13 試みた説得
「アラニンはA。GCCとGCAと…」
一般的な世間の休日。つまり日曜日。
今日は出勤日ではないのか、大男の来訪がなく、静かな朝を迎えていた。
休日の朝食当番は、いつからか僕が担当することになっていた。とは言え、特別なものを作るわけでもなく、いつも通りの簡単な朝食だ。
僕はそろそろ父さんが起きてくる頃だろうと、コーヒー用のお湯を沸かしながら、ぶつぶつと呪文のような言葉を繰り返していた。
「リジンはKでAAAとAAG……」
「独り言か?」
「わぁ! ……なんだ、父さんか…脅かさないでよ」
突然声をかけられ、僕は持っていたカップを落としそうになった。
まさか僕がそんなに驚くとは思っていなかったのか、父さんの方がよっぽど予想外だという顔をしていた。
さっきの父さんの言葉、そしてその言い方が何だかどこかの魔女に似ているように思えた。
それは何度目かの既視感だった。それを思い出すと何だかおかしくなって、僕は笑いを隠すために、口元を手で覆った。
「何か口ずさんでいたみたいだけど、」
「ん? あぁ、あれだよ」
僕は冷蔵庫に無造作に貼られた一枚の紙を指差した。
「ミネさんが昨日置いてったやつ」
「………あぁ…」
父さんは何かを思い出すように、視線を投げ、すぐに頷いた。
昨日の今日だ。今からボケが始まってもらっては困る。
昨日、僕が家の中に入ろうとするのを、大男は二度目の邪魔により、その進行を阻んだ。
何だ? と思っていると、大男は先ほどサンプルを入れた鞄の中から一枚の紙を取り出した。
「そういえば、コドンに興味があるんだって?」
「コドン? コドンって何ですか?」
「ん? 学校の授業で習わんのか」
そう言って渡された紙には、アルファベットが入った表が書かれていた。
アルファベットは、A・U・G・Cの4文字で、その4文字が上と左右の端に書かれている。さらにその中には、端のアルファベットを、左・上・右の順に読み取っていった、三文字が含まれていた。
コドン…
その言葉を聞いたことがあるような気もするし、ないような気もする…
僕はもう一度その紙に目を落とし、表を眺めた。
書かれているアルファベットは、どの行、どの列も同じAUGC。その四文字のアルファベットには見覚えがあるような気がした。
けれど、一文字だけ違和感を感じる。
「これって、塩基? でも “U” は違いますよね…」
「ちゃんと勉強してるじゃないか。確かに塩基だ。でもこれはDNAじゃなくて、RNAの方だな」
「RNA?」
DNAとRNAなら僕だって知っている。
授業でも習った……ような気もする。それに、ちょうど最近読んでいた本にその言葉が登場した。
確か、タンパク質を作るときに、それぞれのタンパク質の情報を持ったDNAが出発地点となる。
そのDNAから情報を読み取って運ぶ役割を持つのが、RNAだったはずだ。DNAから情報を読み取ったり、運んだりするRNAにはそれぞれ名前が付けられていたはずなのだけれど、そこはまだ勉強中だ。
それで、DNAから情報を読み取るんだから、RNAもそれぞれ対応する塩基があるわけで…
あ、そうか。それがAUGCだ。どういうわけか、DNAではTなのに、RNAになると、そこだけUになるんだよな。それに関しても、今度自分で勉強しておこう。
「思い出した! タンパク質になる前に、まずそのもとになるアミノ酸を作らないといけないから。コドンはそれを作る三つの塩基だ」
「さすが、父さんの子だな」
なぜか誇らしげに笑う大男に、僕は少し恥ずかしくなった。
でも、コドンの意味はわかったけれど、どうしてこれを大男が僕に渡してくるのかについては謎が残った。
改めて見ると、確かに三文字の塩基の前に、アミノ酸を示す略号が書かれていた。
アラニン(A):GCU, GCC, GCA, GCG
バリン(V):GUU, GUC, GUA, GUG
リジン(K):AAA, AAG
アスパラギン(N):AAU, AAC
セリン(S):AGU, AGC
スレオニン(T):ACU, ACC, ACA, ACG……
と、こんな感じで、二十種類のアミノ酸を構成する三文字の塩基、つまりコドンの表が僕の手の中にあった。
「まぁ、とりあえずもらっとけ。せめてAのアラニンくらいは覚えとくんだな」
「いや、それを言うならストップコドンだろ」
そこで初めて口を挟んだ父さんに、大男はそれもそうか、と二人で会話を盛り上げていく。
そうして繰り出される会話に、僕は全くついていけなかった。
「それで、こいつは
「そういうことだね。ここなら、ミネさんが来ても目に入るし」
大男は、すでに我が家に馴染みつつあった。
自分の家かのようにキッチンにも立ち入るのだから、冷蔵庫に貼ったそれにも気がつくだろう。
そして、僕も朝食の準備をしている間に、度々視界に入るそれを、自然に口にするようになっていた。
もう粗方、ほとんど覚えたと言っても過言ではない。
実は、こういう単純な記憶力を要するものは、得意な方なのだった。
「お湯湧くよ。今日は僕がコーヒー淹れようか?」
「じゃあ、お願いしようかな」
心なしか嬉しそうな声に、僕はまた手で口元を隠した。
***
相変わらず太陽は強い光を放っていた。
セミの鳴く声も、日に日にその威力を増し、全く統一性のない合唱を聴いているようだった。
そんなことを達観しながらこの道を歩くのも、何だかとても久しぶりのような気がした。
歩く、という行為が、遠い昔の記憶のように感じ、僕は何だか可笑しくなった。
今日は魔女に伝えないといけないことがあった。
報告とお願い。
魔女は無理だと言っていたけれど、何もしていないうちに言い切るのはいかがなものか。
なんて、今までの僕には考えられない思考と、自分のしつこさに笑ってしまうけれど、不安要素がなくなった今、僕は少しでも長く魔女と一緒にいたかった。
コロコロ意見が変わっているように聞こえるかもしれないけれど、それは違う。断じて違う。
魔女が無事でさえいてくれれば、僕はそれでよかった。たとえ近くにいなくたって、どこかで元気に暮らしていてくれれば、また会う機会はいくらだってある。
でも、もう遠くに行く必要はない。それなら、今はまだそばにいて欲しかった。わがままかもしれない。矛盾しているかもしれない。けれど、今遠くに行かれてしまうと、もう二度と会えないような気がした。
それは僕が高校生で、何もできない人間だからだろうか。
僕は首を振った。
自分の言葉を否定するためではない。弱気な自分を消し去ろうとしての行動だ。
問題は、いつものことながらノープランだということだ。
僕はどうも考えるより先に体が動いてしまうようで、勇んで目的地に向かうのだけれど、その後のことは全く考えていなかった。
とりあえず、魔女の説得から試みよう。
魔女の上司? にあたる人に話をつけなければいけないとなれば、それはまたその時考えればいい。
僕は森の中を歩き、魔女が住む家までやってくると、いつものようにその姿を探した。
「いた! おは…もう、こんにちはかな」
「? 今日は何だかやけに元気そうだな」
「そう? あ、でも君にいい知らせがあるよ!」
僕は嬉々として声を弾ませたけれど、魔女はやっぱりいつも通り、ほとんど無反応だ。
それもすっかり慣れてしまっていたので、僕はトーンを落とすことなく話し続ける。
「今だから言うけどね。実は君たちは危険な状態だったんだ! 特に、犬たちに危害が及ぶ恐れがあって。でも、僕は余計な心配をかけたくなくて言えなかったんだけど…でも、それももう大丈夫。犯人は捕まったから。君は、君たちはもう急いでここを離れる必要はなくなったんだ」
僕は嬉しさのあまり、いつもより早口になった。
ここに来るまでに頭の中で何度もシミュレーションしたはずなのに、それは少しも功をなさない。
それでも、伝えたかったことは伝えられたはずだと思った。
とは言え、危害だの何だのの詳細は伏せたので、どこまでこの魔女が理解したかはわからない。
僕の、特にテンションがおかしくて、何を言っているかわからない僕の話を、この魔女がどこまで真剣に聞いてくれたかは、魔女の顔を見てもわからなかった。
「ねぇ、しつこいようだけど、君は本当にここを出ていくの?」
「ふっ、本当にしつこいな」
一蹴するように吐き出された言葉は、その本来の言葉よりも柔らかさを帯びていた。
————ように感じたのだけれど、気のせいだろうか。
真意はどうあれ、僕は元々気分が良かったことに加え、さらに気を良くし、このまま押せばどうにか説得できるのではないかと考えた。
元来、単純な人間なのだ。僕という生き物は。
「少しだけ…そう、ほんのちょっとでもいいんだ。少しでも長くここにいられるようにできないかな? もし上の人に掛け合うのに、君が一人じゃ心細いって言うなら、僕も…」
どうしてこんなに必死になっているのか。何を一生懸命に引き留めようとしているのか。
どうして僕は、魔女に、近くにいてほしいと思っているのか。
その答えを見つけられないまま、魔女の方を見ると、魔女は黙って首を振っていた。
それが何に対しての否定なのか、僕にはわからない。
一人で行けるということだろうか。
僕が一緒の方が心許ないということだろうか。
そんな現実逃避をしてみたけれど、本当はわかっていた。
「どうして…?」
「言っただろ? もう役割は終わったんだよ」
「でも、ここを出てもその仕事は変わらないんでしょ? それなら別にこのままここに残ったっていいじゃないか! それでもダメだって、ここを出ていくっていうなら、納得できる理由を教えてよ!」
まるで子どもみたいな駄々をこねても、魔女の表情は変わらない。
本当に、もう本当に何を言っても変えられないのだろうか。
僕の声は、君に届かないのだろうか。
僕は何とか他に説得できる方法はないかと、見苦しくも足掻く術を探していた。
そんな僕を、君は珍しくまっすぐ見つめていた。
その表情が、何だか少し困ったような、それでいて初めて見せるような穏やかな雰囲気を醸していた。
いやだ。
僕は無意識に、そう心の中で叫んでいた。
魔女の口が動かないことを願った。目を閉じてしまいたかった。耳を塞ぎたかった。
けれど、その願いは、何一つとして叶わない。
「もういいんだ。もう、本当に役割が終わったんだよ」
「…わからない。君の言っていることは何もわからないんだよ」
「だから、……っ……」
「え…」
魔女の言葉が途絶えた。
それは魔女が自分の意思で止めたのではなく、止まったのだと理解する前に、魔女が僕の視界から落ちていく。
慌てて手を伸ばしたけれど、それは届くことなく、魔女は崩れるようにその場に倒れ込んだ
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