22 感情

 あれから父さんと大男は、眉間にシワを寄せながら、深刻そうに相談を始めていた。

 自分たちが取るべき、最初の行動は何なのか。まず警察に通報するべきかどうか。しかし、やはりその前に一つでも確信に繋がる何かを実証すべきではないか、という内容の話をしていた。


 僕は、よくわからない大人の会話から離脱した。

 自分が知りたかったことの一連を確認できると、僕の興味は一瞬で冷めてしまったのだ。

 それにもう、僕が口を挟めることは何もない。きっと。


 大人たちが話している傍ら、僕は大男が印刷してくれた魔女のDNA配列を眺めていた。

 、と言っても僕のものだけれど。そう言って過言はないだろう。


 僕のDNA配列の中に、挿入された二つの欠損。

 その専門の界隈で欠損というと、本当にことを意味するとのことなので、その言葉をここで使うのは適当ではない。

 この歯抜けのような二つの隙間に、が含まれている。その可能性が高いとのことだった。


「ねぇ」


「ん? どうした?」


「これ、もらってもいい?」


 僕は、紙を指差しながら大男に許可を求めた。

 真面目な話をしているところに、何度も腰を折るようで申し訳ないという気持ちはあった。けれど、大人たちの会話は終わりが見えなかったし、何より僕が待ちきれそうになかった。


 そんな自己中心的な考えで、ある意味邪魔をしたにもかかわらず、二人とも嫌な顔一つしなかった。

 その所有者である大男は、いつものように大きな口を開けながら笑うと、「いいぞ」とただ一言そう言った。


 どうしてそんなものを欲しがるのか。たかが紙切れ二枚。

 僕だって、自分に関係ないところで、他の人がを欲しがっているのを見たら、 “たかが” と思うだろう。間違いなく。

 でも、今は違う。紙切れなんて思わない。おかしな話、その紙切れが輝いているようにさえ思えてくる。

 それはきっと、自分自身の証明だから。そして、それが魔女の存在を示す唯一のものだから。


 僕は許可をもらって、もう僕のものになった紙を眺めていた。

 DNA配列が示されているのだということしかわからない波打つグラフを、僕は宝物を手にしたかのように見つめていた。



 ***



 僕は何だか夢見心地だった。

 その言葉どおり、ふわふわして、地に足がついていない感じがしていた。


 そんな僕とは正反対に、大人たちはずっと慌ただしい雰囲気を醸し出していた。いや、雰囲気だけではない。実際、忙しくなったのか、この家で大男の姿を見なくなった。

 その代わりといってはなんだが、父さんに頻繁に電話がかかってくるようになった。それに、書斎仕事部屋にこもり、パソコンとにらめっこしている時間も増えた。


 僕はかまってくれる人を失ったかのように、一人考える時間を過ごすことが多くなった。

 自分の現状と同じように、まるで夢を見ているように、記憶の宇宙へと飛び立つ。


 行き先は決まっている。それは、夏休みに入って何度も向かったその場所。、一度も足を踏み入れていない、あの森だ。

 時間は————そうだなぁ……


 それは考えるまでもなく、気づいた時には目的地に到着していた。

 たどり着くとすぐ、視覚ではなく、聴覚に思い出が入り込む。懐かしく、それでいて忘れることのない声が、僕の耳へと届けられる。




『泣きそうな顔をするな』


『私も、失敗作だったということさ』



『生きるという行為に関心なんてなかったのに、いつの間にか楽しいと思えるようになった』


『私はもう十分生きた』




 魔女が最後に言っていた言葉が流れる。

 一言一句、逃すまいとしているかのように、僕はその言葉たちを脳内で反芻する。


『身体の内部について、よく理解していたのかもしれないな。もっと上だという可能性もある』


 魔女のか細い声に混ざって、それとは正反対の野太い大男の声が乱入する。

 その言葉たちに、僕はぼんやりとその旅を終了する。


 言葉が点となって、その一つ一つを結んでいく。

 きれいに直線を描いて結ばれる点もあれば、複雑に絡まって、どことどこが繋がっているのかわからない点もある。

 それは、それらの関係性か、もしくは繋いでいるのが僕だからなのか。


 その答えがどちらでも、問題はない。

 ただ、結ぶ作業が終わると、僕は一つため息をついた。


 やっぱり魔女は知っていたんじゃないだろうか。

 自分がどんな存在で、今どういう状況にあって、いつまで生きられるのか————


 魔女は、最後に僕にこう言った。「生きるという行為に関心なんてなかったのに」と。

 それはつまりそういうことだったのだろうか。

 自分が生きられる時間が短いということを知っていて、だから魔女はその限られた時間を、何も感じないように生きていたのだろうか。関心を持たないことで、その現実を受け入れようとしていたのだろうか。


 その答えは魔女の中にしかない。

 だから、僕は想像することでしか、その可能性に近づけない。


「父さん…」


 今にも泣き出しそうな声で、僕は父さんにすがる。

 父さんはコーヒーでも淹れようとしていたのか、ケトルのスイッチを押そうとしていた手を止めて僕の方に振り返った。


「どうした?」


「僕…僕は、余計なことをしちゃったのかな」


「?」


 僕がいなければ、僕が魔女に関わらなければ、魔女が持ち合わせていなかった感情を呼び起こすことなんてなかったのに。その感情は、生み出されることのないまま、現実を受け入れていた方がよかったのではないだろうか。


 僕はネガティブな思考に苛まれていた。それは何だか懐かしい感情で、僕はそれに呑み込まれそうになる。


「僕がその感情を呼び起こしてしまったのかな。それは、知らない方が幸せだったのかな」


「そうだなぁ」


 父さんは顎に手を置いた。父さんお得意のあのポーズだ。


「奏多はそう感じたのか?」


「え?」


「父さんはその人に会ったことないし、実際その人がどう思っているのか、感じているのかはわからないけど。少しでも、そういう風に感じとれるを言葉にしていたのか? そんな表情を浮かべていたか?」


「それは…」


「伝えてくれた言葉とか、その時の表情とかを思い出してみろ。どうだった?」


 父さんの優しい問いかけに、僕は目を閉じた。

 その言葉どおりに、僕は再び記憶の深淵に入り込む。自分の偏見を捨て、可能な限りの映像を思い浮かべる。

 できる限り、あの時と同じ映像を………


『私は、お前と過ごす時間が好きだったよ』


 ————全然そんな風に見えなかったけど


『生きるということが、いつの間にか楽しいと思えるようになった』


『コロコロ変わる感情に触れて、その温かさを知った。幸せだと思える、そんな幸せを与えてもらった』


 ————魔女は笑っていた。これまでで一番楽しそうに。声が、か細いその声が弾んで聞こえた。それは、間近で聞いた時も、思い出した今も、その印象は変わらない。


 僕は静かに目を開ける。

 少しぼやける視界に、父さんの顔が映った。よくは見えなかったけれど、何だか笑っているようだった。

 父さんは、それ以上僕に答えを求めようとはしなかった。その代わり、「父さんがもしその人だったら、奏多に出会えただけで、物凄い贈り物をもらえたと思うけどな」と、そう言った。


「父さん、それは親バカってやつだよ」


 僕はそう言って笑った。

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