第38話 寝返りのコルファ

 従僕に呼ばれたコルファは、ちょうど暖炉の掃除をしていたところで、全身真っ黒に汚れていた。


「え、おれ? 誰が呼んでるって?」


 煤だらけの顔で振り向くコルファに、呼びに来た従僕は「うわあ」とひたいに手をやる。


「お前、そんな顔でクロヴィスさまに会ったら何をいわれるか」


 しかしいまから顔を洗い、着替えまですませている猶予はなかった。あの短気なクロヴィスさまが「今すぐ呼べ」と怒鳴っているのだ、瞬間移動レベルで参上しないと、あとあと面倒なことになる。


「もういい。とにかくついて来るんだ。視線はずっと下げとけ。目は合わすな。美しい方だが、じろじろ見るんじゃないぞ。声も小さく、でもちゃんと聞き取れるように返事をするんだ。それと」


 コルファを追いたてながら、従僕はつぎつぎと注意点をあげる。すれちがうメイドたちに「ま、何その顔!」とぎょっとされたので、コルファは、シャツの腹をめくって顔を拭ってみた。


 しかし、よけいに汚れがひどくなるだけ。テラスが見えてきたところで、うしろを見た従僕は、思わず「うそだろう」とひざの力が抜けてしまった。


「お前、どうなっても知らないからな。ほら、あちらだ。ひとりでいけ」


 クロヴィスの逆鱗に触れる現場にいたくないと、従僕はコルファの背を押し出すと、すばやく消えて逃げてしまった。


 コルファは手の平につばをつけて、頬を拭った。手も汚れていたので煤のにがい味がするし、頬はひとつもきれいにならない。それでも、まあいいか、とコルファは気を取り直してテラスに向かう。


 コルファはクロヴィス・マルシャンがどういう人物なのかほとんど知らなかった。いつもアリアは遊んでいるとき、クロヴィスを話題にあげることがなかったため、士官学校に行っている若い叔父がいて、アリアが月に何度か手紙を出している、くらいしかわかっていない。


 ただ周りから、アリアお嬢さまはクロヴィスさまをとてもお慕いしている、とたびたび耳にしていたので、コルファは勝手に、クロヴィスは心の広い温和な叔父さんなのだとイメージしていた。


 マルシャン伯爵の弟なので、そのスモール版というか、うんと若くして、気さくで朗らか、二十歳くらいだというから、冗談の通じる陽気な人かもしれない、とコルファの想像力はたくましい。


 いつもゆかいでキュートなアリアお嬢さまが、とてもとても好いている人なのだ。悪い人のはずがない、というのが彼の勘違いの原因である。


 しかしアリアがなぜコルファの前で叔父を話題にあげなかったのか、彼はその何より重要な点を見落としている。


 クロヴィスの話題は、アリアにとってナイーブな事情がある。だって、彼のせいで自分は死ぬかもしれないのだ。


 しかし口が固いとはいえ、コルファにそれをぶちまけるのは抵抗があった。どうしてそんなことを考えるのか、理由を問われたら困るからだ。


 まさか小説でそうなっているから、なんていって、相手がコルファだとしても、心配され、頭がおかしいと思われたら大変だ。


 かといって、コルファ相手に、クロヴィス賛辞をするつもりもない。アリアにとってコルファはストレスのはけ口でもあるのだから、うそっぱちの媚びをむだに振りまくなんてごめんである。


 彼女としては、アリアお嬢さまは、心から叔父のクロヴィスさまをお慕いしている、そんなイメージ、これまでコツコツと築きあげた立場を崩す危険はおかしたくないこともあって、コルファには何も伝えていない。


 そんなわけで、大好きなアリアが大好きな叔父は、きっととても素晴らしい、というすり込みが完了しているコルファは、意気揚々とテラスに踏み出した。


 そして、そこにいる大天使さまを見つけた瞬間、ぽっかーん、と口を開けてたたずんだ。と同時に、周りはコルファの死を覚悟した。


「おい、こいつがコルなんちゃらか?」

「コルファよ」


 アリアがそっと伝えるが、クロヴィスは「ふんっ」と鼻を鳴らして目を細める。アリアはコルファのひじをつつき、「ちょっと、あいさつしなさいよ」と小声でせかした。


「あ。その、はじめまして、コルファです」


 コルファはこの美貌の天使さまがクロヴィスさまなのだと理解して、胸がぱっくんぱっくんと踊り狂うような気がした。


 すごい、すごく光り輝いてる!

 いま天から降臨なすったと聞いても彼は信じた。


 たいして信心深くないくせに、こういうときだけ神をみるのがコルファである。優雅さだけでなく強さもかんじさせるクロヴィスは、コルファのツボにマッチしてしまった。


 反骨精神があるようで、小説ではアリアを崇拝して身を滅ぼすことからもわかるように、コルファは自分がリーダーになるよりも、これだという人を見つけて、その人に尽くすことを好む舎弟気質だ。


 アリアのそばにいることで、美しい人には耐性がついていると思っていたコルファだが、世の中にはまたべつの美しさ、恰好良さを持っている人がいるのだと、体中からぱあっと賞賛エネルギーを発散させた。


 一方、この浮かれ小僧がどうしてアリアと遊べるのかと、クロヴィスは理解できずにいた。兄のマルシャン伯爵が小僧を邸に連れて来たときくが、義姉のイゼルダがそれに反対しなかった理由がわからない。


 ひどく不格好だ。汚い。臭い。醜い。頭も悪そうだ。髪はちぢれているし、目が大きすぎる。鼻は低いし、肌も荒れていて、歯並びもへんだ。背は高いが拷問で無理やり引きのばされた人間みたいでバランスが悪い。


 意味がわからん。なぜ、アリアのそばにこいつが?


 クロヴィスは理解出来なさすぎて吐き気がした。アリアは義姉が大切に育てていると思ったのに、自分が士官学校にいるあいだに育児放棄したらしい。なんてことだ、姉さんは病気にでもなったんだろうか。こいつがアリアと遊んでいるあいだ、クッキーを作っていたなんてどうかしている。


 顔色を悪くして無言のまま、ただコルファを見ているクロヴィスに、アリアは嵐の前の静けさをかんじた。


(いきなり首絞めたりしないよね。コルファが処刑されるのは、わたしが死んだあとなんだけどな)


 小説では、アリアの死後、彼女を追いつめたクロヴィスに復讐を誓ったコルファであるが、計画を実行する前に捕まり、斬首されている。その未来がここで繰り広げられるのか。


 アリアは悲劇を阻止すべく、そろりそろりとコルファの横に移動した。


(ちょっ、あんたじろじろおにいさまを見ちゃだめよ)


 アリアが小声で訴えるが、コルファはひたすら憧れの眼差しをクロヴィスに向けつづける。アリアの美貌よりもクロヴィスの美貌が勝った瞬間である。こいつは将来寝返るかもしれない。アリアはむっとコルファをにらむ。


「おい、コル、なんだ?」

「ぼく、コルファです!」


 アリアの疑念をよそに、しゃきっと答えるコルファ。クロヴィスはネズミの死骸でも見るような目をしている。


「お前は、いつもアリアの周りをうろちょろしてるのか?」

「うろ……はいっ、いつもお世話になってます!」

「アリアと何をして遊んでるんだ」

「毎日話しをしています。あと棒を使って殴られ……なぐ、な、棒を振り回して遊んでいます!」


 半目でクロヴィスはアリアを見やった。


「お前は何やってるんだ、アリア。ママは何もいわねーのかよ」

「いや、その」


 アリアは冷や汗をかく。コルファとはかなりやんちゃな遊びをしていたが、それはアリアのイメージ上、絶対に秘密である。アリアはごすっとコルファの横っ腹をひじで殴ったが、いまさらもう遅い。


「あの、そうっ、特訓してたの」アリアは目力強く訴えた。

「アリアも強くなりたくて。お、おにいさまみたいに強くなりたかったの」


「おれはべつに強くない」


 むすっと答えるクロヴィスだが、ちょっと目元が照れたように緩む。


「ううん、おにいさまは立派な騎士ですもの。かっこいいわあ」


 うっとり顔を必死ですると、横でコルファも「素敵であります」と威勢がいい。


「騎士じゃない。実戦には出てない」

 否定するクロヴィスに、

「でも将校さまでしょう?」とアリア。くねくねと恥じらうように動く。


 士官学校を卒業したのだ。

 伯爵家の出であるクロヴィスはすでに軍での地位が高い。


「将校さま! しびれます」


 コルファの目はハートになっている。ちくしょう、とアリアは内心毒づいた。こいつ、いつもはわたしの崇拝者なのに。なによ、男の子ってこれだからヤだわ! すぐ目移りするんだから。

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