03 半端者どうし
次の日も僕は懲りもせず、自分の好奇心を満たすためにその森へと向かっていた。
この日も父さんと鉢合わせしないように、朝早い時間に家を出た。
最近はほとんど会話をすることもなく、夏休みに入ってからは顔もろくに合わせていなかったので、おばあちゃんがいなくなった今、僕が会話する唯一の人間はあの魔女だけだった。
会話する相手がたった一人だけ、というのはずっと変わらない。
それがおばあちゃんから、魔女に変わっただけ。
そのことを悲しいと思わないことに、僕は悲しみを覚えた。
いくら早朝とはいえ、夏の気温はじわじわと僕の表面温度を上げていた。僕は額に滲んだ汗を拭う。
それも森に入ってしまえば、一気に涼しさを感じることができた。木が太陽から僕を守ってくれるように、陰を作ってくれているからだろう。僕は名前も知らない木に心の中で感謝の気持ちを呟くと同時に、申し訳なさも感じた。僕なんかよりもずっと太陽と近いところに位置しているのに、その熱を僕よりも強く感じているだろうに、守ってくれてありがとう。そう図々しくも思うのだった。
昨日より少しだけ遅く家を出たせいか、そこに到着した時にはもうすでに犬たちが広場に放されていた。
この場所はあまりに広く、あたり一面犬ばかりで、魔女の姿が見当たらない。
それでも、そこにいるはずの姿を探すと、魔女は端の方にいた。
魔女は僕に気付いていない様子で、いつものように役割をこなしている。僕はそこまで歩いて行って、声をかけた。
「おはよう」
「……? あぁ、おはよう」
僕は自分の意思でここまで来たわけだけれど、心の片隅で、鬱陶しがられたらどうしようと心配していた。それはある種、心に染み付いた感覚とも言えた。
けれど、僕の懸念は魔女の返答で無駄に終わる。僕は心なしか安堵していた。
自信がないくせに、単純な僕はそれに機嫌を良くし、昨日から気になっていたことを訊ねてみた。
「ねぇ、この犬って何ていう犬種なの?」
自分で調べれば早い話なのだけれど、僕にはそうする手段がなかった。
それに、魔女と会話するネタを僕は残しておきたかったのかもしれない。
「シェパード、というらしいよ」
「あぁ、聞いたことあるよ。あの警察犬? とかできる子だよね」
「そうらしいな。この子たちは救助犬になる予定だけどね」
「救助犬?」
その言葉は何となく聞いたことがある程度で、それがどういうものに相当するのか、僕はわからなかった。
けれど、目の前にいる魔女もその詳細は知らないようで、災害時などに捜索を目的に出動するような犬なのだと言っていた。
「あの子も?」
僕は集団から外れ、一頭だけで
その見た目は他の子と変わりはない。それなのに、どういうわけか一頭だけが、輪に入れていなかった。
僕は違和感を感じた。
何が、と言われてしまうと困るのだけれど、ただ何となく、本当に何となくそう感じたのだ。
「どうしてあの子は一人でいるの?」
「ん? あぁ、あれは失敗作だからだよ」
「失敗作?」
その言葉は、魔女の口から発したものよりも、僕の耳に届いた声の方がインパクトがあった。
僕の鼓膜を震わせた音の方が、強い何かを帯びていたに違いない。
僕は魔女の言葉を繰り返した。
繰り返したことで、余計に僕にダメージを与えた。
僕がその言葉に対して、過剰に反応したからかもしれない。魔女の声が僕の耳に届くまでに何かしらの力が働いていたのかもしれない。
とにかく、それが何であれ、その言葉は僕には衝撃的だった。
「失敗作ってなんだよ。その、救助犬ってやつになれないってこと?」
「まぁ、とどのつまりはそういうことだな」
「そいつになれなかったら、一人でいなきゃいけないの? あんな小さな子が一人でいなくちゃいけないの?」
「区別、だよ。お前たち人間もやっていることだ」
魔女はいつものように淡々と言葉を口にした。
まるでなんでもないような口ぶりだった。
正直に言うと、魔女の言葉は僕には理解できなかった。
何を言っているんだろう、と呆れているというのが本心かもしれない。
この魔女は、優しいかと思えば、時折凍りつくような冷たさを見せる。
その温度差に、僕は風邪を引きそうだった。
「僕、あの子と一緒に遊んでもいい?」
気がつけば僕はそんなことを口にしていた。
僕はまじまじと魔女を見つめていた。その間、魔女が僕の方を見ることはなかった。
「好きにしろ」
魔女はどうでもいいとでも言うように、僕にも、その犬にも見向きもしなかった。
飽きた、というよりは、最初から関心がなかったかのように、僕のもとを離れていった。
僕は少し思うところはあったけれど、それを頭の中から追い出すと、魔女が向かった場所とは反対方向へと歩き出した。
僕が近くまで寄ると、そこに一頭だけでいた子犬のシェパードは、耳を立てて、こちらを振り返った。
その子は近くで見てみても、何もおかしなところはなかった。
人懐っこくこちらを見ていて、僕がここで初めて彼らに会ったときと同じように、遊んでくれと言っているように見えた。
僕は犬のことはよくわからないし、その救助犬とやらにどうすればなれるのかということも知らない。けれど、こんな子犬の時点でダメだと決めつけられるのは、あんまりだと思った。そのせいで、一人孤立させられているこの子犬に、何だか同情した。
「君も僕と同じだね」
僕の言葉に、何のことを言われているのかわからないとでも言うように、首を傾げた。傾げたように見えた。
当然か、と僕は自嘲する。
「僕も君ぐらいの時は…って言っても君が生まれてどのくらい経っているかは知らないんだけどさ。君ぐらいに小さい時は何か違っていたのかもしれないけど、もうそんな頃のことなんて覚えてないし……思い出せば何かが変わるなんて思ってないから…」
そもそも僕は変わりたいのか。変わりたいなら、どんな風に変わりたいのか。
みんなに好かれる自分? 勉強ができる自分? 運動神経がいい自分?
父親に好かれる自分? それとも、————自分を好きになれる自分?
考えてみて、僕は具体的な答えを持たないことに気がついた。
僕は散々自分を否定するだけ否定して、考えることを放棄している。そのことに気がついて、僕はまた自嘲した。
「君を可哀想だと思うこと自体、失礼なのかもしれないね」
「独り言か?」
「わぁ! びっくりした…急に話しかけないでよ」
僕が子犬に話しかけていると、急に魔女が現れた。僕は心臓が止まるかと思った。
全く、何の音もしなかった。僕が独り言に集中していたからだろうか。
「お前は犬が好きなのか?」
「好きとか嫌いとかっていうのはないけど…」
自分で聞いておいて、さほど興味もないのか、僕の返答に対する魔女の返事は素っ気ないものだった。
「ねぇ、この子、僕に世話させてくれない?」
僕は、すぐに自分の口を手で覆った。自分が今、口走ったことに、心底驚いた。
まるで自分じゃない誰かが、僕の体を使って、口を動かしたかのように、その言葉は僕の意思とは違うところで出てしまったのだ。
「好きにしろ」
またしても素っ気ない様子で、魔女はそう言い放った。
けれど、今回は魔女の言葉はそれだけではなかった。
「だが、世話をするならここでしろ。外には出すな」
魔女は大変横柄な態度で、僕にそう言った。
相手によっては、ものすごく機嫌を損ねるであろう魔女の態度を、僕は全く気にしていなかった。
むしろ、感動さえ覚えた。
魔女は「世話をするならここでしろ」と言った。その言葉は、何だか僕にここへ来てもいいと言っているように聞こえた。ここに来いと言っているように聞こえたのだ。
めでたいやつだと笑われたっていい。
そんなことを言われなくても、僕は魔女の意思とは関係なく、ここに通っていた。けれど、適当にあしらうでもなく、初めて魔女からここに来ることを承諾してもらえたような気がしたのだ。
「何だ、ニヤニヤして。そんなに世話できることが嬉しいのか?」
「そうじゃないけど……いや、もちろんそれも嬉しいけどさ」
「これまでに動物を飼ったことがないのか?」
「ないよ」
僕がそう言うと、魔女は意外そうな顔をした。
何がそんなに予想外だったのだろうか。ペットを飼ったことがない人なんて、さほど珍しくないだろうに。と僕は思ったけれど、僕の同級生がこれまでにどんなペットを飼っていたかなんて知らない。だから、一般的なことなんてわからない。
みんな一度は何かしらの動物を飼ったことがあるものなのだろうか。
「…そんなにおかしいことかな?」
「いや、おかしいということはないが。まぁ、いいさ」
「? あ! そうだ。この子、名前は? 名前つけてもいい?」
「好きにしろ」
魔女はそれだけ言い残すと、どこかへ行ってしまった。
それを見届けることなく、僕は目の前の子犬に集中していた。名前は何がいいだろうか、とそのことで頭がいっぱいだった。
名前をつけるなんて初めての経験だ。
僕は興奮した状態で、目の前で、こちらを見つめている子犬をじっくりと観察した。
何がいいだろうか。どんな名前がいいのだろう。
名前はずっとついて回るものだから、いい名前を付けたい。
いい名前ってなんだ? 僕は自問自答しながら、頭を
僕はもう一度、子犬に視線を戻した。
その時、ふと重なった視線に、僕は吸い込まれるような感覚を覚えた。
どうして今まで気づかなかったんだろう。
彼———性別についてはわからないけれど————の目は、透き通るような青色だった。
なんて綺麗なんだろう、と僕はその目に釘付けになった。
「そうだ! 青色だから……ソラ! ソラはどうだろう?」
僕は彼に意見を求めるように、どう? ともう一度声をかけた。
もちろん、彼は言葉で返事はしてくれないわけだけれど、尻尾を振って、喜んでくれているようだった。
それは僕の願望かもしれないけれど、そう見えたのだから、もう決定だ。
「うん、君は今日からソラだ! よろしくな、ソラ」
ソラは僕の呼びかけに応えるように、一度だけ吠えた。少し高い声で、吠えたというほど大層なものではなかったけれど、確かに声を発した。
僕は何だか胸がいっぱいになって、これまで一度も触れたことのないその生き物に、自然と手が伸びていた。
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