僕の中の君の世界

小鳥遊 蒼

Chapter 0 報告

00 プロローグ

 あの夏起きたことを、僕はずっと忘れないだろう。


 今になって思えば、やっぱり夢だったような気もする。

 そう思えるほどに、君も、あの家も、あの環境全てが不確かで、おぼろげで、とても儚いものだった。

 本当に、ただ僕が現実逃避に見せた夢だったんじゃないかと疑ったこともある。

 けれど、君と過ごしたあの夏は、僕の中に確かにある。僕の心に残っている。

 だから、誰がなんと言おうと、君は存在していたし、それは確かに証明されたんだ。


 もう時効だし、今だから言うけれど、君は僕の初恋だったんだ————————


 ありがとう。

 名前も知らない君だったけれど、君に出会えて本当によかった。

 僕を変えてくれてありがとう。大嫌いだった自分を好きだと思えたのは君のおかげなんだ。

 だからもう、君に会いたいなんて言わない。君を探すこともしない。

 君はきっと、探すなって言うだろうから。—————お前の好きにしろ、かな?


 君にはもう会えない。

 でも君は確かに僕のそばにいるから。

 さよなら。僕の、たった一人の魔女……——————————




***


「もう出るのか?」


「うん。向こうに寄ってから行こうと思って」


「ん? なんだ、母さんとばあちゃんにはこの前報告したんじゃなかったのか?」


 父さんは新聞から目を離すと、そこから顔を少しだけ覗かせた。

 その目には年相応のシワが刻まれていて、時間の経過を知らせる。

 15年前はこの時間帯に、こんなにゆっくりしていることなんてなかったのに。そのことが彼にとっていいことなのかどうかは、彼の楽しそうな表情を見れば、一目瞭然だった。


「もう一人、報告したい人がいるからね」


「あぁ、そうか………そうだな」


 父さんはそう呟くと、懐かしむように、遠くを見つめるように、視線を宙に投げた。

 その表情はとても柔らかく、僕まで何だか穏やかな気持ちになる。

 ——————と、そんな悠長に過ごしている時間はない。何のために早く家を出ようとしていたのか、忘れるところだった。


「じゃあ、いってきます」


「いってらっしゃい。よろしく伝えてくれ」


「はーい」



 僕は玄関を出ると、すぐそこに置いてある自転車に跨がり、ペダルに足をかけた。

 通勤に自転車を使っているから、というのが主な理由ではあるけれど、この道のりを徒歩で向かうのは少々キツさを感じ始めていた。あの頃は、何の苦もなく、毎日、毎日通っていたのかと思うと、父のシワをバカにできなくなる。


 目的地までは、さほど複雑な道順はなく、ほとんど道なりにまっすぐ進めばいいだけだった。

そのことが、初めて僕がここに所以ゆえんでもあるので、必ずしもメリットであるとは言えないのだけれど。ともかく余計なことは考えなくてもたどり着くことができた。

 ただ、国道から逸れ、森の入り口に入ってしまうと、途端に道の環境は悪くなる。舗装されていないその道は、徒歩で通ることも大変だったけれど、自転車に乗っているとさらにその影響をもろに受ける。

 いっそ、降りてしまえばいいものの、何の意地なのか、僕はガタガタと体を揺らす振動に耐えながらペダルをこいだ。


 その目的地に着いた時、やはりそこには。ただただ、だだっ広い空間が広がっているだけだった。

 僕はその広い場所のど真ん中に自転車を置くと、があったところまで歩みを進めた。

 ちょうど、玄関があったであろう場所の前で僕はしゃがみ込むと、両手を合わせた。


「遅くなってごめんね。今日は報告したいことがあって来たよ。

 あの時、約束したこと覚えてるかな? 約束って言っても、僕が勝手に騒いでただけなんだけどさ。


 実はね、今度ドイツ行きが決まったんだよ。君はもちろん行ったことないよね?

 僕もドイツは初めてだから、今から楽しみだよ。

 色んなところに行こうね。色んなものを見よう。

 だから、しばらくはここには来られないから、ソラには父さんに会いに来てもらうようにお願いしようと思ってるよ。

 ソラ、ごめんな。僕が帰ってくるの待っててくれるかな。って、ソラは人懐っこいから、実はあんまり心配してないんだ。すぐに父さんと仲良くなって、僕が寂しくなるんじゃないかって、そっちの方が気がかりだよ。


 今日はとりあえず報告だけ。また詳しく決まったら、伝えに来るよ。

 それじゃあ、行ってきます」


 僕は途中、笑い出しそうになりながら、伝えたい言葉を連ねた。

 そして僕は目を閉じると、心の中で君のことを思い浮かべた。

 長い月日が経っても、今でも鮮明に思い出せる。あの特徴的な黒いワンピースに身を包んだ君の元気な姿を————

 僕より年上にはとても見えないのに、けれど、ずっとそう言い張っていた君の姿を。


 伝えたいことを全て伝え終えると、僕は立ち上がった。

 少し移動して、目印の石の前に立つと、再び手を合わせて同じように目を閉じた。


 全ての報告を完了すると、自転車を置いた場所まで歩く。僕は、再び自転車に跨って来た道を戻ると、森を出た。

 ちょうど森の出口に差し掛かった時に、風が木々を揺らし、それが何だか君が返事をしてくれたように思えた。

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