07 影

 日の出時刻を少し過ぎた頃。夏の朝は、冬のそれとは違い、こんな早朝でも暗闇とは無縁となる。


 僕は、朝早くから土いじりをしていた。父さんとの会話の糸口に、畑を手伝うと言ってしまったことで、僕は嫌いな虫と対峙する羽目になった。

 それでも、記憶の彼方に追いやられてしまった泥んこ遊びをしているようで、内心ちょっと楽しんでいた。

 それに、体を動かしていた方が、余計なことを考えずにすんだ。

 これが、逃げ、だと言われたらそうなのかもしれないけれど、部屋に篭っているよりはマシだろう。と僕は数日前までの自分を自嘲した。


「ねぇ、これも抜いちゃっていい?」


「あぁ。間違っても、この葉っぱだけは抜かないように気をつけて」


 父さんは同じ言葉を再三繰り返した。しかも、ご丁寧に葉を手に触れさせながら説明してくれるので、僕は目にも耳にもタコができる、と思いながらそれを聞いていた。

 植物に詳しくない僕でも、さすがにしっかりした茎のある葉と、土からひょっこり出ている葉を間違えたりしない。そのくらいの分別はあるつもりだ。

 それでも父さんが口うるさく言うのは、それだけ大切なことなんだろうということもわかっていた。


 今日はとりあえず、今育てているものの周辺を整理する作業だけで終わった。

 収穫作業はもう少し先に、けれどもう間もなく始まるとのことだった。その後に、新しいものを植え付けるために再度土を耕したりするらしく、本当に忙しいのはこれからだと父さんは言っていた。


「今日はどうするんだ?」


「今日? この後ちょっと出かけようとは思ってるけど」


「そうか」


 父さんはそれだけ言うと、首にかけていたタオルで汗を拭き、片付けを始めた。

 父さんのこういうところには、正直もう慣れた。それがどことなく魔女に似ているから、耐性がついてしまったのだろうか。

 そう考えると何だか少しおかしくなって、僕は小さく笑った。


 片付けを手伝いながら、僕はふとあるものに目がいった。



「ここに咲いてる花、ちょっともらってもいい?」


「ん? いいけど、そんな野草どうするんだ?」


 僕は、ピンクや青といった色の小さな花を指差して、父さんに摘んでもいいか訊ねた。

 父さんの口から “野草” という言葉が出てきて、その言葉を聞いて、僕は初めてそれが人工的に植えられたものではないことを知った。

 それなら尚更都合がいい。


「ちょっと、お土産に」


「お土産? そんなのでいいのか?」


「うん。これがいい」


 きっと喜ぶ。僕は素直にそう思った。

 僕が今考えていることをあの魔女が許してくれるかはわからない。でも、それでも僕はやっぱりお別れがしたかった。

 ちゃんと悲しませてほしい。それが自分のエゴだとしても、前に進むためにさよならを、ありがとうを言わせてほしい。

 たとえ、そこにいないとしても、最後の言葉を伝えたい。


「こんなところにいたのか」


 僕が父さんに花の摘み取り方を聞いていると、少し離れたところから野太い声が聞こえた。

 僕たちは揃って声がした方に視線を移した。そこには大きな男の人が立っていた。

 その人は格闘技か、もしくは何か相当な力仕事でもしているのかと思うほど、大きな人だった。

 身長だけじゃなくて、恰幅のいい、大男という言葉がぴったりだった。


 父さんはその大男に馴れ馴れしく話しかけていた。

 あまりに親しそうに話すもんだから、知り合いなのだということは察することができた。けれど、それがわかっていたとしても、その圧倒的な雰囲気とか、圧力のようなものに僕は怯み、足がすくんでいた。

 それほどに、形容し難い物凄いオーラで、とにかくとてつもない何かを帯びていた。


「おう、坊主。見ない間に大きくなったな」


 前に会った時は、こんなに小さかったのに


 そう言って、親指と人差し指でその大きさを示した。

 大男の指とはいえ、さすがにそんなに小さいはずがない。この世に生み出されてからであれば、尚更だ。


 けれど、その人が示すように、僕がこの大男に会ったのは、かなり小さい時だったのだろう。その証拠に、僕はこの大男に会った記憶がない。こんな大男を一度でも見ていれば、忘れるはずがない。


 そんな僕に気づいたのか、大男は自分の正体を明かした。

 大男は父さんの元同僚なのだと僕に説明してくれた。それを聞いた時、僕は目が飛び出るほど驚いた。

 これは完全に偏見なのだけれど、その職業の人を僕は父さんしか知らなかった。だから、みんな父さんみたいな人なんだろうと思っていた。それは、見た目の意味で。

 父さんは、この大男とは全く真逆の細長いタイプの人間だった。線が細く、簡単に折れてしまいそうな体型をしていた。そんな父さんの血を、僕は完全に受け継いでいる。


「ほら頼まれてたもの」


「ありがとう」


 大男は、紙袋を父さんに手渡した。

 軽々と持ってきた大男から受け取った際に、父さんは少しだけ肩を落とした。どうやら、見た目に反して質量がたっぷりとあるらしい。

 遠目に中身を気にしていると、大男が僕の方に顔を向けた。


「父さんの専門に興味でも持ったか?」


 僕は訊ねられている意味が理解できず、首を傾げた。色んな戸惑いを隠しきれずに、僕は父さんの方に視線を移す。

 そんな僕の反応を見て、大男も不思議そうな顔で父さんに言葉をかける。


「何だ、は坊主には秘密だったのか?」


「…」


 父さんは、何やら気まずいそうに口籠った。

 おそらく全てを把握しているのは父さんなのに、その父さんが黙ってしまったら、誰がこの状況を説明してくれるというのか。焦ったくて仕方ない。

 僕は気になって落ち着かなくなり、その紙袋の中身を覗き込んだ。


 そこに入っていたのは、たくさんの本だった。

 そのほとんどが分厚いもので、感じた質量はこのせいだったのかと理解する。

 ちらっと見た限りでは、遺伝子や生物の何ちゃらというような言葉がタイトルにつけられていた。その中には、クローンという文字も見受けられた。


「血は争えんな、と思ったところだったんだがな」


「そんなんじゃないです」


 僕は父さんが目の前にいる手前、何だか照れくささを感じた。心なしか、少し声が大きくなってしまった。

 でもその言葉のとおり、僕は父さんの専門のことに詳しくなんかない。教えてくれなかったから。いや、僕が訊ねようとしなかったから。




 元々口数が多い方ではないけれど、父さんはいまだに言葉を発する様子がなかった。

 大男も黙ってしまった今、この空間には沈黙が流れた。


 あまりに静かになったものだから、僕は気づけば自分の世界に入り込んでいた。

 脳内そこには、たくさんの本が置いてあった。あの紙袋の中身みたいに、たくさんの本がバサっと置かれている。

 その一つ一つを手にとり、中に書かれている文章を目で追った。


 突然やってきた大男。遺伝子学者だった父さんの元職場の同僚。たくさんの本。父さんの専門。


 僕はそんなに頭がいい方じゃないから、それだけのことを咀嚼して、飲み込むのに時間を要した。僕の頭の中にある本は難しい言葉なんて使っていないのに。なんせ僕の頭の中だからね。それなのに、僕はまだ脳内に潜り込んだままだった。


 さらに、脳内トリップ潜入調査を続ける。

 大男はこうも言った。「これは坊主には秘密だったのか?」と。


 あの紙袋の中にある本には、クローンに関するものもあった。それが、クローンについてのどんな内容なのかはわからない。タイトルがちらっと見えただけだから。

 でも昨日の今日で、加えて大男のあの言葉…


 そこで僕はハッとした。


「これ、父さんが頼んでくれたの? それで、おじさんが持ってきてくれたんですか?」


「お、何だ。今頃わかったのか」


 自分の答えが正解だったことに僕は驚いた。

 まさか父さんがそんな働きかけをしてくれるなんて。そしてその早すぎるとも言える行動に。


「よくわからんが、まぁ頑張れや」


「……はい。ありがとうございます」


 僕は、父さんが持っている紙袋を受け取ろうとしたけれど、父さんはそれを渡そうとしなかった。

 その代わりに、時間はいいのかと僕に言った。


「坊主は今から出かけるのか」


「はい。ちょっとそこまで」


「気を付けろよ。最近、不審者が出てるらしいからな」


「? 大丈夫ですよ」


「なんなら俺が鍛えてやろうか?」


 笑いながら言ったその言葉は、本気なのか否か、その見た目からは判断できなかった。



 ***



 僕はいつものように森までの道を歩いていた。

 いつもと違う点といえば、手に花を握っているところだろうか。

 いくら野草とはいえ、僕が花を持っているという絵は、何だか意味もなく笑えた。


 僕が家を出ようとしたところで、大男が僕に声をかけた。どうやら、僕の手に持っているそれに気づいたらしい。

 その花を指差しながら、水処理をしてやる、と言った。

 それはとても簡単なものだった。大男はティッシュとアルミホイルを持ってくるように言うと、ティッシュを水に濡らして先に巻き付け、その上からアルミホイルをかぶせた。


 大男は作業の最後に、これで少しは保ちがいいだろう、と言った。

 先ほど抜いたばかりの花は、何だかちょっと元気を取り戻したように見えた。


 人は見た目によらないな、と僕は本日二度目の失礼な発言を心の中で呟く。




 森の中を進み、魔女が住む家がある広場の入り口に差し掛かったとき、僕はそこに人影を見た。

 魔女だろうか、と思ったけれど、魔女にしては背が高い。それに、遠くてはっきりしないけれど、魔女よりもガタイがしっかりしているようにも見える。


 僕は静かに移動しようとした。誰かもわからない人物に、自然と警戒心を感じたからだ。

 僕はで、魔女以外の人間を見たことがない。たったそれだけの理由で、僕は身を隠した方がいいような気がした。


 けれど、足を一歩踏み出した途端にを踏んだ。

 それはポキッという音を立てて、二つに折れた。


 しまった、と思った。僕は心拍数を上げ、内心焦っていた。

 足元に視線を落とし、そして恐る恐る顔を上げた。


 けれど、そこにはもう人影なんてなかった。

 見間違えたのだろうか。


 震える足でゆっくり歩みを進め、人影があったところまで来たけれど、その周辺には誰もいなかった。

 僕の勘違いだったようだ。



「何だ、また来たのか」


「わぁ!」


 突然声をかけられ、僕は驚いて後ろに転びそうになった。

 なんとか持ち直し、声の方を見ると、そこには魔女が立っていて、間抜けなものでも見るような目で僕のことを見ていた。


「もう来ないのかと思っていた」


 そう言った魔女の表情が寂しそうな、それでいてちょっと嬉しそうに見えるのは、僕の願望だろうか。


「今日はお願いがあって…」


「なんだ?」


「その…ソラのお墓を作らせてくれないかな?」


「お墓?」


「形だけでいいんだ。ソラのものはここにはもう何一つ残ってないから…せめて」


 先ほどの魔女の反応からして、このお願いが聞き入れてもらえるかどうかは微妙なところだった。

 それでも、一歩も引くことはできない。聞き入れてくれるまで、魔女を説得する覚悟は決めてきたつもりだ。


「いいぞ」


「…え? 今なんて?」


「だから、いいと言ったんだ」


「本当に? いいの?」


 魔女は呆れたように、「しつこい」と言った。


「もう今更なしだなんて言わない?」


 質問攻めの僕に、魔女は飽き飽きした表情を浮かべ、再びしつこいと言った。

 それでも僕は嬉しさの渦中にいたので、そのことは全く気にもならなかった。

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