第28話 秘密のノート

 クロヴィスたち三人が滞在していた一か月間は、あっという間に過ぎてしまった。王都にも何度も遊びに行ったし、領内にある森でキャンプやピクニックもした。コックをハラハラさせながら、四人で料理にも挑戦して、マルシャン伯爵夫妻をびっくりさせたり、執事シェパーデスにいたずらをして怒られたりもした。


 他にもスヴェン、カーマイン、それぞれの実家にも遊びに行った。


 スヴェンの家族が統治する男爵領は海岸沿いにあり、アリアはこの世界に来てはじめて海を見た。といってもリゾート地とはちがい、岩礁と荒波ばかりだったが、どこまでも広がる海を見ていると心がすっとして軽くなった。


 カーマインの家族が統治する伯爵領には火山があり、温泉がわいていた。カーマインが混浴したがったが、同行していたスージーが、


「アリアさまが入浴なさるなら、わたしもご一緒しますが?」


 とすごみ、背後でクロヴィスが「うちのメイドと混浴するつもりなら責任とってもらうからな」と迫ったので、彼は引き下がった。結局のところ男女別でも薄着をまとっての入浴だったが、まあ混浴はやめておいて正解だろう。


 そうして、楽しい時間は本当にはやく過ぎてしまう。


「もう行っちゃうんだね」


 出発の日。アリアはつい涙ぐんでしまった。


「手紙、ちょうだいね」とスヴェン。

「楽しみにしてるから」カーマインもしんみり顔だ。


「泣くな、葬式かよ」


 クロヴィスはもう馬車に乗り込み、あとは出発を待つだけだった。窓に肩ひじをつく彼に、アリアをなぐさめていたスヴェンとカーマインは、冷たい目を向ける。


「お前なあ」

「もうちょっとやさしいことがいえないの」


 クロヴィスはわずらわしそうに「ふんっ」と鼻をならすと、窓を閉じてしまった。


「あいつ、泣きそうだからああやって強がってんだぜ」

「うん、ぼくらにはわかるよね」


 ふたりの会話が聞こえたのか、ガンと馬車から叩く音がした。


「はあ。じゃ、アリアちゃん、またね。つぎ会うときは、立派なレディになってるんだろうなあ」


 スヴェンがしみじみいうと、アリアは「もう立派なレディよ」と胸をはる。ただし鼻先が泣いたせいで赤くなっていた。その鼻をちょんとカーマインがつつく。


「じゃあな、わが愛しのレディよ」


「ぐずっ。カーマイン、女の子と遊んでばかりいちゃだめよ」


「う」


 ははは、とスヴェンが笑い、


「じゃあね、バイバイ」


 三人は士官学校へ向けて出発した。ガタゴトと揺れる馬車が遠ざかり、見えなくなるまでアリアは三人を見送った。かたわらにはオオカミのウルウルがいる。


「行っちゃった」


 アリアがなでると、「くふ」と鼻を鳴らしたウルウルは、彼女の手に頭をすりつけてくる。


 使用人の中には、まだウルウルになれなくて、邸内を歩いているのを見かけるたび、廊下の端によってつま先立ちで硬直している者もいるが、このオオカミは本当に大人しく利口だ。人を襲うことなんてまったく考えられない。


 アリアは三人がいなくなってさみしかったが、ウルウルがいてくれることで、沈みがちな気分もすぐに回復しそうだった。


 士官学校は手紙のやりとりにもうるさかったが、まったく出せないわけではない。アリアはスヴェンとカーマインには月に一度、クロヴィスには月に二度手紙を出す約束をした。


 最初はクロヴィスも月に一度のつもりだったのだが、他のふたりと同じだと知ると機嫌が悪くなったので、二度になったのである。


 クロヴィスに好かれているとかんじることは皆無だ。


 いつも疎ましげにアリアを見やるし、言葉遣いも荒っぽく、目つきも悪い。だが、スヴェンやカーマインとだけ楽しげに遊んでいると、面倒くさいほど不機嫌になるし、ふたりよりもクロヴィスを優先すると、うれしそうとはいえないが、満足そうな顔はする。


 姪が自分よりも友人たちと親しくしているのが、単純に気に入らないのか、ふたりよりも下に見られるのがいやなのか。それともアリアが期待しているように、クロヴィスはアリアを気に入りはじめているのか。


 もともと、クロヴィスはプライドが高く複雑な性格をしているので、何を考えているのか察するのはむずかしい。特に彼の愛情(という感情があるとして)表現は一体どういう風に表だって見えるのか、予測不能である。


(殺したいほど嫌われているとは思わないけどね)


 しかし不安はある。


(あの人が将来、わたしを出世に利用してやろうって思うかどうかは、まだわかんないよねえ)


 出世に利用するとは、アリアを死刑に追い込み、服毒の末、骨も残すことなく葬り去る。その結果、王子の信頼を得て弱みまで握る、というものだが。


(いまは溺愛には程遠いと思うし。利用できると思ったらやられるかも)


 ここからが勝負だ。アリアはふんすっと気合を入れる。


 士官学校に入ってしまえばいままでよりも距離ができる。物理的にも心理的にもだ。卒業後、軍に入れば、さらに距離ができるような気がする。


(恋人とかできたら姪っ子なんて見向きもしなくなるんじゃない?)


 クロヴィスは小説ではずっと独身だったが、恋人がいないとは書いてなかった。性格は難ありだが、あの容姿にマルシャン家門、当主伯爵の弟である。立っているだけでも、向こうからいくらでも、すりよってくるだろう。


 それにアリア自身も、これから環境に変化が起こるはずなのだ。


(王子との婚約が決まるのが八歳でしょ)


 来年のいつ頃かわからないが、アリアの将来がいよいよ動きはじめるのだ。王子に実際に会うのは十歳のときだが、マルシャン家の跡取りから、王子の婚約者に変わると、たぶん今までとはちがうことも増えてくる。


(クロヴィスはアリアが王家と婚約することで爵位継承権が自分に移るから、それで態度も変わるかもしれないよね)


 良いほうにかわってほしいものだが、アリアが王家の一員になることをやっかむかもしれない。あの男の腹の中はわからない。


(ああ、本当に気苦労の多い人生だなあ)


 頭を抱えるアリアだが、自室に戻ると、ベッドの下から箱を引きずり出した。


 スージーに用意してもらった箱で、見かけは宝箱風の装飾がしてある。鍵もかかるつくりだが、いまはただベッドの下にかくしているだけだ。


 床にちょこんと座り、ゆっくりと箱を開ける。


 中には、くまのぬいぐるみと宝石がついた子どもサイズのブレスレット、イヤリング、ティアラにネックレス。びっしりとルビーが飾りつけてある手鏡も入っている。うわあ、とその輝きに感嘆するが、いま用があるのは、これではない。


 アリアはそれらをすべて床に並べたあと、箱の底板を外した。そこには一冊のノートが入っている。アリアはノートを取り出すと、パラパラとページをめくった。


「うう、また読みにくくなってるな」


 ノートに書かれている文字は日本語だった。ここに『孤児グレイスの幸福な結婚』について、覚えているがきりのことすべてを書き記しているのだ。


 いつ何が起こり、何をしなければいけないのか。誰がどう動き、何を考えているのか。小説で得た情報でしかないが、この世界の未来が、このノートに書かれているのである。


 アリアは、この世界が小説と同じであること、自分が悪女アリア・マルシャンになっていることを理解してすぐ、このノートを書いた。もし誰かに読まれても、何が書いてあるかわからないように、文字は日本語にした。


 でも。


(やばい、わたし、日本語忘れかけてる)


 使わなければ退化するのは母国語も同じらしい。まあ母国語といっても、丸島ありさ時代のものだから、アリアが忘れてしまうのも当然かもしれないが。


 アリアは異国の言語も学んでいたが、日本語だけはどうしたってこの世界で見かけることはない。あるのが記憶の中だけでは、悲しくも忘れていく。


(いまのうちに書き直したほうがいいかも)


 せっかく忘れないように書いた情報が読めなくなってしまっては意味がない。それに、誰かが読んでもわからないようにと日本語にしたが、アリアが理解不能な文字を使うことのほうが怪しまれるだろう。


(小説を書いているふりをして、登場人物の名前も変更したら、未来のことだってわからないよね。それにこうしてノートはかくしてるんだし)


 アリアはまっさらなノートを本棚から抜き出すと、勉強机にむかい、ノートを改めて書き記すことにした。


 いまでも小説の内容は記憶しているが、新たに思い出す出来事はなくなっている。何度も読み返したとはいえ、暗唱できるほど読み込んだわけでもなく、まして超人的に記憶力がいいわけでもない。


(たまに、ものすごく重要なことを忘れてるんじゃって不安になるけど)


 自分は良い方向へ進んでいる、未来は変えられると信じていくしかない。悪女にはならないし、死刑にもならない。おばあちゃんになるまで生きて、大満足でこの世界から「さよなら」するのだ。

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