02 現実逃避の矛先

 次の日、僕は夏休みに入って初めて早起きをした。

 いつも朝早くに取り掛かる父さんよりも早く起きたので、もちろんまだ陽は昇っていないし、顔すら出していない。外はまだ薄暗いままだ。


 僕は静かに下の階へと下り、軽くお腹に食べ物を入れると、父さんが起きてくる前に家を出た。


 そこへ向かう足取りは軽かった。心なしか、その速度はいつもよりも速いような気がした。

 早く確かめたかった。ちゃんと自分の目で確かめたかったのだ。


 目が覚めた時から、いや眠りにつこうと、ベッドに潜り込んだ時から、昨日のことが夢のような気がしてならなかった。

 自分からあんな約束をしておいてなんだが、あの言葉がすんなり出てきたのも、夢の中の出来事だと思っていたからなのかもしれない。


 目的地は、家からおよそ2kmくらいだろうか。歩いて約30分。

 歩くのはそれほど嫌いじゃなかった。一人、何も考えずにぼんやりと歩く時間が好きだった。

 だから、この距離も僕にとっては大した距離ではないのだけれど、早く着いてほしいという想いが強すぎるからなのか、とても遠くに感じた。この時、僕は初めて自転車が欲しいと思った。


 そわそわして、心が落ち着かなかった僕は、いよいよ駆け出していた。


 僕は日頃から運動をするタイプではない。それに加えて、最近まで引きこもっていた人間だ。

 そんな僕が急に走り出したものだから、結果は目に見えていた。

 距離的に走りきれないことはない。けれど、勢いよく駆け出したスタート時と比較して、そこにたどり着くころにはペースは落ち、息は上がっていた。

 それでも森に入って、あの広い空間に、昨日見たあの大きな家が目に飛び込んできた時、僕は心底安心していた。


 夢じゃなかった!


 そう思うと、またしばらく肩で息をしなければならなかった。


 さて、勇んで来てみたはいいけれど、いざそれを目の前にすると、僕はどうしていいかわからなくなった。

 あんなに急いできたというのに、僕の足は目的地を目前として、ピタリと止まってしまった。

 友達の家に行ったこともないしーそもそも、友達なんていないしー、誰かの家に一人で訪ねたこともない僕は、こういう時どうするのが正解なのか、答えを知らない。


 そんなこんなで、僕が広場の辺りをうろうろしていると、微かにの鳴き声が聞こえた。

 一瞬、空耳かとも思ったのだけれど、それはここに来た時に初めて聞いた声と同じような気がした。


「何だ、来てたのか」


「え、あ……お、おはよう」


 どこから現れたのか、彼女はたくさんの犬を連れて僕の前に立っていた。

 僕は突然のことに動揺を隠せず、思わず言葉に詰まった。

 そんなことはさほど気にならない様子で、彼女は連れていた犬たちをその広い場所に解き放った。


「昨日も思ったけど、たくさんいるんだね。みんな同じ犬種みたいだけど、名前とか覚えられるの?」


 人の顔と名前を覚えるのが苦手な僕は、ほとんど同じ、違いのない彼らの顔と名前を覚えていられるのか不思議に思った。

 それに加えて僕は、犬どころか、動物を飼ったことがなかった。だから、数の多さも相まって、その大変さはより未知さを帯びていた。なんて、聞く人が聞けば、笑われてしまうのだろうか。


で名前は必要ないからね。覚える必要もないのさ」


 さも当然のことのように彼女はそう言い放った。

 それは、僕に教える必要がないと冷たく突き放すでもなく、ただ事実を述べているだけのような感じだった。


 どうやら彼女は名前をつけたり、覚えたりすることが苦手らしい。自分の名前を忘れてしまっているように——————

 そう、結局彼女は名前を教えてくれなかったから、僕は心の中でこっそり “魔女” と呼ぶことにした。


 僕と魔女の苦手は一緒だった。

 だから、魔女が犬の名前をつけていないことは、特に気にならなかった。


「どうして君はこんなところで、こんなにたくさんの犬を飼ってるの?」


「私に与えられた場所がだから。この子たちを育てているのは、それが私のだからだ」


 僕の質問に淡々と答える言葉に、僕は興味津々だった。おそらく目も爛々としていたことだろう。

“役目” というのは、それが魔女の “仕事” ということだろうか。

 魔女の言葉からは、それがではなく、本当に自分のだと言っているような気がして、何だか無性に羨ましさを感じた。


「ねぇ、それって楽しい?」


「楽しいか、だって?」


 魔女はそこで少しだけ、本当にほんの少しだけ、表情を崩した。

 僕はおかしなことを聞いただろうか。

 自分でもどうしてそんなことを聞いたのかはわからないのだけれど、僕は魔女がどんな答えをくれるのか、内心ワクワクしていた。


「それは……」


 僕は、まばたきを忘れてしまうほどに魔女の言葉を待っていた。

 魔女の口が動くのを、音が僕の耳に届く前に聞き取ろうと、僕の目は釘付けだった。


 けれど魔女は、何かを言いかけたまま、僕じゃない別の方向に視線を移した。

 僕は、魔女の注意が僕から削がれたことに、内心ため息をいた。それでも、その視線の先も気になったので、僕は魔女の視線を追った。

 その視線が行き着いた先は、たくさんいる犬たちの中の、ある集団のようだった。


 その時、僕は一つのため息を聞いた。気がした。

 それが僕の空耳でなければ、それはもちろん目の前にいる魔女がいたものになる。

 視線を魔女に戻すと、何やら訝しげな表情を浮かべていて、僕はそこで初めて魔女の感情の一部に触れたような気がした。


「どうしたの?」


「ダメだったか…」


 魔女は僕の声が聞こえなかったのか、その視線の元へと歩き出した。

 その歩みはゆったりとしていて、緊急性を感じない。ダメだ、と言うわりには急ぐ気配もない。


 何がダメだというのだろう。僕の目には、二頭の犬がじゃれ合っているようにしか見えない。

 それのどこが “ダメ” だと言うのだろうか。


 魔女はその二頭の犬の近くまで行くと、首の部分にをつけていた。それは遠目にもわかるほど、強い色のものだった。

 彼らは首輪なんてつけていなかったから、それがある種、首輪のように見えた。



————————————————————

————————————



「お前はいつまでここにいるんだ? 帰らないのか?」


 魔女にそう言われて辺りを見渡すと、すっかり日が暮れていた。

 特に何をするでもなく、魔女が相手をしてくれるわけでもないのに、僕はここで一日を過ごしていたようだ。


 それでも、何だか心が落ち着いた。嫌なことを考えなくていい時間を過ごすのは、久しぶりだった。

 考えなくていい、というよりは、何も考えていなかったというのが本当のところなのだけれど。


「…家にいたくないんだよね」


「何だ、反抗期か?」


「そんなんじゃ、ないよ……」


「両親が心配してるんじゃないのか?」


「……母さんはいない。僕が物心つく前に病気で死んじゃったから…

 それに、父さんは僕のことなんて心配しないよ」


 唯一、心配してくれる存在だったおばあちゃんも、もういない。

 僕は言葉にして、その事実に改めて触れると、何だか急に泣き出したい気持ちになった。

 葬式が終わってから、誰かとこのことについて話すのは初めてだからだろうか。おばあちゃんが亡くなって、泣きたい気持ちになったのも初めてだった。だから正直、僕は戸惑っていた。それを認めたくなかった。


「よくわからんが、お前の父親がそう言ったのか?」


 僕の目に涙が浮かびそうになっているのもお構いなしに、魔女は僕に言葉を投げかけ続ける。


「言わないよ………言わなくても、わかる」


「ふっ。それはすごいな。お前は言葉にしなくても、人が何を考えているのかわかるのか。それはぜひ、その方法を教授願いたいものだ」


 魔女はバカにするように鼻で笑った。

 僕はおかしなことを言ったつもりはない。バカにされるようなことを言ったつもりもない。

 それでも何だか無性に恥ずかしくなって、僕は口をつぐんだ。


「本気にするな。冗談だ」


「……」


「何だ? 泣いてるのか?」


「泣いてない」


 いくら年上だからといって、この見た目の彼女に子ども扱いされるのは、腑に落ちない。

 それに、やっぱり僕は魔女が僕より年上だなんて信じられなかった。


 そう考えると、バカにされていることを、気にしていること自体がバカらしく思えてきて、僕はその感情を頭の隅から追いやった。


「家に帰りたくないのは、その父親が原因か?」


「……」


「それだけじゃない、のか」


 珍しくたくさん口を開く魔女は、何でもお見通しかのように呟いた。

 先ほどまで自分が散々バカにしていたことを、今度は自分が言ってのけるのか、と僕は内心悪態をついた。

 でも、悔しいけれど、魔女の言うことに間違いはなかった。


「どうせ、君もバカにするんだろ……」


「何をだ?」


 僕はまた口籠った。

 話したくなかった。それが単なる興味本位な質問だとするなら、僕は話したくなかった。

 けれど、魔女の顔を見て、そんな考えに自嘲した。魔女が僕に関心を示すわけなかった。それは、の魔女の表情だけじゃなく、これまでの行動から読み取ることができた。




 僕は昔から内気で、人と関わるのが苦手だった。特に同年代の子と話すのは大の苦手で、最近ではめっきりなくなっていた。


 何を恐れているのかはわからない。怖いと思っているのかどうかさえ判然としない。

 ただ彼らの、あの何とも言えない雰囲気が、醸し出される空気が、僕を圧迫してくるのだ。何を言われているわけでもないのに、彼らは無言で僕を制圧する。

 それが僕の勘違いであることも、被害妄想であることも自覚していた。

 けれど、その感情を塗り替えることは容易ではなかった。


 そんな現実世界から逃げ出したくて、僕はおばあちゃんの優しさに甘えた。そんな弱さも、きっと彼らの反感を買う理由になったのだろう。

 が何かに繋がるわけではなかったけれど、僕の自尊感情はどんどんなくなっていった。


「どうしてだ?」


 魔女は心底不思議そうな顔で僕を見つめた。


「おばあちゃんが好きなことも、気弱なことも、いけないことなのか? 恥ずかしいことなのか?」


「……」


「お前が何を気にしているのかは知らんが、悪いことをしているわけではないのに、どうして背中を丸めて生きているんだ? 堂々としていればいいではないか。まぁ、私には関係のない話だがな」


 最後の言葉が魔女の本音だとでも言うように、魔女は僕から視線を逸らすと、もうすでに違うことに取り掛かっていた。


 僕を励ますような言葉をかけた魔女は、先ほどまで僕をバカにしていた人とはまるで別人のようだった。

 心なしか声色も優しい雰囲気を醸していたような気がするのは、僕の願望が創り出した幻聴だろうか。


 きっと、それほど意味もなく紡がれた言葉なのだろう。それは、魔女のあの素っ気なさを見れば僕にだってわかる。

 それでも、そんなことを言ってもらえたのは初めてで、そもそも僕がこんなことを話そうと思ったのが初めてだったから、今まで感じたことのない感情に僕は戸惑った。


 もうすでに僕には感心がないかのように、こちらを見向きもしない君だけれど、それでもその言葉は、僕の心に確かに届いていた。涙が出そうになるほどに、僕の脳内に響いていた。


「君は不思議な人だ」


 昨日の今日でこんなことを思うのはおかしな話かもしれないけれど、この魔女は、どこまでも謎に満ちていた。


「僕は、今やっと君が年上なのかもって思えたよ」


「だから、言っているだろう。お前よりは、年上なんだよ」


 まだそんなことを言っているのか、と僕はおかしくて笑ってしまった。

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