Chapter 3 届けられる言葉-メッセージ-

14 告白

 僕は魔女を抱えて、焦っていた。

 なるべく振動を与えないように。それだけは頭の片隅に残し、僕は魔女から家に入る許可を取ると、初めてそのドアを開けた。


 魔女は突然、僕の視界から消えた。

 それは何の前触れもなく訪れ、魔女は意識を飛ばすように、崩れるように倒れ込んだのだった。


 呼び掛けても答えない魔女に、僕はどうしたらいいのかわからず、パニックを起こしかけていた。

 けれど、僕が今ここでパニックに陥るのは危険だということはわかっていた。魔女の状態がわからない段階で、取り乱すのは、命に関わる可能性もある。

 僕は頭を振り、一度冷静さを取り戻すと、魔女の膝裏と肩に腕を入れ、力を込めて抱き上げた。


 僕は鍛えているわけでもなければ、自分の腕力に自信もないので、正直人ひとり抱え上げられるかどうか不安だった。

 けれど、僕が精一杯に込めた力が空回りに終わるほど、魔女の身体は軽かった。




 僕はこの時、初めてこの家に足を踏み入れていた。

 何度もに来ていたのに、家には入ったことがなく、全く勝手がわからない。

 魔女一人住むには、部屋数も多い。僕は気がくばかりで、魔女を横にできる場所を見つけられずにいた。


「……左から、三番目…」


「え…?」


 僕の耳に微かにが聞こえた。

 気が動転していたことと、そののか細さが相まって、僕がを魔女の声だと認識するまでに、少し時間を要した。


「……その、部屋………」


 震える声で、おぼつかない手で、魔女は目の前に来ていた部屋を指さした。

 僕は魔女を見下ろし、「この部屋でいいの?」と目で確認した。


 小さく頷いたように見えたので、僕は肘でドアノブを下げ、そのままドアを押し開けると、部屋の中に入った。



 その部屋は見渡す必要もないほど、とても殺風景だった。その言葉のとおり、そこにはものはほとんどなく、ベッドが一つ、ぽつんと置かれているだけだ。

 ここは、魔女の部屋、ということだろうか。


 とりあえず、僕はその疑問を頭の隅に追いやった。

 まずは、魔女を安静にさせることが優先だ。

 僕は魔女をベッドへと寝かせると、そのすぐそばにしゃがみ込んだ。


「…悪いな」


 横になるとすぐに、魔女が口を開いた。

 魔女からそんな言葉を聞くなんて思っていなかったから、僕は正直驚いたけれど、魔女の意識が戻ったことにホッとしていた。———安心したのも束の間、魔女の蒼白な顔色が目に入って、すぐに現実へと引き戻される。


「急に倒れないでよ。心配するじゃないか」


 僕は心配を悟られないように、努めて気丈に振る舞った。————振る舞ったつもりだ。

 いつものように僕の言葉を一蹴する魔女の言葉が返ってこないことに、僕はさらに焦燥に駆られる。


「貧血か何か? 君、びっくりするほど軽いんだもん。ちゃんとご飯食べてるの?」


「…」


「あ、僕が何か作ろうか? って言っても簡単なものしか作れないんだけど。

 キッチン借りてもいい? 食欲は?」


 魔女からの返事がないことに、僕はどんどん不安になっていった。

 その感情から目を背けたくて、僕はいつもより早口で、お喋りになっていた。まるで、心の焦りが言葉になって溢れ出るみたいに…


 喋らないのは、具合が悪いからなんだよね?

 、口を開くことができないってだけだよね?


 それならば、安静に寝かせるのが一番だということはわかっていた。けれど、僕が今そうしないのは……怖いからだ。

 少しでも、魔女から離れると、もう二度と会えないような気がしたからだ。


 それはここ数日に繰り返された悲劇が、トラウマになっているからかもしれない。

 僕の目の前にいる魔女は、それを刺激するには十分な見た目をしていた。


「……そんな顔をするな」


「…」


「そんな泣きそうな顔をするな」


「…………君までいなくなっちゃうなんて、言わないよね?」


「…」


 やっと口を開いたかと思えば、魔女は再び口をつぐんだ。

 そこで黙るのは卑怯だ。

 そこは、言葉じゃなくてもいい。言葉じゃなくて、いつものように鼻で笑うとかでもいいから。だから、そんな肯定するみたいに、黙らないでよ。


「病気、なの…?」


 魔女は僕の問いかけに首を振った。

 このやり取りには既視感を覚えたけれど、僕はやはりその意味を理解できずにいた。


「まさか……君、あの犯人に、んじゃ…」


 不意に脳裏に浮かんだ考えに、僕は驚愕した。口にしたように、「まさか」と心の中で繰り返す。

 だって、事件は未遂で終わったはずだ。それに、持ち出されたは人には害がないって…


 僕が一人でぐるぐると考えを巡らせていると、魔女はまたしても首を振って否定した。


「じゃあ、何だっていうのさ」


 僕はいよいよわからなくなって、語気が強くなる。


「私も…私も、失敗作だったということさ」


「君はよく僕が理解できない言葉を使うよね…もっとわかりやすく説明してよ」


 僕でもわかるように、納得できるように説明してよ…


「僕は…僕は、まだ君と一緒にいたい。病気じゃないって言うなら、何か方法はないの? もしなくても、何か考えれば…」


 僕の言葉を遮るように、僕の手に魔女の手が触れた。

 その手はとても小さく、そしてとても冷たかった。“温度” なんて言葉はそこには存在しないかのように、とても、とても冷たかった。


「いいんだ。本当に、もういいんだ」


「いいって…全然よくないよ! 何がいいって言うんだよ!」


 僕は感情がたかぶりすぎて、涙が瞼からこぼれ落ちてしまった。

 魔女にこんな醜態を晒すのは二度目なわけだけれど、僕はそれを気にする余裕もないほどに、魔女から目を離せなかった。


「いいんだ。お前はもうここに来る必要はない。お前はもうここに来る前のお前じゃない。一人いじけていた頃のお前じゃない。だから、私の面影を追う必要はないんだ。


 お前はお前の世界で生きていくんだ。お前の生きている時間を生きるんだ。お前にはそれができる。お前が、自分を生きていってくれれば、私はそれで十分だから」


「だから、泣くな」そう言って、魔女の手が僕の頬に触れる。そのひんやりとした感触が、嫌でも感覚を伝える。

 僕はその手に自分の手を重ねた。僕の体温で、少しでも魔女の体温が戻ればいいのに。そう思いながら触れていても、それは一向に上がる気配をみせない。


「今…こんなタイミングで、こんなことを言うのは酷かもしれないけどな」


「…何?」


 僕は震える声を隠すこともせずに、魔女の声に耳を傾けた。


「私は、お前と過ごす時間が好きだったよ。という行為に関心なんてなかったのに、いつの間にか楽しいと思えるようになった」


「じゃあ、生きてよ! 生きていてよ!」


 気づけば、僕は何を気にすることもなく、大きな声を出していた。


「ここを出て、一緒に外にも行こうよ。一緒に行きたい。連れて行きたいところだって、たくさんあるのに!」


「私はもう十分生きた。お前の、そのコロコロ変わる感情に触れて、その温かさを知った。幸せだと思える、そんな幸せを与えてもらった。

 そんなお前だから、きっともう大丈夫。友達もできるだろうさ」


「嫌だよ! 無理だよ! 僕にはできない…君に対してだって何もできないのに。目の前で苦しんでる君にだって……何もできないのに…」


 僕は何にも変わっていない。何にもできない僕のままだ。

 消えいきそうな君に何もできないのに、どうして君はこんな僕に大丈夫なんて言うのか。

 こんな、何者でもない僕に、君は…どうして今、優しい言葉をかけるのか。


「お前はここに来た初めの頃に、バカにされると言っていたな。それはこれから先も起こりうる話だ。この先も、誰かにバカにされることがあるかもしれない。もっと歳をとって大人になれば、今以上に不条理は増えるだろう。

 でもな。誰がお前のことをバカにしたとしても、自分で自分を卑下してはいけない。それに、お前はバカじゃない。



 もし今、何者でもないことを恥じているのなら、その必要もない。

 何者でもないということは、何にでもなれるということだ。

 それは、人に迷惑をかけるようなことではない限り、誰かに引目を感じる必要もない。遠慮する必要もない。それは、父親に対してだってそうだ。


 お前は、そういうことを全て無視して、考えたことはあるか?

 お前の心に問いかけたことはあるか?」


 魔女は辛くなったのか、話の途中で僕に触れていた手を下ろした。

 初めて魔女が伝えてくれるその長い言葉が、僕にはお別れを言っているようにしか聞こえなかった。まるで最期の言葉のようだった。

 瞼から次々こぼれ落ちる雫を拭うこともなく、僕はぼやけていく視界で、魔女を見つめていた。


「お前が今、一番やりたいことは何だ?」


「……君を、救いたい」


「ふっ、お前は…他にないのか」


 魔女は笑っていた。何が面白いのか、さっぱりわからないけれど、これまでで一番楽しそうに笑っているような、そんな声をしていた。


「じゃあ、それでもいい。その気持ちのまま夢を見ろ。夢を見つけろ。そのために努力できるようになったら、見えてくるものがあるはずだ」


「それって…」


 それじゃあ、間に合わないじゃないか


 そんな言葉を、僕は飲み込んだ。

 その先を、口に出して言えなかった。


 まだぼやけている視界に映る君は、やはり笑っているように見えた。


「大丈夫。————奏多かなたなら大丈夫だ。だから、安心して前に進め」


「どうして…」


 どうして、名前を————

 どうして、今、名前で呼ぶんだ…————


「それに、もし私が死んでも、幽霊になってお前に会いにきてやるよ」


「何だよそれ…そんなこと言うなよ……」


「幽霊の方が身軽だからな。いつでも見守っててやるぞ」


「…幽霊だなんて、君がそんな言葉を使うのは珍しいね」


「何だ、幽霊を信じていないのか? 私にはぞ」


 魔女はいつになく、おどけてそう言った。

 きっと魔女なりの冗談なのだろう。魔女の冗談はいつも、タイミングも、内容もその場の雰囲気にそぐわない。

 それでもきっと、僕を励ますために、この場を和ませるために言ったのだろうと思う。全然笑えないけれど。


「僕は遠慮したいかな…幽霊になった君なんて、絶対もっと意地悪じゃないか…だから、幽霊になんてならずに元気でいてよ」


「……とりあえず、大丈夫だから。今日はもう帰れ」


「え……ここにいちゃダメ? 部屋はたくさんあるんだし、何かあった時に…」


「帰るんだ。お前は絶対に大人しくしてないだろ。部屋の周りをうろうろされるだけでも落ち着かないからな」


 寝られるものも寝られない、魔女はそう付け加えた。


 そう言われると、僕はもう返す言葉がなかった。


「じゃあ、今日のところは帰るけど。明日、また来るから。絶対来るから」


「わかった。そんなに何度も言わなくても聞こえている」


「あ、ご飯は…」


「しつこい。いいから。寝れば回復するから」


 魔女の言葉に、僕は立ち上がり、部屋の出口へと向かった。

 僕がドアノブを手にし、振り返ると、魔女はすでに目を閉じ、眠っているようだった。


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