第39話 溺愛の兆し
「ねえ、あなたもう仕事にもどったら?」
アリアはコルファを軽く押し出してテラスから追いやろうとした。これ以上クロヴィスに近づけておくと危険だ。最初はコルファの命を案じて危険だと思っていたが、いまでは人間盾喪失の危機である。彼をクロヴィスに奪われてはいけない。
コルファは「あ」と声をあげると、ちょっと顔を赤らめ、「ぼく暖炉の掃除をしてたんです」とクロヴィスに説明する。
「だからぼく、いまは汚れてしまっていて。でも掃除をしていたのは、クロヴィスさまのお部屋ですよ。うんときれいにしますからねっ」
「べつにいい」
張りきるコルファに、クロヴィスは面倒くさそうに息を吐く。
「じきに発つからな。戻るのは」
と、そこで彼はアリアを見、コルファに視線を戻した。
アリアはコルファの汚れた袖をつまみ、寄り添うように立っている。コルファも令嬢に慕われて悦に入っているのか、恍惚とした表情でクロヴィスを見ていた。
「お前も来るか?」
「え」
きょとんとするコルファ。アリアは息をつめてことの成りゆきを見守る。が内心は荒れ狂う大海原だ。
コルファはすっかりクロヴィスに夢中になり、アリアなど眼中にないようす。いつもより彼の声はトーンが高くなり、まるで乙女のように頬を染めて熱烈な視線をクロヴィスに送っている。むかむかする。
この裏切り者をいかにして罰してやろうか。こんな奴、へまでもしてクロヴィスに息の根を止めてもらうといいのだ。
「あの、行くとはどちらへ?」
上役にゴマをする男の見本のように、コルファはへらへら顔で手をすりすりさせてクロヴィスに問う。
いつの間にこんなしょうもない人間に成り下がっていたのか。アリアは自身最大の味方だと思っていたコルファの豹変に、背後からひざ蹴りをかましてやりたくなった。
しかしクロヴィスの前である。じっ……と、コルファの横顔に必殺視線殺しのビームを発射することだけしかできない。
「おれはヨークトルにいる友人に会いに行く予定なんだ。お前も来い。荷物持ちに使ってやる」
「よ、よーくとる?」
コルファは聞き覚えのない街の名だと思い、問い返した。
クロヴィスは「そうだ」とだけ短く答え、「決まりだな」と立ち上がる。
彼の顔を追って、ぐいっとコルファの背骨がのけぞる。コルファも歳のわりには高身長だったが、クロヴィスはさらに頭一つ分以上背が高かった。
「準備しとけよ」
コルファにそう指示してから、「聞いていたな?」とクロヴィスは執事シェパーデスに視線を向けた。
コルファが顔を見せてからずっと、壁と同化し息を殺していたシェパーデスは何事もなかったように蘇生して、「はい。準備させておきます」と頭を下げた。
彼としてはコルファがクロヴィスの生贄になるのを止める義理もない。ただ、一言つけくわえることを忘れなかった。
「騎士団にもわたしから伝えておきます。その子はわたしの管轄ではなく、団長が面倒をみておりますので」
万が一、コルファがクロヴィスの逆鱗に触れても、責任は我にはあらず、という態度を執事シェパーデスはしっかり主張しておきたかった。彼はマルシャン家に忠誠を誓い、骨を埋める覚悟ではいたが潤沢な老後を迎える気でもいるのだ。少しでも危険は取り除いておくに限る。
アリアは一拍おいてから、この状況を理解した。
クロヴィスはコルファを気に入ったらしい。なぜだろう、彼が自分を絶賛しているからか? 羨望の眼差しを向けられて気をよくしたのか。なによ、わたしだって、あんたを素敵だと褒めて、しっかり媚びてきたじゃないの!
「どうしてコルファを連れて行くの?」アリアは鋭く訴える。
「彼が行くならアリアもヨークトルに行きたい!」
「お前はダメだって」とクロヴィスは苦笑する。
「大きくなったら連れて行ってやるよ。今回は留守番してな」
「やだ」
アリアはむかっ腹が立って、思わずテラスの床をドンと強く踏んづけた。クロヴィスがコルファと親しくなろうとしているのが気に食わなかった。いや、コルファがクロヴィス側に寝返るのを黙って見ているわけにはいかない。ここは戦うときだ。
「アリーが行けないのなら、コルファも行っちゃダメ。コルファはあたしの遊び相手なのよ。おにいさまは他の人を連れて行って」
ぐいとコルファの煤だらけの袖をつかむと、アリアは自分へと引き寄せた。胸に腕を抱く恰好に、コルファの頬がぽっと染まり、だらしなく鼻の下が伸びる。
その瞬間、クロヴィスの目が刺すように冷たくなる。アリアはそれが自分に向けられたものだと思い、ますます、すがりつくようにコルファの腕を強く抱いた。コルファは頬だけでなく全身茹であがり沸騰、執事シェパーデスは再度、壁に同化する。
「アリア」
低い声が這うように耳に届く。アリアはすくみあがった。きゅっとコルファの腕をうっ血させ、背後に隠れようとする。
「こちらへ来なさい」
「い、いやです」
じりっとあとずさる。コルファが引っ張られてよろめいた。クロヴィスはゆっくりだが、威圧的に手を差し出してアリアを再び呼ぶ。
「来いといってるんだ」
アリアはきっかり三秒耐えた。行くべきか行かざるべきか。
何がクロヴィスを激怒させているのかさっぱりわからないが、自分が窮地なのはわかる。ビリビリと周囲の空気は振動し、太陽までも雲に隠れる。誰も自分を助けてはくれない。嘆かわしいことよ。
アリアはしょぼしょぼと肩を落としてクロヴィスに我が身を差し出した。どうぞ焼くなり煮るなり好きにしろ。完敗、降参、白旗、全面敗訴である。コルファは盾に使うにはまだ貧弱だった。
「おにいさ、ま!」
相手のようすをうかがおうと顔をあげた刹那、アリアは宙に浮かんだ。足が空を切る。張り手をくらい、地べたに飛ばされて……、いや。
アリアは抱き上げられていた。
クロヴィスは片腕にアリアを乗せると、もう片方の手で、ぱんぱんと彼女のドレスについた汚れを落とそうと軽く叩く。
「なんだってあんなもんに抱きつくんだ。バカなのか」
アリアの思考は停止していた。何事が行われているのか理解できない。
ただ頭の片隅では走馬灯が駆け巡り、
もしかしてここから庭に向かって、あーらよっと放り投げられるのだろうか、首の骨が折れるんだろうか、ははあ、死ぬのはいまだったか、我が人生、アリアとなって幾年月、今生も恋を知らずに終わるのか、いったいいつになったら、幸ある青春が送れるのだろう、さらばじゃ、アリア・マルシャン、大往生は無理だった……
と思ったが、大部分の脳は機能を停止して、外見はお人形さん状態である。
コルファは床にひざをつき腰砕けていた。大天使に抱えられる美少女天使の図を間近で拝めて感無量である。仲睦まじいふたりの姿には後光が射していた。自分が「あんなもん」呼ばわりされたことなど耳に入っちゃいない。
彼は権力には反骨精神で立ち向かうタイプだったが、美しく強いものには惹きつけられた。
クロヴィスは美しかった、アリアも美しい。
クロヴィスは将校さまでもちろん強いはずだ、マルシャン家は代々武勇に優れている。アリアだって強い女の子だ、木の棒で幹を滅多打ちにして自主練に励むお嬢さまなど、コルファはアリアに会うまで存在するとは考えもしなかった。
ありがとう、神さま。ぼくは幸せだ。コルファはこのまま昇天する勢いだ。
他方、背後では壁になっていた執事シェパーデスが人間に戻るタイミングを失っていた。
あのクロヴィスさまが、アリアお嬢さまの愛くるしさに触れて、態度を軟化させていたのは知っていた。また反抗期も過ぎ去り、いまや立派な陸軍士官である。そろそろ婚約者選びもはじまってもいい頃合いで、姪っ子を邪険に扱うはずないだろうとは思っていた。が、しかしである。
(旦那さまでも最近は抱き上げてらっしゃらないのに)
久々の再会に、クロヴィスさまも胸の内でははしゃいでいたのか。まったく顔には出ていなかったが、アリアお嬢さまとのふれあいを、それはそれは楽しみにしていたのだろう。そこへゴブリンみたいなコルファが出現したものだから……
(ははあ、了解した。今夜は使用人一同で祝杯をあげよう)
壁シェパーデスはこっそり胸ポケットからハンカチーフを散り出し、涙を拭った。わが命、マルシャン家は愛に満ちている。
かつて兄嫁と義弟がバトルを繰り広げ、旦那さまは我関せず明後日を向き、メイドたちは神経をとがらせ、アリアお嬢さまは涙にくれていた日は終わった。家族全員仲が良い。泣ける。シェパーデスはひたすらにマルシャン家の平穏を守るため尽力した自身も労わり、熱い涙が流れるのであった。
老練執事であるシェパーデスの察しは正しい。彼は正解を引き当てている。
クロヴィスはアリアがコルファと仲良くしているのを見て不快になった。「あなた仕事に戻ったら?」などと若妻なようなセリフを吐き、小汚い小僧に抱きついたりして、引き離そうとすると「連れてかないで」だと?
なんだ、おままごとでもしているのか。あたしたち、夫婦なの、子どもはウルウルよ、てか。ふざけんなっ。
クロヴィスは、コルファをアリアのそばにいさせまいとして、ヨークトル国旅行に同行させようと思ったのだ。なんなら途中で捨ててきてもいいと考えていた。
近場だと帰省本能で戻って来るかもしれないが、大陸へ渡る航路で落としてくれば二度と会うこともないだろう。あの辺りの海流は複雑なのですぐに海の藻屑になる。それかヨークトルにいるカーマインに土産だといって押し付けてもいい。ただそれだと返送されかねないので、やっぱり海の藻屑にしよう。決まりだ。
「アリア。ウルウルはどこにいるんだ。芸をするんだろ、見せてくれ」
クロヴィスが自身の腕の中で硬直しているアリアを軽くゆさぶると、彼女はハッと脳細胞を動かしはじめた。すぐ目の前にクロヴィスの顔がある。うわー、肌のきめが細かいなー、手入れとかしているのかしら、って思っている場合ではない。
「お、おろしてよ、おにいさま。アリア、もう十歳よ」
「もっと、ちっさく見えるな」
「でも十歳なの! レディなの!!」
クロヴィスはしばらく抱えたまま、アリアがじたばたするのを眺めて面白がっていたが、半泣きになって首まで赤くするので、しかたなく解放した。
「やめてよね!」
ふにん、と頼りない力でクロヴィスと押しやるアリア。
いっぱしに恥ずかしがっているのだと思うと、よけいおかしくて、クロヴィスはまたふいに、こいつを持ち上げてやろうと企むのだった。
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