20 欠損
次の日——正確には、昨日の夕方からだけれど——父さんはなんだかそわそわしていた。そわそわ、という表現が適当かはわからない。ただ、落ち着かない様子で、何かを待っているようだった。
寝れば少しは落ち着くかと思っていたのだけれど、どうやらそんなことはないらしい。朝から、しかも昨夜よりも増したように思える父さんの焦燥感に、こちらに伝染してしまうほどの空気に、僕は耐えられなくなっていた。
少しでも落ち着いてもらおうと、コーヒーでも淹れようか、と提案したのだけれど、父さんはこれを断った。どうやら、父さんは気を休めたくないらしい。
僕は何だか仲間外れにされている気分だった。
大人たちの様子から、そんな呑気なことを言っていられる状況ではない。ということは分かってはいたのだけれど、明らかに自分が関与しているのに、何一つ教えてもらえないというのはもどかしかった。
「結果が出ないことには、何も言えない」と大男は言っていた。じゃあ、その結果はいつ出るのか。今日か。本当に結果が出れば教えてもらえるのか。
僕は半信半疑だった。
僕は諦めたように自分の部屋へ戻ろうとした。
特にすることもないし、落ち着かない父さんを見ているのは目に毒だ。
座りもせず、忙しなく歩き回っている父さんを残し、僕は部屋を出た。
廊下を歩き、階段に差し掛かった時、玄関のドアが開く音を聞いた。
「おぅ、坊主。父さんはいるか?」
インターホンという概念がない大男は、家に入るや否や、僕を見つけるとすぐ問い質すように声をかける。
何かに追われているかのように、大男もまた焦りの色を浮かべていた。
僕は先ほど出てきたばかりの部屋を指さす。その方向に目をやると、大男は僕にお礼を述べることを忘れず、その部屋へと向かって行った。
僕は直感的に、何かがわかったんだ! と思った。それは僕の願望とも言えるのだけれど、何にせよ、遅れまいと大男のあとを追った。
「結果出たぞ」
またしても間髪入れない物言いで、大男はドカドカと部屋に入っていった。
おそらくその目に父さんを映してはいないだろうに、余程気が急いているのか。これを見ろ、と言わんばかりに、何やら紙を掲げている。
僕が部屋に入ると、すでに父さんは大男と対面していた。大男が持っている紙を眺め——いや睨むように見つめている。
二人の間から覗き込むように、その紙を見た。その紙に書かれているものがなんなのか、知りたかった。
彼らが睨み付けていたそれには、カラフルで、そしていくつもの線が波打っているグラフのようなものが描かれていた。例えるなら、心電図が近いだろうか。しかし、あれは正常な場合、規則正しく一定のリズムで流れている。それに比べて、今目の前にあるグラフは、忙しなく山が敷き詰められていた。
A4サイズの紙を横に印刷された表面には、三段ほどの仕切りがついている。どの段にも同じようにカラフルな波が交差していて、けれど、その頂点は決して交わることがない。
僕はそれが何を表しているのか検討もつかず、首を傾げる。
「ここだ、ここ。ここを見てくれ」
大男はその波打つグラフのある一点を指さした。ただ、大男の指は大きすぎて、ピンポイントにどこを指しているかまではわからない。
そのことを本人が気づいているかどうかは定かではない。けれど、今眺めているそれとは別の紙を鞄の中から取り出すと、大男はそれをテーブルに並べた。
「こっちが昨日送られてきたもの。見ての通り、こことここが欠損している。それは昨日も確認したな」
「あぁ」
「そしてこれが昨日、坊主から採取したDNAの結果だ」
大きな手をもう一枚の紙の方へと移動させ、大男は再び「ここを見てくれ」と言った。
僕も二つの壁を掻い潜り、二枚の紙を見比べた。それはどちらも同じ波打つグラフだった。その波形も素人の僕が見ると、全く違いがわからない。
目を凝らしてよく見てみると、そのグラフの下には、それぞれの山に一つずつ文字が書かれているようだった。
僕は大男が注目しろと言っている箇所がわからず、さらにそのグラフを見つめる。
あれ?
僕は目を
その部分はまるで間違い探しのように、周囲に混じって存在した。あまりに波の幅が狭すぎて、下手をすれば見逃してしまう。
それは、ひっそりと紛れ込んでいた。
誰かに言われるか、相当粘質に見ていないと気づかないほどのそれを、僕は一生懸命に見つめる。
波打つグラフはどの部分にも山を持っていた。山ができるということは、必ず次に来るのは下降なのだけれど、一つが降りると、また別の山ができるように線が描かれていく。
このグラフはそうして成り立っている。
しかし、二箇所だけ、平らになっている部分があった。それが何を意味するかは、やはり僕にはわからない。
「今回の結果にはこれが見られなかったのか」
「あぁ」
「ねぇ、何? 測定?に失敗したんじゃないんですよね? 何がわかったの? 何か違ってたんですか?」
僕の問いかけに、大人二人が振り返った。
その二枚の紙のうち、平らな部分が存在するのは一枚だけ。とは言っても、大男が示してくれた部分しか見ていないので、実際のところはわからない。ただ、同じ部分だと思われる箇所にそれが見られるのは、以前の結果だという一枚だけだった。
「そう。失敗というわけじゃあない。」
「どういうことですか?」
「これはDNA配列を調べた結果なんだけどな。読み始め…つまり、ここ。機械が配列を読み取っていくスタートの何塩基かはこうなるんだ」
大男は説明をしながら、一番上の段の、その左端を指差した。
僕は許可を得たように、前に出てその紙を眺める。大男の指の先、グラフの始まりを見つめた。
読み始めだと言われたその部分は、他のところとは異なり、波形がぐちゃぐちゃだった。どの線も山を作らず、好き勝手に波打っている。
近くに来たのでわかったことなのだけれど、山に書かれていた文字はアルファベットだった。読み始めの部分はどれも「N」が書かれていて、その他はAとかTとか…そうか、DNA配列の結果だもんな。それを示しているのか、と僕はなんとなくこのグラフの見方を理解しつつあった。
僕は再び、平らになっている箇所に目を移した。
…ATTCGATGC N AAAGCCAACGCCACCGCC N TTCGAAATCG…
意味がわかって見てみると、何だか違和感を感じた。DNAはA、T、G、Cの四文字のはずなのに、異質的に混ざる「N」は、気づいてみると主張が強い。
「読み始めなら、こんな風に混ざることもあるんだが。いやしかし、最初でもこんな何塩基も跨いで “N” が出現することはないんだけどな。それに、もし測定に失敗していたら、どこも読めない。ぐちゃぐちゃの波形が並んで、塩基を認識しないんだ」
僕はわかったような、わからないような理解のまま、口を開く。
「失敗じゃないなら、他に考えられることは何かあるんですか?」
「うーん…そういえば、そっちはどうだったんだ?」
大男が何かを思い出したように父さんに声をかけた。その視線を辿るように僕も父さんの方へと顔を向ける。
それまで黙っていた父さんは、このタイミングで自分に話を振られるとは思っていなかったのか、少し驚いた表情を浮かべていた。
「連絡は取れたのか?」
「それが、実は…」
父さんは一瞬、僕の方を見た。
見た、という表現が正しいかはわからない。けれど、一瞥する程度のそれを、僕は見逃さなかった。
僕は父さんの言葉を待っていた。大男も同じだろう。
僕たち二人は父さんに視線を送っていた。どういうわけか、憂いているような、そんな表情を浮かべている父さんを。
「…なかったんだ」
「え?」
「あの時採取した組織も細胞も、DNAサンプルも、なくなってたんだ」
「どういうことだ?」
「わからない。ただ…奏多のだけじゃなく、その時
「その施設の保管環境はどうなってんだ」と悪態をつく大男に、父さんはため息まじりに「全くだな」と言った。
「待てよ」
やはり僕の理解が追いつくことなく会話が進められていると、大男が僕の方へと勢いよく振り返った。
僕はそのことに驚き、少しだけ後退りをした。
「坊主、あの時『僕のじゃない』って言ってたよな?」
あれはどういう意味だ? と食い気味に投げかけられる言葉に、僕は本当に食べられるんじゃないかと思って、さらに一歩下がった。
「まさか」と、父さんの声が聞こえてきて、二人は何やらアイコンタクトをとる。
いつまで経っても、仲間に入れない焦ったさに、僕は地団駄を踏みたくなった。
それ以上にあのことを暴露するには、勇気がいった。
怒られるかもしれない。その前に、信じてもらえるのだろうか。僕の頭の中はそんな考えでぐちゃぐちゃだった。
「奏多、父さんたちは責めてるわけじゃないんだ。
一研究者として、事実を知りたいだけなんだ。だから、知っていることを教えてくれないか?」
諭すように紡がれる言葉。自白を促すときの刑事みたいな物言いで、そんな穏やかな表情で言葉を紡ぐのは卑怯だ。
僕は、その誘導に導かれるように口を開く。
僕は、魔女のことを話した。すべてではなく、森での出来事も伏せた。
二人には、あの髪の毛が魔女のものである、ということだけを説明した。
「でも、僕のと一致したんでしょ? あの時は、その…ちょっと気が動転してて、あんなこと言っちゃったけど、僕のじゃないなんて保証はないんでしょ?」
僕は彼らにその話をした途端、何だか不安が押し寄せてきて、何を弁解しているのかわからない言い訳を並べた。
だって、もう魔女はいないのに。そんな僕の夢物語に、大人を巻き込んでいいものなのか…
僕の不安を他所に、目の前の大人たちは、何かをボソボソと呟くと、二人揃って考え込んだ。
「まさか、な」
「いやでも、もうそうとしか…」
二人は再度、結果が示された紙に目を落とした。
「何? 何かわかったの?」
「あくまで、これは推測でしかないんだが…」
「うん」
「何の証拠もない。仮説段階というのもおこがましいくらいなんだが」
だから、何なのさ! と僕は叫びそうになった。
父さんだけならまだしも、あの大男でさえ、何やらもじもじして、断定的な言葉を発しようとしない。
一体、何がわかったというのか。
大人たちはまた二人でアイコンタクトを取りながら、頷いていた。
そして先に父さんが僕の方へと振り向くと、僕の目をまっすぐ見つめた。
「驚かないで聞いてほしい」
「うん」
「もしかすると、奏多が持ってきた髪の毛の人物は……クローンかもしれない」
「え?」
「DNAレベルで坊主と一致してるんだ。本人のものでなければ、もうそうとしか…」
「ちょ、ちょっと待ってよ! え、ちょっとよくわかんないんだけど…クローンってあれでしょ? 一卵性双生児を人工的につくるようなものだって」
父さんに同意を求めると、肯定するかのように大きく頷いた。
その答えはますます僕をわからなくさせる。
「じゃあ、やっぱりおかしいよ!」
だって、魔女と自分は、似ても似つかない————
「それに関しては…」
大男は、二箇所、山がなくなった場所を指さした。
「コレが証明している」
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