16 面影

 日づけが変わって、僕は再度、森へ足を運んだ。

 けれど新しい朝がやってきても、に変わりはなかった。


 僕はしつこくも、そのの部分に触れた。

 もちろん、そこには家なんて存在しなくて、何にも触れられない。


 そのことがやけにリアルで、僕はただ虚しくなるだけだった。



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「おぅ、何だ今日は早かったんだな」


 家に着くと、父さんの出迎えにあった。

 例に漏れず、手には土をつけている。


「朝ごはんは食べたのか?」と聞く父さんに、僕は首を振った。


 靴を脱ぎ、玄関の壁にかけられている時計に目をやると、短い針は七に向かって進んでいた。

 父さんも朝食前に畑いじりをしていたのか、これから準備を始めるとのことだった。


「ごめん、父さん。朝ごはん、自分で作ってもらっていい?」


「? 体調でも悪いのか?」


 父さんは僕に近づくと、右手を僕に差し伸べた。

 その手は僕に触れることなく、目の前で止まる。

 どうしたのだろうかと思っていると、父さんは照れたように笑って、どこかに走って行ってしまった。


 用はなくなったのだろうか、と僕は自室に向かうために階段の手すりに手を置く。

 何やら奥の方でバタバタと騒々しい音が聞こえていたけれど、気にも留めずに階段に足をかけた。


「奏多」


 二段ほど上ったところで、父さんの声に呼び止められた。

 僕はそのまま顔だけ覗かせると、父さんはこちらに向かいながら、タオルで手を拭いていた。


「父さんがご飯作るから、一緒に食べないか?」


「…今、食欲ないんだ」


「昨日も食べてないだろ。空腹は良くない。それに、そんな時でも食べられるものだから。ほら、座って待ってろ」


 父さんにしては珍しく、声に強引さを含んでいた。

 その言葉に、有無を言わせない何かを感じ、僕は大人しく父さんのあとを追ってダイニングへと向かった。


 僕が椅子に座るのを見届けると、父さんは何だか嬉しそうにキッチンに入っていった。

 その表情に少しの不安を感じながら、僕はテーブルに肘をついた。頬杖のためにおいた腕を、僕はすぐにおろすと立ち上がり、父さんの元に足を運んだ。

 落ち着かなかった。いろんな意味で。


「何か手伝うことある?」


「ん? いや、大丈夫。座ってていいぞ」


 僕が声をかけると、いつもより少しだけトーンが上がっている声が返ってきた。上がっているといっても、普段が普段なので、それでも一般的な人と比較するとテンションは低い方だろう。

 それでも僕には、やっぱりちょっと嬉々としているように見えた。そのことが、ほんの少し不気味に思えて、僕は手持ち無沙汰のまま、その場に立ちすくんでいた。


 僕が見ている中、父さんはとても手際がいいとは言えない手つきで料理に取り掛かかる。


 我が家のご飯は、おばあちゃんが元気だった頃は、おばあちゃんが作ってくれていた。だから、僕の家庭の味はと言うと、おばあちゃんの味がそれにあたる。

 けれど、亡くなる数ヶ月前から、おばあちゃんは立ち上がれなくなっていた。自分の日常生活さえもままならないほどの状況だった。


 おばあちゃんのご飯が食べられなくなってからは、我が家の食卓には父さんの手料理が並んだ。いわゆる男の料理だ。

 美味しくないことはないけれど、断然おばあちゃんの料理の方がよかった。


 それも、今思えば、味がどうという以前に、食卓にがなかったからかもしれない。

 会話もなければ、同じテーブルを囲んでいるのに、顔すら見ない状況。

 これではおいしいものも、味を悪くする。


 あの時の僕はそんなこともわからないほどに、自分のことしか考えていなかった。考えることができずにいた。

 それは今でもさほど変わらない。

 僕に見られているからなのか、火のそばで、手元が覚束ない父さんを見つめながらも、僕は自分のことを考えていた。


「ねぇ、僕最近どこか変わったところあった?」


 父さんは、左手にすり下ろし器を、そして右手には何やら小さくなったカケラを持ったまま、僕の方へと顔を上げた。


「変わったところ…?」


「うん。例えば…ずっと寝てたとか」


 僕の言葉に、父さんは少しだけ笑った。

 僕は大変真面目な気持ちで聞いていたので、笑われるなんて心外だった。


 もし魔女が、これまでに起きた出来事が、僕の夢なら、もうそれでもいい。

 けれどそうなると、父さんとの不仲もどこからどこまでが現実で、夢だったのかわからなくなる。

 父さんとの不仲なんて、今に始まったことではない。だからこそ、こうして普通に会話していること自体がおかしな話で、その境界線の曖昧さに、僕は困惑していた。


 眉を歪ませ、懇願するように見つめる僕の顔を見て、もう一度父さんは笑った。


「むしろ、ここ最近は早起きだったぞ」


「じゃ、じゃあ、僕は夏休みに入って、どこかに出かけたりしてた? 花を摘んだりしてた?」


「どうしたんだ?」


 状況を飲み込めていない父さんに、僕は「どうだったの?」と捲し立てた。その言葉に押されるように、父さんは頷く。

 それはもちろん肯定を意味していて…


 僕はその反動を自分に受けると、よろけるように壁にもたれかかった。

 もう、いよいよわからない。わからなくなった。


「じゃあ…」


 ー前から、こんな風に話してた?ー


 そう言いかけて、僕は言葉を飲み込んだ。

 働かない頭で、けれど、次から次へと聞きたいことは溢れてきて。

 僕はその勢いで、言わなくてもいいことまで口から出そうになった。

 わざわざそんな、水を差すようなことを言う必要はない。


「どうした?」


「あ、いや……って、父さん。鍋噴いてる」


「お、あ、あぁ」


 父さんは慌てた様子で、ボタンを押した。

 間一髪のところで、噴きこぼれようとしていた気泡を鍋に留めることができた。

 僕の方に振り返った父さんは、直前の珍事などなかったかのように、しれっとした表情を浮かべている。


「できたぞ」


「え…あ、意外と早かったね」


「簡単だからな」と父さんは笑った。

 それにしては、随分と覚束なかったけど、と思ったのは秘密だ。





 改めて席につき、僕は父さんと向かい合った。

 手を合わせ、いただきますと呟くと、一口それを口へと運んだ。


「どうだ? うまいか?」


「普通かな」


 僕の可愛げがないともとれるそんな言葉を、「そうか、普通か」と父さんは嬉しそうに笑っていた。


 口の中にある豆のようなものを咀嚼していると、口いっぱいに生姜の香りが充満した。

 細かく入ってくるのは、エノキだろうか。それは歯に触れることもなく、喉奥に流れていくので、微かにその存在を知らしめるだけだ。


 父さんが作ってくれたのは、スープのものだった。

 醤油ベースに、細かく刻まれたエノキ、豆の正体は大豆か? そして、さいの目切りにされた豆腐。先ほどすり下ろし器でおろされていたそれは、匂いを広げた生姜だろう。


「これはな、具合が悪い時に母さんがよく作ってくれたものなんだよ」


「母さんの味には、近づかなったけどな」と、父さんは自嘲ぎみに言っていた。


 そんな父さんの弁解も、僕は母さんの味を知らないから。だから、の元もわからない。この料理の正解がどんなものなのか知る由もない。


「豆乳を入れたらマイルドになって、もっとおいしいんだぞ」


「豆乳?」


 僕は目の前のカップの中を見た。

 ここに豆乳が加わった場合の味を想像してみる。想像してみて、味が口に広がる前に、僕は思わず吹き出した。


「それ、大豆摂りすぎじゃない?」


 すでに、大豆、豆腐が入っているスープに、さらに豆乳。

 おいしいとは思うけれど、大豆製品が三つも揃うことになる。そう考えると、何だか意味もなくおかしくなった。


「本当だな」と父さんも照れくさそうに笑った。


「そういえば、母さんってどんな人だったの?」


「どんな人? うーん、そうだな…前にも言ったけど、不思議な人だったよ」


「不思議って?」


「父さんと母さんは大学が一緒だったんだけどな」


 学部は違ったけど、と父さんは付け加えて、さらに説明してくれた。


「母さんは動物が好きで、獣医になろうとしていたんだ。母さんの動物好きはものすごくてね」


「ものすごいって?」


「本人曰く、動物と喋れるんだそうだ」


「え…?」


 僕が目を見開いて父さんを見ると、頷きながら笑っていた。「父さんも、この話を聞いた時は同じ顔をしてたよ」と。


「もちろん、答えなんて誰にもわからないし。おまけに、母さんは幽霊とも話せるって言ってたんだよ」


「?!」


 僕はその言葉に、エノキを喉につまらせかけた。

 その言葉は聞き覚えがあった。


「その話聞いてるだけだと、不思議っていうか、変な人だよね」


「はは、まぁそうとも言うな」


 いや、そうとしか言えないでしょ


 と、僕は内心思いながらも、口を噤んだ。


「でも、父さんはよくそんな母さんと結婚しようと思ったね」


「そういえば、何で仲良くなったんだっけかなぁ」


「覚えてないの?」


 顎に手を置き、考える仕草をする。

 僕はあまり期待せず、残りのスープを飲み干してしまう。


「ダメだ。きっかけが思い出せないな。何だったかな」


 父さんがまだ頭を抱えているかたわらで、僕は最後の豆腐を飲み込んだ。

 向かいのカップを見ると、まだ半分ほど残っている。

 それに、いくら部屋の中だからとはいえ、生姜が効いてきたのだろうか。父さんの額には汗が滲んでいた。自分のそれに触れると、僕の手を同じように湿らせた。


「思い出せないけど、のんびりした人だったよ。

 獣医を目指すために大学に来たのに、トリマーになるとか、盲導犬を指導する人になるとか言ってたな」


「何それ。優柔不断ってこと?」


「そうとも言うかな?」


 何だその曖昧さは、と僕が苦笑すると、僕の喉に何かが詰まった。

 先ほどのエノキだろうか。

 けれど、実際には何も存在しない。それでも、詰まった感覚は取れなかった。


「実を言うと、もふと思い出したんだよ」


 父さんは目の前のカップを指しながら、そう言った。


、というよりは、って方が近いかな」


「どういうこと?」


「信じられないかもしれないけど、昨日な。何かふと母さんの声が聞こえた気がしたんだよ」


 母さんのがうつったかな、と笑う父さんに、僕は一ミリも笑えなかった。


「ねぇ、母さんって変な喋り方してなかった?」


「? 喋り方は普通だと思うけど?」


 どうしたんだ? という風に見つめてくる父さんに、僕は首を振った。


 どうして自分がこんなことを聞いたのか、わからなかった。

 気づけば口から出ていた言葉で、僕は脳内に浮かんだ考えを一蹴した。


 まさか、ね。

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