第18話 クロヴィス・マルシャンの憂鬱

 クロヴィスはアリアのことが嫌いではなかった。


 といっても好きでもない。無関心というやつだ。以前会ったときは、母親のマルシャン伯爵夫人のうしろにかくれて指をくわえていた。甘ったれたガキ。目障りだが害はない。屋敷に滞在することは稀だし、ほとんど顔を合わせることはない。


 そう、思っていた。


 それが休暇でマルシャン邸に戻ってみると、やっと二足歩行をはじめたばかりの猿だと思っていたやつが、自分にガツガツと話しかけてくる。おしゃべりだ。しかも媚びてくる。不快だった。母親の指示だと思った。


 マルシャン伯爵夫人のことを考えると、クロヴィスは無意識に顔をしかめてしまう。昔、ずっと昔は、それでも彼女のことが好きだった。


「クロヴィス」と話しかけてくる声も、軽やかに笑う声も、ほっそりとしたからだつきも、クロヴィスは好いていた。いまでは嘘のようだが、それは本当のことだ。


 クロヴィスの両親、先代のマルシャン伯爵夫妻との思い出を、彼はあまり記憶していない。父はひげ面の厳格親父で、母は陰気なため息ばかりつく女だった気がする。ふたりとも気づいたら亡くなっていた。


 死んでやっと、ああ、あれが自分の親だったのか、と再認識したくらいで、特に思い入れもなく、当然、悲しみも喪失感もなかった。


 ただ兄とは仲が良かった。二十以上年齢が離れているので、ともだちのように遊ぶというのとはちがったが、いつも笑顔で穏やかな兄は、クロヴィスにとって陽だまりのような存在だった。


 叱られた記憶も、怒鳴られた記憶も、邪険に扱われた記憶もない。


 誰かと話しているときも、クロヴィスが声をかけると、兄は笑顔で迎えてくれた。きらきらとした金色の髪、大きな手、どっしりとした体躯、すこしだけ火薬くさいにおいがするのは、兄が強い証拠に思えた。


 その兄が大切にしている女性、イゼルダのことも、クロヴィスは気に入っていた。「おねえさま」と呼ぶと、彼女は細長い腕を伸ばして、自分をやさしく包んでくれた。鼻先をくすぐる香水の匂い、冗談をいっておどける陽気さ、くるくるとよく変わる表情。


 彼女はクロヴィスに小言をいうこともあったが、彼が甘えるとすぐに許してくれた。「しょうがないわね」とため息をつき、それから、くすっと笑う。その笑顔が好きだった。だからちょっといたずらをして、怒られて、「ごめんなさい」とあやまって、それから「しょうがないわね」と許してもらうのだ。


 でもいつからか彼女は笑わなくなり、しかめっ面ばかりして、ため息も、クロヴィスが好きだった、あのくすっと笑っておしまいの、あの短いものじゃなくて、湿っぽく陰鬱なものを、くりかえし、くりかえし、イゼルダは吐き出すようになった。


「おねえさま」と呼んでも、わずらわしそうな顔をして、クロヴィスを無視した。あのほっそりとしたからだが、ますます骨ばってきて、くるくる変わった表情は怒りと苦しみばかりを映し出した。


 イゼルダがなぜ変わってしまったのか。その理由を知ったのは、もうすこし彼が大きくなってからだった。子供ができないプレッシャーで、彼女は――伯爵夫人は――変わってしまったのだ。


 いや、元々ああいう人だったのだろう、とクロヴィスは思う。


 最初は伯爵夫人になれて喜んでいたのだ。彼女は男爵の三女で、当時はあまり金回りのよくない家の娘だった。


 イゼルダは姉妹のなかではいちばん器量が良くないといわれていたらしく、線の細いからだつきをみすぼらしいとかんじていたようだ。そんな彼女を兄は愛した。そして彼女は気づいたのだ、自分の魅力と力と、これからの人生の輝きを。


 だからクロヴィスにもやさしかった。幸福からくる余裕。歳の離れた義弟の相手をしながら、これから生まれてくるはずの我が子を重ねて楽しんでいたのだ。


 それが思い通りにいかなくて。クロヴィスばかり注目を集めて。


 明るくてユニークだと思っていたイゼルダは、ただの伯爵夫人になった。


 彼女の苦しい状況をクロヴィスも理解できないわけじゃない。ただ理解できたとろで、その苛立ちを自分にむけてくることに納得できるわけもなく。よけいに腹立たしくて、頭にきて。かつて、なついていた自分が恥ずかしいくらいだった。


 兄のことは好きだったが、あんな女にいいように扱われているのを見ると、情けなく、尊敬の気持ちも年齢があがるにつれてしぼんでいく。


 それでもアリアが生まれた時、クロヴィスはわずかばかり期待した。明るいイゼルダが戻って来るんじゃないかと、また楽しく遊べる日が来るんじゃないかと。


 でもイゼルダは伯爵夫人のままで、いかめしく、そして神経質になった。クロヴィスを見る目つきも、さらに険しくなって、まるで牙をむいてくるようだった。


 彼女はやせ細ったキツネで、アリアは子キツネで、クロヴィスはそれを狙う狩人。本当はちょっとだけ赤ちゃんを見てみたいだけなのに、キツネはいつも牙をむく。


 もういいや。そう思ったら、本当に何もかもどうでもよくなった。


 自分は伯爵家に生まれたけれど、爵位は兄が継ぎ、そのあとは長子のアリアが襲爵するはずだ。あの男爵の娘が生んだ子が、伯爵になるのか、と考えると、クロヴィスは不満が胸でくすぶる。


 ジャルディネイラ国は男女関係なく長子優先で爵位が移る。伯爵家の次男であるクロヴィスは士官学校さえ卒業すれば、将校にはなれるだろう。戦果をあげれば一代限りのナイトも叙爵できるかもしれない。が、そんなものに魅力はない。


 金があれば男爵くらいまでなら買えるだろうが、古くからある伯爵家の息子が新興貴族になってどうする。他の方法も思いつくが、そこまで爵位に魅力があるわけじゃない。ただ、なんとなく下に見られるのがいやなだけだ。


 成人が近づくにつれて、さまざまな力関係がわかってくると、ますます苛立ちはましてきた。正直、全部くだらないのだ、くしゃくしゃに丸めて焚火に放ってやりたいほどに。


 くだらないくだらない、渦巻く不満にからだが弾け飛びそうなとき、目をきらきらさせて自分を見てくるアリアに会った。


 おじちゃま? おにいちゃま? なんだ、それは。


 何をたくらんでいるのか、気味が悪かった。アリアじゃなく、そう仕向けたであろう伯爵夫人に腹が立つ。このチビは何をしているのかわかっていないのか。むしゃくしゃする。利用されているのに、無邪気な顔をして、ぺらぺらとしゃべって。


 居心地の悪さに逃げ出したが、学校に戻ると、今度は手紙攻撃がつづいた。無視していたら、教師や友人らにまで送る始末。すべてアリアが書いているようだったが、なぜこんなことをしてくるのかわからない。


 浮かぶのは伯爵夫人の顔ばかりだ。ぜったい何かある。裏がある。企んでいるはずだ、自分を追いつめようとする何か、復讐だろうか? でもなぜ。なぜ、そんなにも自分を嫌うのか。学校から追い出したいのか。ここも居心地悪くして、自分が逃げ出すのを待っているのか。


 ぼくは何をしでかしたんだろう。イゼルダは、どうしてそんなにぼくが嫌いなんだ? 目障りでこの世から消したいほどに、ぼくは嫌われてしまったんだろうか。


 落ち込んでいる自分に気づくと、クロヴィスはまた腹立たしさで自暴自棄な気持ちになる。自暴自棄な自分がわかると子供じみて思えて憂鬱になる。


 泣きたくなるが、目はからからしていて、ぜんぜん湿ってこない。アリアをいじめたら、イゼルダはどう反撃してくるだろうか。あの人は自分の娘も利用して、何事も自分の思い通りにしたいだけなんだろうか。


 アリアのつたない字や下手くそな絵を見ていると、クロヴィスは過去の自分を重ねてしまう。


 スヴェンやカーマインは単純なことしか見えていない。手紙をもらって嬉しいだろうとか、かわいい姪がいてうらやましいとか、返事を書かないクロヴィスを悪い叔父だとからかって、げらげら笑っている。ぼくが照れていると思っているんだ、ばからしい、そうじゃない、そんな簡単なことじゃない。


 クロヴィスはやがてアリアに同情しはじめた。あの子は母親に利用されている。利用されているのに気づいてもいない。母親を喜ばせようと無邪気に手紙を送ってきているだけ、いわれたとおり素直にしたがっているだけ。


 不憫だ。かつての自分と重なる。イゼルダの本性を知らずに慕っていた自分と、アリアは似ている。いつかきっと傷つく日がくる。母親に失望する日がくる。そのとき、彼女はどうするだろう。


 それでもアリアは爵位を継げる。歴史あるマルシャン家は宮廷でも強い影響力を持つ。あの子は結局、力を持つのだ。そう思い至ると、やっぱり自分がいちばん不遇でつまらない人生で、そう思ってしまう己がなんだかちっぽけで。


 だからクロヴィス・マルシャンはいつも憂鬱だった。


 光り輝くような容姿をしながら、いつもそれを持てあましてはため息をつく。


 その姿から、学内でひそかに『物憂げな天使』などと呼ばれている、なんてことを、彼だけは知らなかった。

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