09 想像
もうすっかり習慣となった早起きに、今日は努めて、さらに早く起床した。眠たい目をこすりながら、僕は二度寝をすることなく部屋を出た。
今日から夜だけじゃなく、頭が冴えているだろう朝の時間にも勉強することに決めていた。
僕は、父さんと大男が貸してくれた本や資料を片っ端から読んでいった。
どれも噛み砕いた表現で、全く無知の僕にもわかりやすいものが多かった。
きっと二人とも、僕のことを考えて選んでくれたのだろう。そういうところも相まってか、見た目は正反対なのに、どことなく似ているところがあるような気がした。醸し出す空気? いや、それはあまりに違いすぎるか。
クローンで有名なのは、ドリーだ。僕がその言葉の意味を思い出すきっかけをくれたのもドリーだった。
ドリーは僕が生まれる前に誕生した、羊のクローンだ。
それまでにもクローン動物はいたとのことだけれど、ドリーに注目が集まった理由は、ドリーが初めての “体細胞クローン” だったから、ということだった。
「ねぇ、父さん。体細胞クローンって何?」
僕は数分の間、同じところをずっと目で追っていた。唸りながら、本とにらめっこをしていたところに、父さんが起きてきて、僕はすぐさま質問を投げかける。
父さんは寝癖をつけた頭を僕の近くに寄せると、開いてある本を手にとった。
僕が苦戦していたページの前の方をペラペラと
先ほどまで寝起きの、視点が定まらないような目をしていた父さんは、その音とともにすごい速さで文字を追っていた。
しばらくしてその一旦が終了したのか、父さんは本から目を上げ、僕の方を向いた。
「受精卵ってのはわかるか?」
「
「うん、イメージとしてはそうだな。卵だから、まだ何にもなってないよな」
「うん」
「言い換えると、それは何にでもなれるということだ」
受精卵は、全てではないけれど、生命体ができる最初の細胞だ。
人の場合、受精卵が母体の中で栄養分を受けて育つのだという。卵だった細胞は、それぞれ頭や様々な臓器へと形を変える。母体の中ではその全てが完全体とまではいかないけれど、おおよその体には近づいていくのだ。
クローンは元々、受精卵の核を使ってつくられていたのだと、父さんは教えてくれた。
どうして受精卵が使われていたのかというと、体細胞、つまり組織とか器官などの細胞は、もうすでに細胞の性質が固まっているため、皮膚細胞の核なら皮膚をつくる部分の遺伝情報しか読み取ることができない。だから、その細胞の核から新たに生命を生み出すことは無理だと言われていたらしい。
僕は頭がこんがらがってきて、父さんの説明を止めた。
一旦整理したい。
僕は自分の手を見つめた。
例えば、皮膚には皮膚になるための性質が備わっている。肝臓なら肝臓の。
それらは確かに、その性質も見た目も違っている。いや、自分の肝臓を見たことはないんだけどさ。
僕は教科書か何かで見た肝臓を思い浮かべながら、自分の手と見比べる。
それらは、それぞれに違う過程を辿って、目標の組織、臓器になる。そして、一度目標にたどり着いたものは、もう別のものにはなり得ない。
確かに、ある日突然、皮膚が肝臓に変わっていたら怖いけど。
僕の表面全てで、解毒作用を示すことになるのか。そんなことを想像して、僕の肝臓の知識が、その程度だということが露見した。
皮膚が肝臓に————そんなことを考えると、少し怖くて、少し面白かった。
「それで、その体細胞からはクローンはつくれないって言われてたんだね?」
「あぁ。けど、受精卵を使う方法だと、作製するクローンの数には限界がある」
「どうして?」
「体細胞に比べて、圧倒的に数が少ないからだよ」
僕はまた、頭の中にトリップした。自分の知識をかき集め、想像する。
確か受精卵は、それ一つで生命ができるはずだ。卵一つに、一つの命。
それとは反対に、僕らの体を構成する細胞数は、確か何十兆個とあるはずだ。
常に存在するものではない受精卵と、僕らの体に常在する体細胞。
そう考えると、父さんが言っていた言葉を納得することができた。
「ドリーは、その不可能って言われていた体細胞を使ってつくられた初めてのクローンってことか」
「飲み込みが早いな。ドリーは確か、乳腺から細胞を取って、乳腺になる前の遺伝情報に初期化されてつくられたものだったはずだよ」
「遺伝情報の初期化…そんなことができるのか。つまり、乳腺だったことも、乳腺になる方法も忘れてしまった、ということだね」
父さんは僕の言葉に頷いた。
「へぇ。うん、ちょっとわかった気がする。ありがとう」
僕が再び本に視線を戻そうとしたとき、父さんはなんだか照れたように笑ってテレビのリモコンに手を伸ばした。
起動されたそれが、静かに音を発していく。
「——————————が発表されました。現在、記者会見が行われています」
アナウンサーがそう言うや否や、映像が切り替わった。
フラッシュにご注意くださいという注意書きの中、眩い光が画面を照らしている。
それが止み、そこにいる人たちの姿が目に入った。
いかにも、と言うような記者会見会場に、スーツに身を包んだおじさんたちが何やら誇らしそうな顔で説明している。
「何? 何かが見つかったの?」
「人工塩基が開発されたんだと」
「人工塩基って何?」
「塩基はわかるか?」
「あの、AとかTとかのあれだよね」
父さんは少しおかしそうに笑って、頷いた。
「塩基はATGCの4つしかないけど、それに加えて新しい塩基をつくったって言う発表だよ。
さっきの話じゃないけど、塩基が並んで遺伝情報が作り出されてる。だから、それに新しいものが加わると言うことは、今よりさらに機能とか諸々、新しい何かができるようになる。その先駆けの発表ってところかな」
その何か、は研究者の興味によるんだけど。と父さんは加えた。
「新しいことができるっていうのはいいこと? 例えば、新しいことができるようになることで、今あるものがダメになっちゃうことはないの?」
僕の問いかけに、父さんは一瞬目を見開いた。
そして、ほんの少し考えるそぶりをしてから、僕に向き合った。
「そうだな。もしかしたら、そういうものが出てくるかもしれない。それは、何をつくり出すかにもよるし、利用方法によっても違う。
でもな、難しい話だけど、何が良くて、何かが悪いという話じゃない時もあるんだよ」
「どういうこと?」
「うーん、そうだな。遺伝子の話をもう少しするとだな、遺伝子はこれまでも淘汰を繰り返してきたんだ。その時の環境に適合して、少しでも生き残るのに優位なものが残るように。
それでも、一見不都合に思われる遺伝子も残っていたりする。それは、ある人にとっては不都合な遺伝子でも、どこか別の地域の人にとっては、その不都合な遺伝子があることで、命を救われることもある。生命はそうやって反映してきたんだ。淘汰されて、その中で、今残っているものというのは、何らかの意味があるんだよ。自分たちが知らないだけで」
「なんだか、難しいね」
父さんは、そうか、と言って笑った。
自分から聞いておいてなんだけど、僕にはちょっと難しい話だった。すぐには理解できそうにはなかった。
「あ、もう一つ!」
部屋を出て行こうとしていた父さんを呼び止めると、これで最後、と言わんばかりの勢いで質問を投げかける。
「クローンって短命なの? ほら、ドリーは短命だったって書いてあるからさ」
「クローンの短命説は否定されているよ。ドリーの死因についても明らかになってるしな」
テロメアが関係してるんだろうと言われていたんだけど…
と、父さんは再びたくさんのことを説明してくれたけれど、やっぱり僕の頭では追いつきそうになかった。
でもなんだか、前よりかは興味が持てたような気がした。
もっと知りたいと思う気持ちを、僕は感じていた。
***
僕は森の中で、木陰になっている場所を見つけると、そこに腰を下ろした。
その場所を選んだ理由として、日陰になっているということも、もちろん大切なことではあるのだけれど、最も重要なことは、この広場一面を見渡せることにあった。
僕はそこで、持ってきた本を広げた。今朝読んでいたものの続きだ。半分くらいは進んでいたから、残り半分を読んでしまいたかった。
暑い中、どうしてわざわざここにくる必要があったのか。と問われると、それは約束をしたからだ。
僕の一方的な約束だけれど、そう決めていたからだ。僕の約束はいつもそうだ。僕の自己満足のために、暑い中、こうして赴いたのだった。
魔女は相変わらず、たった一人で犬の世話をしていた。
僕は手伝わないんじゃない。手伝わせてもらえないのだ。その理由はよくわからない。おそらく、ソラとの取り決めと同じようなものだろう。
それに世話と言っても、基本的には放牧状態なので、手を加えることといえば、ご飯の時間に、それを準備することくらいだった。だから、僕が手伝うほどでもないのだ。
そして、魔女は時々ため息を
「なんだ、本を読んでいるのか。珍しいな」
またしてもいつの間にかそばに来ていた魔女が、僕が読んでいる本を覗き込んだ。
僕は驚きながらも、その行為の方がよっぽど珍しい、と心の中で思った。
「…クローンのこと、勉強してるのか」
「うん、ちょっと面白そうだなと思って」
「ふーん」
興味を示したかと思った矢先に、魔女はすぐさまいつもの調子に戻る。
それは言ってしまえばいつものことで、僕はさして気にもしなかった。
けれど、この時は珍しく、魔女はさらに質問を投げかけた。
「もし、」
「?」
「もし、クローン技術で、お前の望むものがつくり出せるとしたら、お前はどうする?
お前の大好きだった祖母にも、お前が世話をしていたあの犬にもまた会えるとしたら」
もう一度会いたいか?
魔女は最後にそう言い加えた。
僕は全く自分の頭になかった発想に、呆気にとられた。
クローン技術で、僕が望むものがつくり出せる…
おばあちゃんに、ソラにまた会える…
僕は戸惑いながらも、魔女の質問の答えを考えた。
一度、魔女の言葉をしっかりと咀嚼し、自分の言葉に置き換えた。ちゃんと理解した上で、僕は自分の頭で考えた。
おばあちゃんに、ソラに、また会える。
僕はそれを映像として思い浮かべてみた。
すぐにおばあちゃんの笑顔が浮かんだ。ソラと一緒に遊んでいる風景が思い浮かんだ。
おばあちゃんは、優しく包んでくれたあの温かい微笑みを浮かべていた。
僕の何気ない会話を頷きながら聞いてくれる。時々頭を撫でてくれる、あの温かい手が大好きだった。
何も言わなくても、僕が落ち込んでいる時には、好物を作ってくれて、いつもニコニコしているおばあちゃん。
怒ったところを見たことのない穏やかな人だった。だから、僕の中でおばあちゃんはいつでも笑っていた。
ソラは、無邪気に尻尾を振って、僕の元に向かってきた。
いつでもあの綺麗な青い目で、僕をまっすぐに見つめ、遊んでとせがんだ。
僕が落ち込んでいると、慰めてくれる優しいソラ。
僕が話しかけると、きょとんとする顔もまた愛おしかった。
僕は閉じていた目を開けると、何だか急に虚しさを感じた。
目の前に何も存在しないことに、僕は胸が締め付けられる思いがした。
まるで心に大きな穴が空いているかのように、埋まらない何かを、その部分を塞ぐ何かを僕は探していた。
「いいよ」
「え?」
僕は涙が出る前兆のように、喉の奥が痛くなった。
それを飲み込むと、代わりに言葉を発した。震えないように、十分に気をつけて。
「そういう意味では会いたくない。それはなんか違う気がする」
会えたら、もう一度会えたらそりゃあ嬉しい。嬉しいに決まっている。
僕の記憶にない、会ったことのない母さんにだって、本当のことを言うと会ってみたい。
その気持ちはある。
でも、でもさ。僕はわかってしまったんだ。
想像できたんだ。
僕はもう、あんな想いしたくない。
どん底まで悲しんだ、あの時の苦しみを、もう二度と繰り返したくない。
想像でさえ、こんなに泣き出したくなるほど苦しいのに…
それに、これは想像の域を超えないけれど…きっと見送られる方も辛いよね? 悲しいのは僕たちだけじゃないよね?
それなら、やっぱり僕はいいや。自分のエゴをそこにまで持って行きたくない。
「そうか」
魔女の反応はあっさりしたものだった。それはいつものこと。自分から聞いておいて、こちらにボールを放り投げるのは、いつものことなのだ。
けれど、その言葉とは裏腹に魔女の顔には少しだけ、本当にほんの少しだけ笑みが浮かんでいた。
魔女が何を知りたかったのか、僕にはわからないけれど、魔女はちょっと満足そうに、犬たちのもとへと戻って行った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます