11 選ばれない選択肢

 僕は走っていた。

 どういうわけか、あの場所に向かうとき、二回に一回、いや三回に一回は急いでいるような気がする。

 何かのために、誰かのために走るなんて、まるで物語の出来事みたいだ。確か、そんな話があったはずだ。

 余裕なんてないはずなのに、僕の頭はそんなどうでもいいことを考えていた。

 そのエネルギーを筋肉にまわせよ。この一大事に、無駄なことしてんなよ。と僕は僕自身に悪態をつく。


 それでも、僕の思考回路はよくわからない方向へと向き、息は上がったままだ。


 早く、早くついてくれ!

 どうか、それまで何も起きないでくれよ。無事でいてくれよ。


 僕は心の中でその言葉を繰り返した。

 そんなことを繰り返したところで、意味がないことは重々承知だ。

 それでも僕は、この無限にも思える時間をやり過ごすのに、無意味なことでもしていないと落ち着かないのだった。



 たかだか2kmの距離なのに、森の入り口まで来ると、僕の足は悲鳴を上げていた。

 家からここまで止まらずに走ってきたのだ。それは当然の結果かもしれない。


 あと少し。あと少しで目的地に到着する。

 動け、僕の足。ここで頑張らないで、いつ頑張るんだよ!



 息も絶え絶えに、やっと目的地が見えてきたところで、僕の足は止まった。止まった、というのは語弊がある。正確には、止めたのだ。

 足に限界がきたからではない。いや、足はとっくに限界を迎えていたけれど、走れなくなったわけではない。僕は僕の意思で、その足を止めたのだ。


 僕の目は、人影を映していた。瞬時、心拍数が上がる。

 けれどそれは、この前見間違えた人影とは違っていた。今、目の前に見えているその人は、髪が長く、華奢な女の人だった。前に見た、背幅がある人物でも、魔女でもない。

 それなのに僕は、その人影に既視感を感じた。どこか見覚えがあるような、けれどそれははっきりした記憶があるわけではなかった。ただなんとなく、ぼんやりとした感覚があるだけだった。


 その人はこちらを振り返った。

 ————しまった。僕はその瞬間ドキリとした。

 顔は木に隠れていて見えなかったので、目があっているかどうかはわからない。

 ただ、その口元に笑みを浮かべているということだけはわかった。


 僕は少しだけ怖さを感じながらも、その人から目を逸らすことができなかった。

 まるで吸い込まれるように、僕はその人に視線を送り続けた。


 ふと、その人の口が動いた気がした。唯一見える口元が、何かを口ずさむように動く。

 ただ、僕とその人との距離は遠くて、声までは聞こえない。声を発しているかどうかも判然としない。


 僕がその口元に集中していると、風が木々を揺らした。

 それほど強い風ではなかったけれど、木を揺らすほどの風だ。そんな風に耐えきれなくなった葉が落ち、そのまま風に乗って僕の方へと向かってきた。僕は思わず目を瞑り、迫る葉から目を守ろうとした。


 ー大丈夫ー


 まるで、風が葉っぱと一緒に運んできたかのように、僕の耳に言葉が届いた。

 それは言葉として鼓膜を通過したように思えた。けれど、視覚が閉ざされた状態の出来事だったので、単に木々のさえずりだと言われたら、そうかと納得してしまうほど、ささやかなものだった。


 風はその一瞬だけだった。すぐに収まり、僕は目を開けると、女性がいた場所へと視線を戻した。

 けれど、またしてもそこには誰もいなかった。

 僕は目を擦り、もう一度を見たけれど、やはり誰の、何の姿もなかった。


 僕は汗だくで、水でもかけられたのかというほどびしょ濡れ状態のT-シャツで汗を拭った。もちろん、もはやそれに意味はない。意味はないけれど、それが無意味であるということもわからないほど、僕の思考は働いていなかった。


 僕は崩れるようにその場にしゃがみ込んだ。

 何だかどっと疲れを感じた。体力的にも、精神的にも。


「どうしたんだ、こんなところで」


 その声に僕が顔を上げると、不思議そうに僕のことを見つめながら、魔女が近づいてきていた。

 魔女の表情がいつもよりも気が抜けているように見えるのは、僕の緊張の糸が緩んだからだろうか。


 僕の心配なんて一蹴されるように、魔女も、犬たちも何の変わりもなかった。

 そこにあるのは、いつもの日常だった。


「君が…いや、あの子たちもみんな無事でよかったよ」


 僕が心の底から発した言葉を、魔女はやはり不思議そうな顔で返した。


「暑さにでもやられたのか?」


「違うけど…君は呑気でいいね」


 僕はため息をついた。

 きっと、魔女の方がよっぽどため息をつきたかっただろう。表情がそれを物語っていた。

 けれど、僕の方が先にそれを吐く。まず、呼吸を整えたかった。


「いや、でも暑さにやられたのかな?」


「本当に大丈夫か?」


 暑い中、ここまで走ってきて、軽い熱中症を発症しているのかもしれない。

 それで、ちょっと脳がおかしくなって、幻覚、幻聴を見聞きさせたのかもしれない。

 もう、そう思うことにしよう。

 そうでないと、僕の頭はパンクしそうだった。


 もしあれが幽霊とか、そういうたぐいのもので、僕が霊感を持つようになったとすれば、それはそれでゾッとする。

 身につくならもっと楽しい能力がいい。


 そんなどうでもいいことを考えながら、けれど何も解決していないことを僕は思い出す。今日、今この時点で何もなくても、いつ何が起きるかわからない。

 あの犯人が捕まるまでは、安心できないのだ。

 僕に、他に何かできることはないだろうか。


「そうだ、お前に言わないといけないことがあったんだ」


「何?」


 僕はまだ立ち上がれそうになくて、魔女を見上げながら、話の続きを待った。


「ここを離れることになった」


 魔女はあまりにもいつも通りに、表情一つ変えずに言うもんだから、僕はその言葉を違う意味で解釈しそうになった。

 というよりかは、全くと言っていいほど、その内容を飲み込めていなかった。


「ちょっと待って……それ、どういう意味?」


「どういう意味もなにも、そのままの意味だが?」


「離れるって、え…なに、どういうこと」


 僕はテンパっていた。

 “離れる” という言葉を初めて聞いた子どものように、その意味を魔女に問うた。

 あまりにも衝撃が強すぎて、僕の頭の辞書からは飛んでいってしまったのだろうか。どこを探しても答えが見つからない。


「今日、明日の話ではないがな」


「……君、いなくなるの?」


「だから、そう言っているだろ」


「どうして?!」


 僕は自分でも驚くほど、大きな声が出た。その勢いで、先ほどまで立ち上がることなどできないと思っていた足も奮い立ち、僕は魔女に触れられる距離まで近づいた。

 もちろん、目の前にいる魔女の方が驚いたはずで、その表情は珍しく崩れ、目を見開いていた。


 ただ、それも一瞬のことで、魔女はすぐにいつも通りの表情に戻ると、感情があるのかどうかもわからない口調で説明を続けた。


「もう役目を終えたからだ」


「役目…?」


 それは、を育てるという意味だろうか。彼女がここにいる理由として聞かされた話はそれだけで、それ以外には何も知らない。

 僕は目で、魔女にその真意を乞うように訴えたのだけれど、魔女はそれ以上自分から口を開こうとはしなかった。


「ここにいる子たちも、みんないなくなるの?」


「あぁ」


「そう、なんだ…どこに行くの? ここから遠いの?」


「あぁ」


 魔女が頷くのを見て、僕は俯いた。俯きながら、ここで魔女が冗談だ、と言ってくれることを少し、ほんの少しだけ期待した。

 もちろん、魔女がそんなことを言ってくれるわけがないことも知っている。

 魔女の言葉は、ただただ現実を突きつけるだけだった。


 魔女がいなくなる。みんな、ここからいなくなる。

 それは、ここに来てももう会えないということを意味している。

 そんな簡単なことを理解するのに、僕は相当な時間を費やした。

 いや、理解はしていたさ。ただ、それを受け入れられなかっただけで。


 魔女に出会う前の生活に戻ってしまう。それが無性に嫌だった。他の言葉で言い表しようのない感情でただ、嫌だ、と心が叫んでいた。


「それより、どうしてお前はそんなに急いで来ていたんだ? 何か用事だったのか?」


「え……あ!」


 僕は顔を上げた。

 そうだ。僕は急いでいたんだ。急いで、走ってここまで来たんだった。あまりに現実味がないことばかりが連続して起きたことで、僕の頭はその重大な現実を追い出そうとしていた。一番大切なことなのに。


「それが、」


 僕は口を開きかけて、すぐに閉じた。

 相変わらず、汗はひかないのだけれど、僕は少しずつ冷静さをとり戻しつつあった。


「君はここからいなくなるんだよね?」


「あぁ」


「この子たちもみんな一緒に、どこかに行ってしまうんだよね?」


「だから、そう言っている」


 そうか、と僕は心の中で呟いた。

 君はいなくなる。ここにいるみんないなくなる。

 それは僕にとって “無” となることに等しかった。


 けれど、僕は思い出したのだ。ここに急いで来た理由を。

 僕は、みんなを救いたくて走ってきたのだ。助ける方法も何も持っていないのに、僕は無我夢中でここに来ることだけを考えていた。

 みんなの無事を知ってもなお、僕は彼らを助ける術を持たない。無力だ。

 それを先ほどまで考えていたではないか。


 でも、魔女は言った。

「ここからいなくなる」と。


 それはの視点で考えると、“避難” だと言えないだろうか。

 いつ迫ってくるかもわからない恐怖から逃れるための、最善の予防策だ。


 僕は、これだ! とあたかも自分が閃いたかのように喜んだ。

 魔女の手を取って、この辺り一面を走り出したいほど、僕は浮かれていた。

 もちろんそんなことできないし、魔女がそんなことを許すとも思っていない。


 けれどふと、それまでの間はどうするんだ? と僕の中の最上級冷静な僕が、そう耳うった。

 僕はまた別の意味ではっとした。

 喜びは一瞬だった。


「ねぇ、いつここを離れるの?!」


「いや、それはまだ…」


「早くここを離れたほうがいい!」


 血相を変えて言い放つ僕に、魔女は何がおかしいのか、少しだけ笑ったように見えた。

 実際、魔女は鼻で笑っていた。


「言っていることが矛盾しているな。お前は、私に早く出ていってほしいのか?」


「いや、そうじゃない! そうじゃないけど…」


 僕はうまく説明できそうになくて、口籠った。

 もちろん、うまく話す必要なんてないのだけれど、それでも僕は続く言葉を見つけられずにいた。


「どちらにしろ、それを決めるのは私たちじゃない。お前が何を考えているのかは知らないが、抗えないんだよ」


「そんな物分かりのいい大人みたいなこと言わないでよ」


「大人だからな」


 まだそんなことを言っているのか、と僕は泣き出しそうになる気持ちを精一杯抑えた。

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