第10話 失敗しました

 終わったな。アリアは笑い泣きしていた。人間、苛烈な現実にぶち当たると笑いがかってに顔に張りつくのである。


 元々、小説『孤児グレイスの幸福な結婚』のなかで、アリアとクロヴィスは特に因縁があるわけでなく、個人的に恨みがある記述もなかった。


 たしかにアリアの愚行はマルシャン家に泥をぬったが、クロヴィスはそれを苦にするどころか、躍進に利用している。ある意味ではアリアに感謝さえしているのではないか、それほどのしたたかさを彼は小説内で見せていたのである。


 だから本来なら、新生アリアは善良に生活することだけを重視すべきだったのかもしれない。わざわざクロヴィスに取り入らずとも、彼の出世の足掛かりになるような非を作らないよう腐心すべきだったのだろう。


 だが万が一にも、何の非がなくとも、彼女を利用して蹴落とし、残酷な運命にさらす可能性もないわけではない。


 だったら、彼がアリアを大切に思うよう、少なくとも出世に利用するコマに使わない程度には、彼に気に入られようと考えるのは、そう突飛な発想ではないだろう。


 ただアリアが実際に出た行動が突飛だった感はいなめない。それは彼女もよくわかっている。だから泣いているのだ、ボロボロに。彼女の涙腺はガバガバである。


 アリアには焦りと恐怖があった。すぐにでも自分を陥れる敵ではなく、彼は味方なのだと安心したかった、その一心だった。


 たしかにまだ時間はある。アリアがクロヴィス主導の残忍な処刑にあうまで、約二十年の猶予があるのだ。しかし、アリアとしては、早くに、それもまだ自身が幼く、愛らしさを十分に活用できるうちに、彼を陥落しておきたかった。


 小説でのアリアの処刑のようすは、そこだけロマンス小説がホラー小説にいっぺんするほど、しつこく細かく無情さが描写されていた。処刑で苦しむアリアを描くのにまるまる一章を消費していたくらいである。


 それを読んだアリア――丸島ありさ――は思ったものだ。いったい作者はアリア・マルシャンに何の恨みがあるのだろう、と。


 悪役ではあるが、その死を執拗に苦しみ満ちたようすで描き、ある種嬉々としたリズムある文章のつらなりには、ぞっとさせられるものがあった。


 もしかしたら、悪役アリアにはモデルがいたのかもしれない。作者の個人的な恨みがそこに露呈していたのやも。


 しかし小説でどう扱われていようとあくまで小説であるうちは、少々読者が引く程度ですむことだ。丸島ありさも、何もここまで残酷に殺さなくても、と思った程度で、次のページをめくった。


 だが現実はどうだ。現在のアリア・マルシャンにとって、待ち受ける死の運命は作り話ではない。


 小説では、『孤児グレイスの幸福な結婚』のクライマックスは、グレイスが受けるプロポーズのシーンでも、皆に祝福されるラスト結婚のシーンでもなく、悪役アリア・マルシャンの最期ではないかと思うほど、印象に残ったその場面が、まさに自身に降りかかる可能性がある。悠長なことはいってられないのだ。


 それでも、たとえ作者にアリア・マルシャンに対する個人的な恨みがあったとしても、アリアを残酷な死に追いやった人物として描かれていたクロヴィス・マルシャンには、姪アリアに対して個人的な恨みはない、そう思っていたのだが。


「きいぃぃぃぃぃぃ!」


 五歳児アリアは絨毯につっぷし絶叫した。もしかしたら、クロヴィスが個人的にアリアを嫌う理由を自ら作り出してしまったかもしれない。


 天使のような顔をしたクロヴィスが、アリアの言葉に顔をゆがめ、毒舌を吐き、わずらわしげに拒絶した、あの態度、視線、オーラ。


 愛嬌をふりまき、愛され、大切にされようとしてやった、あの行動が、結局はアリアの死を早めたのではないか。もしかしたら、小説に描かれた運命よりもはやく、アリア・マルシャンは死ぬのではないか。


 舌を引っこ抜いてやろうか、といったクロヴィスの目は冗談ではなかった。舌はさすがに引っこ抜かないにせよ、幼女のすべすべな頬を張り倒してテラスのイスから引きずりおろすことくらいなら、良心の呵責なくやりかねない目をしていた。やつは本気だったのだ。


 これをきっかけに、アリア・マルシャンはクロヴィスに嫌われ、やがては無残な死へと追いやられたのである。


 あの日、もしアリアが大人しくしていたら。クロヴィスに会わず、部屋で絵本を読むか人形で遊んでいたら。そうしていたならば、アリア・マルシャンの最期も、これほどまでに残酷ではなかっただろう、アーメン。


 ……と、なっては困るのである。ぜったい困るのである。


 まだ取り返しはつくだろうとは思いつつ、アリアの心はくじけかけていた。結局いちばん賢い方法は、ひたすら大人しく、目立たず、誰の行動も阻害せず、世界の片隅でひっそりと生きながらえることなのかもしれない。


 冷血叔父クロヴィスに好かれることで、安寧を求めたあげく、こうなったのである。ジタバタせずにいればよかった。何が幼女のポテンシャルだ、何が大人の余裕だ。あったのはパニックと自殺行為じゃないか。


 アリアは「はああああ」と盛大にため息をつき、許しを請うようにからだを丸めた。いつも彼女はそうだった。アリアになる以前、丸島ありさのときも、何かを望み、そして失敗ばかりしていた。

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