第12話 あの人は心が腐っているの、とママはいった
「アリア?」
ドアから顔をのぞかせたのは、アリアの母、マルシャン伯爵夫人だった。
夫人は気づかわしげにまゆをよせて、娘に近づいてきた。外出着のままで、頬が上気している。
「あなた、クロヴィス叔父さんに怒鳴られたんですって? 大丈夫? あらまあ、泣いていたのね」
マルシャン伯爵夫人は、娘の泣き止んだばかりの顔に気づき、一方では怒りで般若のような顔になり、もう一方では娘の悲しみに打たれて泣き崩れそうになった。彼女はメイドから、アリアがまた自室にこもっていると聞き、着替えもせずに飛んできたのである。
あの小僧め。夫人はクロヴィスにどう反撃してやろうかと、憎々しく思った。娘をやさしく抱きしめながら、顔は復讐の炎で燃えている。
「あ、あのね、ママ」
アリアは夫人の怒りの熱をかんじとって、あわてて身を引きはなすと母の顔をまじまじと見つめた。
「あたし、おじちゃまのこと好きよ。うまくおしゃべりできなくて、それで悲しくなってしまったの。あたし、おじちゃまにきらわれたかしら。すごく心配だわ」
おどおどと話す娘に、マルシャン伯爵夫人はまたもや、激しい怒りと、娘の純真さ、涙が出るほどのまごころに打たれて、般若と感動の渦で顔をひっちゃかめっちゃかにする。
泣きたいのか笑いたいのかわからないまま、娘のやわらかい髪をなでる。アリアはにこりと笑って、母の頬をやさしくなで返した。
「アリーね、おじちゃまと遊びたいの。いっしょに追いかけっこしてくれるかしら。ご本を読んでもいいわ。おじちゃま、ずっとこのうちにいてくれると思う?」
「おじちゃまはね」と夫人はつい顔をしかめて、あわてて笑顔を作った。
「クロヴィスおじちゃまは、お友だちに会いにいくそうよ。だから、次に会えるのは、また長いお休みがあるときで」
「そんな!」
アリアはぎょっと飛び上がった。もう出て行くとは!
自分のせいだろうか。なんて短気な叔父だろう。今日来たばかりなのに、もう出て行くとはフットワークが軽すぎやしないか。落ち着けよ、おじさん。
「さあ、おじちゃまのことはいいじゃないの」と夫人は怖いほどにこりと笑う。
「ママと遊びましょうよ、ね?」
「で、でもぅ」
アリアは、なんとなく夫人がクロヴィスを疎ましく思っているのをかんじとっていたが、その傾向は好ましくないと思っていた。なるべく対立の芽は将来のためにも摘んでおきたい。もし、母親が甥と対立していて、その原因が自分にあるなら、どうにかして改善しておかねばと思う。
「ママ。おじちゃまにいって。アリーがおじちゃまと遊びたがってるって。おねがいよ。もうバイバイなんてさみしいわ」
アリアが涙ぐみそうになると、伯爵夫人はたじろいだ。
怒鳴られ邪険に扱われたというのに、このいたいけな少女の心美しさには、目まいがする思いだ。なんて清らか、なんて天使、なんてビューティホー!! 我が娘ながら、尊敬に値する、まさに本物の天使である。
「いいこと、アリア。クロヴィスおじちゃまには、あまりお近づきにならないほうがいいわ。むずかしい人なの。怒りっぽくて、口が悪くて。ママは、アリアが傷つくようなことになってほしくないわ。ね、わかったかしら?」
あの外道から、愛する我が娘を守ろうと、夫人はアリアの肩をつかみ、その濁りないまなこに訴えた。
「もうおじちゃまのことは忘れましょう。アリアにふさわしいお友だちは他にたくさんいますよ」
しかしアリアも、ここで引くわけにはいかない。「おじちゃま、好きよ」と小さなにぎりこぶしを作って主張する。
「だってとってもお美しいんだもの。アリー、おじちゃまのこと……ううん、おにいちゃまのこと、とってもとっても気に入っているの。だから、ママが悪くいうと、かなしいわ。どうして仲良くしてはいけないの。おにいちゃまは家族でしょう」
がーんっ、と衝撃を受けた夫人は、この神の化身、愛の女神、友愛の権化になにを進言したらよいのか、わからなくなった。穢れているのは己だろうか。あのくそ生意気な甥を、自分は受け入れなければいけないのか。
「アリア。あなたは知らないのよ」
大人が有する伝家の宝刀「子どもにはわからない世界があるのよ口調」を抜こうとしたところで、娘はそれをばさりと振り払ってしまった。
「いやよ。ママ。あたしはおにいちゃまが好き!」
「でも」
「ママがきらいでも、アリーは好きなの。おやつもごはんも、いっしょに食べるの。おにいちゃまのことを悪くいうなら、ママのこともきらいになるわよ」
ぷいっとそっぽを向き、腕の中から抜け出そうとする娘を、夫人はひしと抱きしめた。
「ア、アリア。なんてことをいうの。たしかにクロヴィスおじちゃまは、見た目は美しいわよ。でも、アリアの方が何倍もかわいくてきれいよ。それにあの人は心が腐っているの。アリア、世の中にはどうしようもない悪がいるの、愛では救えない人がいるのよ」
夫人がクロヴィスを嫌う気持ちは思いのほか根深いようだ。アリアはここまでとは思っておらず、しばし反論に迷う。
あのクロヴィスはたしかに性根に問題がある。それは認める。だが、だからこそ、良好な関係を築かなければ将来、死が、それも慈悲深さゼロの苦しみのたうち回る死がやって来てしまうのだ。
アリアの母、マルシャン伯爵夫人は、娘の転落人生がはじまるにつれ、精神を病み、夫の死後は完全に自分を見失ってしまう。アリアの処刑を、夫人がどう受け取ったのか、そもそも理解したのか、それは小説には描かれておらず、うかがい知ることはできない。
だが、ひとつだけはっきりしているのは、アリア・マルシャンの母であり、いまは自分を抱きしめて守ろうとする彼女は、自分のせいで悲嘆にくれるのだ。
だから彼女を救うのも、死刑を回避すること同様、新生アリアにとっては重要なことである。この人の心が壊れることのないようにしたい。しなくちゃいけない。
「大丈夫よ、ママ。おにいちゃまは、いい人よ。ママもきっと仲良くできるわ」
アリアはきゅっと夫人を抱きしめて、自分と同じ色をしている琥珀色の髪に頬をすりよせた。夫人の肩の力は抜け、あきらめるたように娘の背をなでた。
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