして一対一で行うボードゲームだよ。」
オズワルトはルールの説明をしながら、正方形に区切られた升目が綺麗に並んでいる白い盤面に、銀色と金色の駒を並べていく。
「あれ、こればらばらでいいんですか?」
説明を聞き終えたアンネは、自分側に並んだ銀色の駒とオズワルトの側に並んだ金色の駒の種類の並びが揃っていないことを指摘する。
「『ウィザードクロス』は類似する他の盤上遊戯と違って、最初の位置は決まってないんだ。最初の位置決めから戦略は始まっているんだ。」
「それ、ゲーム始めるまでに時間かかりそうですね。」
「僕が友人とやる時は三十秒以内っていう縛りを設けてはいるかな。まぁでも、『ウィザードクロス』の一番特徴的なところは最後の駒が取られるまで勝負は決まらないってところかな。」
最後の一つの駒を並べ終えたオズワルトはニッと口角を上げる。アンネは盤上に並ぶ駒たちに視線を落とした。
「取られたら即負けになる駒がないっていうことですか?」
オズワルトの指先が駒を倒していく。銀の魔導士がことりと音を立てて倒れると、盤で唯一倒れていない金の騎士の駒を眺めて呟いた。
「うん、そう。ウィザードの戦争と同じ。最後の一人が倒れるか、降伏するかでしか戦いは終わらない。」
その言葉は妙に鮮明に響いた。詳しく聞きたいと思い盤上から顔を上げると、後ろから声がかかった。
「アンネ、何やってるの?」
「あっネロ。えっとここで待ち合わせしてて。」
すっかり約束を忘れて話し込んでいたことに罪悪感を覚えつつ、アンネはオズワルトに向き直り、ネロを紹介する。
「ネロ君も一緒にする?」
オズワルトが軽い調子で問うことに驚いたが、ネロはあっさり頷いた。
「はい、これはなんですか?」
「ウィザードクロスっていうゲームだよ。」
また一から丁寧にルール説明を始める声をぼんやりと聞きながら、昨日までの生活と一変した環境に想いをはせた。魔法学校に来て最初の夜がゆっくりと更けていく。残してきた家族のことを全く考えなかったわけではないけれど、魔法学校送りになったことに対して、アンネはそれほど絶望感を覚えてはいなかった。久しぶりに友人が出来たことと御伽噺で読んで憧れていた魔法使いになれたことが嬉しくて、雲の上を歩いているかのような奇妙な浮遊感に心を委ねていた。
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