11 白湯と洗剤とDepartures
「バランじい、今日は早いね」
「……」
事件から二日経ち、いつもはジャックが朝ご飯を食べ終わる頃にのっそり起きてくるバランじいが、ジャックがキッチンに着いた頃には真面目な顔で窓の外を見ているのでした。
ジャックは白湯を、マグカップに入れました。
「わしにもくれるか」
「うん」
ジャックはバランじいのカップに白湯を注ぎます。白い湯気が立ち昇りました。
「こんなのまずいと思っていたけどな」
「白湯はおいしいよ」
「そうじゃな、今はうまく感じるよ」
ジャックは熱いフライパンに卵を落とします。ジュワっとした音と共に、卵のふんわりとした甘い香りが、湯気と一緒に広がっていきます。慣れた手つきで器用に菜箸をくるくると回していくと、フライパンの中でカチャカチャと軽快な音色が響き、黄色と白が綺麗に混ざって、とろとろフワフワ、美味しそうです。
「すまんな、何もかも」
「ん」
ジャックはフライパンの火を止めて、お皿に栄養満点スクランブルエッグを盛り付けました。
「できたよ」
ジャックはテーブルの真ん中にスクランブルエッグのお皿を乗せて、その横ににんじんサラダのお皿を乗せました。それから空のお皿とフォークを二組、最後に自分のマグカップをことんと置きます。
「いただきます」
ジャックは白湯を一口飲み、それから、にんじんサラダを一口。にんじんのコクとほのかな甘みが口に広がります。ふと見ると、バランじいは、カップを持ったまま、動きません。
「……どうしたの」
「……」
ジャックは卵を口に入れました。卵も甘くて、あったかくて、美味しいです。
「あ、そうだ、新聞着てたよ」
「そうか」
バランじいはやっと椅子に座りました。
「どうしたの」
ジャックは、にんじんをパクパク食べます。
「わしは、何もできん」
「へ?」
「天使の涙が失われつつあって、人々は灯りを消した。色は消え、わしは……」
ジャックはいつものように、バランの分の卵とサラダを半分残して、自分の分をぺろりと平らげました。
それから、ごくごくと白湯を飲み干します。
時々、手を舐めたい衝動に駆られますが、それはずいぶん前から止めるようにしていて、代わりにおしぼりで丁寧に手を拭きます。
おしぼりはきれいなものをマーサさんが何枚もくれたので、テーブルにいつも用意してあります。
「うん」
ジャックは新しい白湯をマグカップに注いで、座って一口飲みました。
「わしは、何もできん。お前は、明後日、旅立つ。国のために。しかしわしは……」
ジャックは、新聞に目を移しました。新聞は、いつもより薄いけれど、国の状況がしっかり書いてあります。たくさんの人が、たくさんのことを頑張っています。新聞もきっと、少ない灯りと少ない人員で、頑張って作ったのでしょう。
ジャックは胸が震えるような気持ちがしました。
「ねぇバランじい」
ジャックは思いました。
「みんな、なんで頑張っているのかな」
「どういうことじゃ」
「僕さ、この国に事件が起こって、みんなが、スピカが、頑張っていて……でもいろんな人に聞かれたんだ。君は見捨てることもできるのにどうしてって」
「それは……」
バランじいは、その答えがわからないこともまるで自分をせいだと言わんばかりに押し黙りました。
ジャックは続けます。
「それはさ、この国が好きだからだって思ったんだけど、でもさ、なんで好きとかって、うまく説明できなくってさ」
「……ふむ」
少し興味が出てきたのかもしれません。バランじいは弱い光の瞳でジャックを見つめます。
「ほかの人も同じかもしれないし、違うかもしれない、けど、僕は、風景が好きなんだ。この国の。みんなの表情とか、景色とか、想いとか、ぞうとか、いろんな色の光とか。だからそれを守りたい、失いたくない。取り戻したいって思う」
「ガラスもか。……それを作ったのは、わしじゃな」
「スピカはバランじいの星マークが好きだって言ってたよ。僕は……」
「お前さんもジェイクもわしの作品にずいぶんケチをつけるな」
バランじいはフォークを掴みました。
「うん、このニンジン、いけるな。野菜も食べないとマーサに叱られる。あいつはうるさいからな」
「そんなこと言ったら余計怒られちゃうよ」
「いいんじゃよ。……いいんじゃ」
バランじいはいつも以上に勢いよく、にんじんサラダとスクランブルエッグを平らげ、勢いよく白湯を飲み干しました。
「マーサさん、大丈夫かな」
ジャックは新聞をめくりながら思いました。谷の崩落と度重なる避難、復興作業で、怪我人がたくさんでている模様です。
「大丈夫じゃろ、あいつはやるときはやる女だ」
「うん」
事件から三日後、スピカは日課の朝の郵便物配りのために、ジニアの研究室にいました。
「おはようジニア、邪魔しちゃった?」
「スピカ」
ジニアは真面目な表情で、デスクに置かれた書類に何か記入しては、せわしなく研究所の機械を動かしています。
「邪魔なんか。新聞よね、ありがとう」
「ここに置くわね。おやつも。じゃあ行くわ」
「待って、朝ごはん、つきあってくれない?」
「いいわよ」
ジニアが忙しくしている時、二人はたびたび研究室で朝ご飯をとりました。
スピカもジニアも、お料理があんまり得意ではないので、いつも大騒ぎです。
でも、二人で準備して食べる朝ご飯は美味しいのでした。
「ねぇスピカ、今日はすごいのよ。パン切り包丁を新しくしちゃった。お皿も。きゃっ、曲がっちゃったわ……」
「大丈夫よジニア。あっトマトの汁が飛び出しちゃった。あっでもちょうどお皿の上でハートみたいな形になってるわ。今日はいいことあるわね」
用意するだけで大騒ぎです。
「あぁ、おいしかった」
「ほんと、おいしかった」
おやつのプチタルトを食べきり、二人は持っていたミニフォークを置きました。
「ジニア、体は大丈夫?」
「もちろんよ。スピカはどう?」
「私は全然平気よ。昨日も今日も、いつもの時間に起きて、郵便を配って、それから、隣の国のことを調べて。ジャックに、荷造りを習ったわ」
「そっか、スピカはまだ、外に出たことあんまりなかったわね」
「えぇ。こんな時にだめかもしれないけど、ちょっと楽しみだわ」
「うふふ。いいわね」
「でしょ。ジニアは、どう?」
「私も、いつもと同じよ。研究に没頭して夜を明かして、天使の涙の残量の算出記録を王様に提出したわ。それから、星屑草の培養の準備をして、夜を明かして、これからスピカに怒られる予定よ」
スピカは顔を上げました。
「また食べてないの?また寝てないの?ってね」
「もうっ」
二人は笑いました。
「培養石のかけらがあれば、石の成分を解析して、星屑草から光を採れると思う」
「わかってる、ジニアだもの、絶対に成功するし、私も絶対に持って帰ってくるから大丈夫よ。お皿洗いましょ」
「やだ、包丁は買ってきたのに、洗うものが何もないわ」
「ジニアったら。うーん、じゃあひとまず水につけて置きましょ。あとで洗剤とスポンジをもってくるわ」
「ごめんね。私ったら、石のことしか分からないのよ」
「知ってるわ」
事件から四日目の朝です。
「ジャックちゃん、おはよう」
ジャックはふかふかの布団にくるまれて、目を覚ましました。
「カーテン開けるわよ。と言ってもまだ暗いけれど」
マーサがカーテンと窓を開けると、外の新鮮な空気が流れ込んでジャックの鼻をくすぐりました。
「いい朝ですね」
「そうね、暗くても朝は朝だわ。いい空気よ」
ジャックは目をこすりながら体を起こしました。
「マーサさん、病院は大丈夫なんですか?」
「もーう、大変。ありがとね、心配してくれて。だけど私、ジャックちゃんが心配だから、ちょっとだけ抜けてきちゃったの」
ジャックはちょっとだけくすぐったい気持ちになり、目を伏せました。
「さて、換気は終わりっと。ジャックちゃん、朝ごはん作ったから、食べていってね。バランちゃんはいないみたい、まったく」
「昨日の午後から、王宮に出かけて行きましたよ。床掃除くらいはできるとかなんとか言って」
「バランちゃんが床掃除?」
マーサは驚いたように笑いました。
「逆に汚してなきゃいいけど。ふふ」
マーサはエプロンを外しました。
「私もそろそろ戻るわ」
「ありがとうございます」
ジャックはマーサを見送ろうとして立ち上がりました。
「あぁいいのよ、ゆっくりで。ジャックちゃん、それより……」
マーサはふんわりとかがみました。
「無茶はしないでね、絶対に。……約束して」
ジャックはマーサの顔を見つめて、そしてしっかりと目を閉じました。お母さんがいたら、こんなふうかもしれません。
「……約束します」
「よしっ」
マーサはすっと立ち上がりました。
「じゃあ行くわ。あ、ジャックちゃん。少しくらいの怪我だったら、私に任せてね。じゃあまた」
「はい、また」
マーサを見送り、ジャックはマーサの用意したステーキを食べます。体に力がみなぎります。
それから、荷物を持って、出発です。
大きく息を吸って扉を開けると、そこにはジェイクがいたのでした。
「よお、」
「ジェイク、おはよう。……どうしたの」
「いやー、間に合った。ジャック、ランタン持ってるか」
「え?」
ジェイクは背中に背負った麻袋から、何かを取り出しました。
「こっちもってけ」
ジェイクの片手に乗せられたそれは懐中時計のようでしたが、秒針はありませんでした。
「これは?」
「携帯用のランタンだ。光が強くて、軽くて、丈夫だ。ここで調節できる」
「ほんとうだ、いいね、ありがとう」
「これぐらいはさ。ちゃんと親父にききながらやったぜ。超特急でさ」
「……ハッティもバリケードづくりで忙しいんだろ」
「まぁな、これから現場だ」
「こっちも、これから出発だよ」
「だろうな、間に合って良かったぜ」
ジャックは荷物から自分のランタンを取り出し、玄関に置いて扉のカギを閉めました。
「軽くなった、ありがとう」
「あぁ、そっちは頼んだぜ」
「うん」
「絶対、国を救おうぜ、なんてな。おっと、お前さんの手って弾力があるのな」
ハイタッチした手を下ろし、ジャックは言いました。
「猫だからね」
「そうだな、俊敏な猫だ。じゃあ行くよ。気をつけろよ」
「そっちも」
「待てーいっ」
二人が歩き出そうとすると、バランじいが現れたのでした。
「はぁはぁ」
「バランじい、大丈夫か?」
「なんだ、鍛冶屋の倅もいたのか」
「いちゃ悪いのかよ」
「悪いなんて言うとらんじゃろ」
「それで、どうしたの」
ジャックの質問に、バランじいは息を切らせながら木綿でぐるぐる巻きにされた何かを二人の前に突き出しました。
「これじゃよ」
「これは……」
木綿をほどきながら、バランじいは得意げに叫びました。
「ぽぽーん、猛獣来ないよ君」
「……はぁ」
ジャックとジェイクは顔を見合わせます。
「床掃除を一心不乱にしていたら思いついたんじゃが、猛獣は特定の光を嫌がるのじゃ。それをガラスに再現できないかと思ってな。それで、これができたんじゃよ。あ、安心しろ。外枠はハッティのものだ」
「そういや、うちの新人が今朝泣きながら何かを作っていたなぁ……、ジャック、新人とは言っても腕は確かだから、大丈夫だよ。……って、バランじいのマークがついてるじゃないか、勝手にこんなことさせるなよ」
「まぁまぁ、とにかく、安心な旅ができるようにな」
「へぇー」
「寝るときに外でつけて寝ると、猛獣がこんよ。ほれ」
「ありがとう」
ジャックは二人に別れを告げ、お城へ向かいました。
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