第9話 義弟と兄嫁の火花散る関係
クロヴィスは兄夫婦の帰りを待たずに邸を出て行こうとしていた。予定では一晩泊まって、明日、寮で同室の友人宅に顔を出すつもりだったが、うるさいチビに付きまとわれむしゃくしゃして、とても落ち着いて滞在する気になれなくなったのだ。
しかし荷ほどきをはじめていた従僕に指示を出し、馬車の用意をさせようとしたところで、タイミングよくマルシャン伯爵夫妻が帰宅した。夫人をエスコートして玄関ホールにつづく階段をあがっていた伯爵は、明らかに不機嫌な顔をした弟と鉢合わせして、一度大きく目をぱちくりさせた。
弟は兄をぎろりとにらんだ。
「おれ、もう行くから。でさ、こづかいほしいんだけど。それと誰でもいいから、ひとり従僕をかして。スヴェンかカーマインのところに行く」
「そうか」
穏やかに答えた伯爵は、弟の成長をしみじみとながめやった。背がまたぐっと伸びている。もうすこしで自分を追いこしそうだ。顔立ちはやはり母似だな。軍人向きの体躯じゃないが、成績はいいから知略で活躍するかもしれん。
のんきに突っ立っている夫を見ていた伯爵夫人はため息をついた。彼女はあまりクロヴィスを好いてなかった。それは相手が反抗期真っ盛りなのもあるが、あでやかな容姿がなにより気に食わない。
小さいころからクロヴィスは、マルシャン一族の華だった。誰もが彼をちやほやした。伯爵夫人も結婚当初は、義弟の絵画から飛び出てきた愛らしい天使のような姿に心打たれたが、成長と共に小生意気さが勝り鼻につくようになってしまった。
伯爵夫人は、なかなか身ごもらず、そのことで一族から陰口をたたかれていたことを知っている。そのせいか、彼女は、クロヴィスの評判を聞くたびに苦痛を感じるようになってしまった。
自分はもう過去の人になったような気持ち、伯爵の妻になったことで浴びた羨望も期待も、すべて嘘みたいに消えたかに思えてきて、さみしくてたまらなくなった。
その孤独は誰にもいえず、またいいたいとも思わなかった。彼女はプライドが高かった。それゆえに孤立したが、アリアを授かってからは再び自分にスポットライトが当たったのを感じて喜んだ。アリアはすばらしい子だった。才能にあふれ、容姿にも恵まれている。
これからはアリアの時代になる。そう伯爵夫人は思ったのに、クロヴィスの容姿は成長しても崩れることなく磨きがかかり、アリアがどれほど素晴らしくても、マルシャン一族での人気は、アリアとクロヴィスで二分されるだけだった。
男性ではクロヴィス、女性はアリア、このふたりが一族の華。それではいやだった。アリアが何より重要視されなければいけない。賞賛は我が子のみが受ければいいのだ。
要するに夫人は義弟クロヴィスが気にくわないのである。
ましてや、アリアは子供らしい純真さがあるのに、クロヴィスは金せびりの憎たらしいガキである。アリアのほうが断然良いのに、周りの目はくもっている。
「あら、もうお出かけになるの。若い人は行動的ですわね」
親しみを込めたつもりが、ついとげとげしくなるのは止められない。外出用の羽根飾りがついたハットを脱いで髪を整えながら視線をやると、クロヴィスはあからさまに敵意のある目で自分を見ていた。
「おばさん、チビがうるさいんだ。あいつのせいで頭痛がする。兄さんたちが甘やかしたせいだ」
おばさん、と呼ばれることに夫人は毎度かちんとくるのだが、それを顔に出さずにいることはできた。幼い頃は「おねえさま」と呼んでいた時期があったのに、いつの間にか、顔を見るたび、自分のことを「おばさん、おばさん」とクロヴィスは平気で呼ぶようになった。
「チビ?」
マルシャン伯爵は、ふと弟は犬でも見たのだろうか、と不思議そうな顔をした。猟犬が子犬を産んだとは聞いていないが、屋敷内を走り回ったのだろうかと。
「アリアは平気だったかい。しつけのなってない犬は子どもを噛むかもしれないからね。お前も気をつけるんだよ」
くっ、とクロヴィスは奥歯をかんだ。兄貴はいつもにぶい。頭の回転が自分よりも二周は遅い気がする。それに出した答えがいつも明後日の方向をむいている。これでよく前回の戦争では指揮官が務まったと思う。大量の負傷兵を出したと聞いても驚かない。
クロヴィスは、あんたなら話が通じただろう、という目を伯爵夫人にむけた。夫人は「ちび」が愛する我が子だとわかっていたので、ハットをつぶすいきおいでにぎっていた。
「アリアは平気ですわよ」と、夫にむけて夫人はいい、
「お出かけになるのはいいですけど、いまから向かわれては相手方にご迷惑じゃないでしょうか」と義弟に述べる。
「それにおこづかいは休暇に入る前に送ったはずですよ。ご友人たちも宅についたばかりで騒がしくしていることでしょう。落ち着いてからお訪ねになったらどうです。ここがお嫌なら、領内に宿があるでしょう。若いんですもの、旅の方と混ざって楽しむのも良い経験ですわ、ねえ、あなた」
「ああ、そうだね」
伯爵は、「ねえ、あなた」と問われたら、とりあえず「そうだね」と答えるように仕込まれていたので、特に意味も考えずそう応じた。クロヴィスが「はっ」と短く息を吐き出す。美しい顔をゆがめ、下くちびるをかんでいた。
「あいつらはいつだってぼくを歓迎しますよ、おばさん」
「あら、親切なご友人がいるのね。でもそれに甘えてはいけませんよ、クロヴィス。もう十六でしょう。責任感を持ってもいい頃ですわ、ねえ、あなた」
「そうだね。責任感は大事なことだよ」
「ありますよ、責任感は。それより、兄さん、アリアのことだけど、あいつおれのこと『おじちゃま』て呼ぶんだぜ。兄さんたちがそう呼ぶようにいったのかい。おれに媚び売ってさ、甘えてくるんだ。ああいうのはよすようにいってくれないかな」
「媚びですって?」
夫人が声を裏返して問う。唖然とした。このガキはアリアの悪口までいうのか。
クロヴィスは、「ああそうだよ」とやけに嫌味たっぷりにいうと声を高くした。
「『おじちゃま、おじちゃま』って発情したメス猫みたいにすりよってきてさ、『アリー、おかしが好きよ』って食い意地もはってる。ちょっと恥ずかしいんじゃないかな。伯爵令嬢にふさわしいとは思えないね」
「ま、まあ!」
怒りで肩を震わせる妻に、伯爵も遅れて空気を読みはじめた。楽しく家族の会話をしていると思ったら、いつも突然雲行きが怪しくなる。
伯爵としては、その原因は妻の激高しやすい性格と、反抗期まっさかりの弟とが互いに主張を曲げないことだろうと思われた。
たが、女性はたまに怒りっぽくなる生き物だし、弟というのは生意気なのが普通である。伯爵としては、どうしようもない自然の摂理なので、ただ「まあまあ」となだめて笑うしかない。
そうこうしているあいだも従僕は、いったいクロヴィスさまは出かけるのか、滞在をつづけるのかで判断に迷い、右往左往していたし、平穏を好む執事シェパーデスは「奥様とクロヴィスさまが衝突してます!」の報告を聞いて、耳をふさいでいた。
そして、話題のアリア・マルシャンは自室に閉じこもり、ふかふかの絨毯にまたもや涙を落としていた。彼女の涙腺は頻尿ぎみなのである。
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