23 贈物
「「いただきます」」
示し合わせたわけでもなく重なる声。
重ねた両手を下ろすと、利き手である右手に箸を持ち、まずは味噌汁を啜った。
すっかり我が家になじみつつある和食の朝ごはんに、黙々と手を付ける。
忙しそうな空気は相変わらずなのだけれど、ご飯の時だけは、時間を作ってくれているようだった。
無理しなくていいんだよ、と声をかけると、「父さんが一緒に食べたいだけだから」と言っていた。
僕たち二人の食卓は、やはり必要以上の会話はない。
けれども、それは以前の沈黙とは違っていた。ご飯だって、おいしさを感じる。おばあちゃんの味には負けるけれど。
「最近、よくそれ見てるな」
父さんは、テーブルの上に置いてある紙を指差した。
食卓に一緒に並べるには行儀が悪いとも言えるそれを、僕は堂々と置いていた。
けれど、敢えて指摘されると、何だか急に恥ずかしくなってきて、意味もなく少しだけ自分の方へと寄せる。
「気になるのか?」
「うーん…気になるっていうほど、これのこと理解はしてないんだけど」
僕のなんとも曖昧な返答に、父さんからも同じようなものが返ってくる。
そのまま僕たちの視線は、テーブルの上に置かれた紙へと落とされる。気まずさを感じながら、僕は波打つグラフに目を泳がせる。
その下に書かれた文字ではなく、波を眺めていたことで、目が回りそうになった。
「そういえば、何か進捗はあったの?」
「進捗? あぁ、この件のことか。それならミネたちが調査に協力しているらしいぞ」
「父さんは?」
父さんも関わっているんじゃないの? 目の下に、そんなにくっきりと残された隈を作るくらい、睡眠時間を削ってるんじゃないの?
その言葉は声帯を震わせることなく、僕の中に留まる。
責めたいわけじゃない。怒っているわけでもない。ただ……
僕は、自分の心の中でさえ言葉にできない想いを、再び呑み込んだ。
「父さんはあくまで補助的な役割だから」
「ふーん」
「さ、ご飯が冷めるぞ。早く食べてしまおう」
「うん」
僕は心に靄を抱えたまま、少しだけ冷たくなった味噌汁を流し込むように喉の奥へと送り込んだ。
***
引っかかる。
何かが、僕のどこかに引っかかっている。それが何なのかも、引っかかっている場所さえも抽象的で、一向に特定されない。
ただ、それは一つではない、ということまでは理解していた。
モヤモヤする。この感情は一体何なんか。
最近特にそうだ。父さんを見ていても感じるし、頻繁に見ている
では、見なければいいではないか。そう思うだろう。
父さんはともかく、この紙に関しては、避けようと思えばいくらでも目を背けることはできる。
それでも僕がそうしないのは、できないからだ。それはもう呪いがかけられているかのように、僕を捉える。
「何なんだろう」
この気持ちも、どうしてこんな気持ちになるのかも。
ゴロゴロとベッドの上で唸っていた体が、無意識の勢いのまま、縁を超えて落下する。
咄嗟に出た手が、体全体に衝撃が走るのを防ぐ。
間一髪! というところなわけだけれど、腕を一本犠牲にしたことに変わりはない。
僕は声にならない痛みを腕に感じながら、悶絶する。しばらくその場を動けずに、先ほどまでのゴロゴロスタイルを、今度はベッドの下で行っていた。
「はぁ……びっくりしたぁ」
一頻りのたうち回ると、僕は反対の手で負傷した腕をさすりながら、自室を出た。
片腕以外は無事なので、難なく階段を降りると、リビングへと向かう。
リビングに着くと、僕は電話が置かれている台の横にある棚の前まで来た。
そこに立ってすぐ、棚の引き出しを開けていく。
僕は絆創膏を探していた。ベッドから落ちた衝撃は、その最初の驚きほど痛みはなかったけれど、どうやら着地がうまくいかなかったらしい。ヒリヒリする感覚があると思っていると、手の甲の皮が剥け、うっすら血が滲んでいた。
「確かこの辺に…」
僕は自分の記憶通りの場所に目当てのものを見つけると、それを取り出す。
取り出すときに、思わず勢いがついてしまい、横にあったものにぶつかってしまった。その衝撃で倒れ、落ちそうになったところを、わずかな反射神経を使って救い出す。
「セーフ」
その言葉とは裏腹に、心臓はドクドクと忙しなく騒ぎ立つ。
落ち着かない心を宥めながら、僕は手の中にあるそれを元の場所へと戻した。
僕の手にぶつかり、危うく少し前の僕と同じ末路を辿ろうとしていたそれは、母さんの写真の横に飾られていたあれだった。
そう。曰く、母さんの好きな塩基配列、だ。
母さんの写真が入れられている写真たてと遜色ないほどの入れ物に入ったそれは、改めて見てみると、書かれた文字と同様に異質さを纏っていた。
たった三文字のアルファベットが、十八個並べて書かれただけの普通の紙を入れるには、何とも仰々しい。
父さんの趣味か? それとも、隣の写真たてに合わせた選択なのか?
叩くように鳴っていた脈が落ち着いてきて、僕は絆創膏を貼りながら、再び
AAAGCCAACGCCACCGCC
何度も見た文字列は、それとは別にどこか違うところで見たような気がした。しかし、塩基配列なんて一体どこで…父さんが、大男が貸してくれた本や資料だろうか。
いや、それよりももっと身近な……
僕はハッとして、駆けるように階段を上った。
途中足が絡まりそうになるのもお構いなしに、僕は自室に入ると、ここ数日見ない日はなかった紙を手にし、再び階段を駆け下りる。
僕があまりにもドタバタと音を立てていたものだから、何事かと父さんが書斎から出てきていた。
「どうしたんだ?」と、かけられた言葉を受け流し、僕は手元にあるそれと、丁寧に飾られているそれを交互に見比べる。
手元にある、特に散々問題視されていた部分を注視する。
…ATTCGATGC N AAAGCCAACGCCACCGCC N TTCGAAATCG…
そう、ここだ。この中の部分。
僕は再び、写真たての横に視線を送る。
父さんからの視線を感じながらも、僕は気にせずに文字を追う。
「やっぱり…!」
同じだ。一言一句、一致している。
不思議だ。これは偶然だろうか?
いや、他に考えられる理由なんてないのだけれど……
三文字のアルファベットの十八文字…
その十八文字が、僕の頭の宇宙に放り出される。そこは無重力空間のように、やはりプカプカと地に足つくことなく、浮遊する。
好き勝手に泳ぎ回って、まるで僕に捕まらないように逃げているようだ。
けれど、その文字たちは一見バラバラのように見えて、一つのアルファベットでは存在していなかった。
僕は、
彼らに触れられれば、何かが見つかるような気がした。僕が知りたい何かを、その答えを彼らが持っているような気がした。
追いかける。逃げ回る彼らを、僕はフワフワする身体を、精一杯に動かした。
彼らは、手を繋いでいるかのように、複数で存在した。けれど、十八文字の全てが結ばれているわけではない。
そして、その繋がりには共通点があるように思えた。手を繋いでいる彼らは、全部同じ長さだった。つまり、同じ数の文字数で結ばれていた。その文字数は三つ。
AAA
GCC……
そんな具合に、彼らは三文字で逃げ回る。
GCCはアラニンのA。
僕の頭の宇宙に、大男がくれたコドンの表が乱入する。
それは、僕の意識とは無関係に、今まであった三文字のアルファベットとは別のアルファベットを重ねていく。
AAAはK。リジンのK。
AACはアスパラギンのN。
ACCはスレオニンだ。スレオニンはT。
僕は自由に泳ぎ回る三文字の連鎖を捕まえる。捕まえて、元あった十八文字へと並べ替えた。
AAAGCCAACGCCACCGCC
その十八文字に、コドンのアルファベットを重ねていく。
AAA K
GCC A
AAC N
GCC A
ACC T
GCC A
………
「どうしたんだ? 大丈夫か?」
急に蹲った僕に、父さんが心配している声色でそばに駆け寄る。
震える身体に、さする手の温もりを感じる。
「ねぇ父さん、僕わかった!わかったよ!」
勢いよく顔を上げる。
危うく、父さんの顔とぶつかりそうになりながら、僕は興奮のままに言葉を発する。
「母さんは…母さんは何て言ってたって? 僕が生まれたこと何て言ってたって?!」
「ちょっと、落ち着け」
「わかったんだよ! この塩基配列の意味が!」
「え?」
僕はやはり落ち着かない様子で、父さんに謎解きの結果を伝える。
心なしか声が震えていて、ちゃんと説明できているのかどうか怪しいところだ。
けれど、気を回せる余裕もなく、僕は文法なんて知らないと主張するように、ただただ言葉を連ねる。
「僕は、母さんから受け取ってたんだよ! 母さんはちゃんと届けてくれてたんだ! 僕があんまりぼんやりしてるもんだから、気づくのが遅くなっちゃったけど。僕が知らなかっただけで、僕がいじけている間もずっと、そこにあったんだ。僕は母さんから愛されてたんだ! 愛されてるってことを、伝えてくれてたんだよ!」
僕はそう言いながら、目からは涙が溢れていた。
父さんの前で泣くのなんて初めてで、でも今はそんなことどうだっていい。
この感動に、どうしてそれを止めることができようか。
母さんから贈られた暗号が解読されると、僕の心は晴れ渡っていた。
難解な問題が解けたからだろうか。いや、それだけじゃない。
ずっと、感じていた違和感の正体を、僕はやっと理解した。理解して、自分が何に迷っていて、自分がどうしたいのかもはっきりした。
「父さん、僕決めた。もう迷わない」
「?」
「僕はもう大丈夫。だから、父さんがもし研究の道に戻りたいなら、戻ってほしい。応援する」
「奏多…」
「僕には父さんもいるし、母さんからもらった
僕がそう言うと、父さんは泣きそうな顔で笑った。
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