Chapter 1 森に棲む魔女

01 迷い子の行き先

 高校二年の夏、祖母が亡くなった。夏休みに入ってすぐのことだった。

 元々病気を患っていて、そんなに長く生きられないだろうとは言われていた。それでも、『死』というものがあまり身近になかった僕は、そんなにあっさり会えなくなるものだなんて思っていなかった。だって、昨日までここにいて、僕の話を笑って聞いてくれていたのに。


 お通夜も、お葬式も、その初めての経験は、どれも現実味を感じることはできなかった。

 一人っ子だった父は、喪主としての役割を果たしていて、僕のことはそっちのけだった。

 そのことも別段、気にはならなかった。それは、喪主でなくとも、結果は変わらないからだ。

 遠い親戚の人たちがおばあちゃん子だった僕を心配してくれたけれど、僕は涙の一粒も出なかった。そのことも大人たちにとっては、心配要素のようだったけれど、無理をしているとかではなく、本当に泣きたい気持ちにはならなかったのだ。

 だって、全然実感が沸かないのだから——————


 僕の頭は、その事実を全くと言っていいほど理解しようとしなかった。

 時間が経てば、そのうち悲しみが訪れるのだと思っていた。涙は自然と出てくるものだと思っていた。


 僕にとっての祖母は、唯一の理解者だった。僕にとっての癒しで、僕のことを認めてくれている唯一無二の存在だった。

 その存在がこの世からいなくなった。祖母がいない日々は、僕がこの世で独りになったことを、無情なほど強引に押し付けてきた。


 夏休みで、学校にも行かなくていいとなると、一歩も家から出ない日々が続いた。そうすることが可能だった。

 ただ、それを何日も、何日も続けていると、次第に気持ちが鬱々とし始めてきた。

 だからどうということもないのだけれど、僕は無意識のうちに玄関のドアを開けていた。


 目的なんてない。ただ、ただ足が順序よく動いているだけだった。

 僕は失意の状態で歩いていたもんだから、周りの景色が全く見えていなかった。自分がどこにいるのかもわかっていなかった。


 次に意識を取り戻した時には、視界に入る風景が一変していた。

 地面はコンクリートじゃないし、建物の一つも見当たらない。ただ辺り一面木々で覆われていた。


 ————あの森には魔女が棲みついている————


 その時ふと、クラスメイトが言っていた言葉を思い出した。

 僕は友達と呼べる人間を持たなかったから、その言葉は僕に対して言われたものではなく、教室内で話していたものが聞こえてきた程度のものだ。

 だから、どうしてそんな話をしていたのかも、それが本当なのかどうかも、僕にはわからなかった。


 僕はこんなだけど、魔女の存在を信じているようなタイプではない。

 そもそも、こんな森の中に誰かが住んでいるとは思えない。そんな人がいるとしたら、それはきっと “仙人” か何かだ。

 そう思えるほどに、この森の中には人の気配を感じなかった。まして、家を建てられるような場所でもない。


 僕は怖さを感じながらも、立ち止まるでもなく、国道に戻るでもなく、まるで何かに導かれるようにそのまま先へと進んだ。しばらくは、何のかわり映えもない森の道が続いていた。


 その光景にも飽きてきた頃、急に道が途絶えた。正確に言うと、広い場所へ出て、道が開けたことで、今まで歩いてきたような幅の道がなくなったというだけだ。


 開けた場所にものに、僕は大変驚いた。

 何に驚いたのかというと、さっき散々バカにしていたことが現実にあったということだ。

 こんな森の中に、誰も住みつかないであろうこんな場所に、家があったのだ。

 遠目に見ても、大きな家だった。廃墟にはとても見えず、人が住んでいると言っても何ら不思議はないほどの、十分な面持ちだった。


 僕は好奇心に駆られるように、その家に近づいて行った。

 誰かがいる気配を感じると言えばそう思えるし、そんなものは感じないと言われればそうか、とも思えた。つまり、判然としないのだった。


 その時、急にゴトゴトと音が聞こえてきた。音と一緒に、振動も感じるような気がした。

 その音の大きさと、物々しさに、一気に恐怖を駆り立てられる。


 その音はどんどんこちらに近づいてきていた。

 僕はいよいよ怖くなって、その場から逃げ出したくなった。けれど、今ここに道は一つしかない。そして今そこに向かっていくのは、迫りくる恐怖に立ち向かうのと一緒だった。

 僕は震える足を叩くと、辺りを見回した。どこかに身を潜められる場所がないか探していた。

 家の裏手に、隠れるのにちょうどいい茂みを見つけ、僕はそこに向かって走った。


 僕がその茂みにたどり着くと同時に、大きな音はより一層その音を広げ、そしてそれはすぐに止まった。

 車のドアが開くような音が聞こえると、その直後、先ほどの大きな音とは違う、別の疾走感を漂わせる音が耳に届いた。

 何も見えないため、その音だけが情報源なのに、それが逆に恐怖心を煽った。


 もしや僕はとんでもないところに来てしまったのではないか、と数分前の自分を呪った。

 森に入ったところで引き返せばよかったのだ。いや、むしろもっと遡って、家を出なければよかったのだ。

 そうすれば、こんなところに来ることもなかったのに。こんな怖い思いすることもなかったのに。


 ———と、そんなことを考えながら、僕が手に汗をかいていることに気づいた時、ゴトゴトという音がまた響いた。けれど先ほどとは反対に、その音は遠く離れていっているようだった。


 音が完全に聞こえなくなると、僕は慎重に辺りを見渡しながら、茂みから出た。

 一刻も早く、こんな恐ろしい場所から立ち去らなければ………———


 わんっ———


「?」


 何かが聞こえたような気がした。一瞬、空耳かと思った。

 けれどその疑いは、の登場によってすぐに否定された。


「わぁ!」


 気づいた時には、僕は数えきれないほどの犬に囲まれていた。

 やばい、と内心焦っていた。襲いかかってきたらどうしよう、と身構えていたのだけれど、それ以上彼らに動きはなかった。一定の距離を保ちながら、遊んでくれと言わんばかりに、尻尾を振って、僕の周りをうろうろしている。


 同じ種類の犬で、子どもから成犬までいるのに、どの子も決して僕に飛びかかってはこなかった。それだけでしつけがゆき届いているのだと、僕は感心すると同時に、安心していた。


「君たちはここの子なの? 飼われてる子だよね?」


 そんな風に聞いてはみるけれど、答えが返ってくるはずもない。

 それでも彼らの存在は、先ほどまで張り詰めていた気持ちを和ませるには十分だった。


「ごめんね。一緒に遊びたいのは山々なんだけど、僕もう帰らないと…」


「何をしている?」


 その声に、僕は心臓が飛び出しそうになった。

 しまった、と思う本音が心をついた。にかまけて、注意を怠ってしまった自分を悔いた。


 僕はその声を無視して走り出したい気持ちを抑え、恐る恐る声の方へと振り返る。


 ————あの森には魔女が棲みついている————


 その時また、クラスメイトの言葉が脳裏にぎった。


 振り返るとそこには、僕よりも遥かに小柄な女の子が立っていた。

 彼女を目にした時、僕は心底驚いていた。


 理由は二つある。一つ目は、あの声に反して、だいぶ幼く見える女の子がそこに立っていたこと。何だかちょっとハスキーな声だったから僕はてっきり、年上の怖そうな女の人だと思い込んでいた。だからこそ振り返るのを躊躇していたというのに、僕の予想なんて大したことないんだな、と再認識したのだった。

 もう一つは、噂にたがわずとでも言うように、彼女の格好は魔女のそれに似ていた。もちろん、本物の魔女なんて見たことないし、想像でしかないのだけれど、黒いワンピースに身を包んだ彼女は、まさしく魔女のようだった。


「あの…えーと、」


「何だ、迷子か?」


「迷子、と言えば迷子かな…?」


 僕が答えに窮している間に、彼女は犬たちに呼びかけ、彼らは大人しくそれに従った。僕の周りはあっという間に寂しくなり、僕は何だか少しだけ泣きたい気持ちになった。


「君はここで暮らしてるの? ご両親は?」


「私一人だ。あと、この子たちもいる」


 彼女はそう言うと、一番近くにいた子の頭を撫でた。


「君みたいな小さい子が、一人で暮らしてるの?」


 しかもこんなところで、という言葉は喉元まで出かかって止まった。


 僕がこぼれんばかりに目を見開くと、彼女はおかしそうに笑った。


「私は子どもではないぞ。今は確か……二十歳だ」


「え……? 年上なの?!」


「お前よりははるかにね」


 いよいよ僕の目が飛び出んとしているところに、彼女はさも当たり前かのようにそう言った。

 僕はこの前、十七歳になったばかりだから、はるかって言ったって、たった三つしか変わらないじゃないか。


 それにしても、一人でこんなところにいて、寂しくないのだろうか。

 いくら犬がたくさんいるからって、話し相手とかほしくないのだろうか。


「ねぇ」


 そんなことを考えていた僕は、自然と言葉が口から出ていた。


「明日も来ていい?」


 僕は自分の発した言葉に、自分自身が一番驚いていた。

 僕は相当参っているのかもしれない。話し相手がほしいと、彼女に対して思うのは、自分自身がそうだからなのかもしれない。


 彼女は僕のその言葉に、特段何かを気にする様子もなく、視線すらこちらに向けることなく、


「それを止める権利も、強要する権利も持ち合わせていない」


 そう言った。


 それはつまりどういうことだ? 来てもいいってことかな?


 僕は自分の都合のいいように解釈すると、彼女に向き合った。


「ねぇ君、名前は?」


「名前は…————忘れてしまった」


 そう言った彼女の口調は、先ほどと変わりはなかった。

 僕に名前を知られたくないから、そう言ったようには聞こえなかった。


 自分の名前を忘れるなんてこと、あるのかな?

 こんなところに一人でいて、誰からも名前を呼ばれなかったら、そうなってしまうのだろうか。

 そんなの寂しすぎる。そう思ったけれど、理由なんて聞けないし、彼女もさほど名前を忘れてしまったことについて、気にしていないようだったので、僕もそれに習うことにした。


「じゃあ、君って呼ぶよ」


「好きにしろ」


 その上から目線で、横柄な物言いは、何だか、本当にちょっと魔女みたいだった。

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