第9話 義弟と兄嫁の火花散る関係

 アリアの振る舞いに気分を害したクロヴィスは、兄夫婦の帰りを待たずに邸宅を後にすることにした。


 一泊する予定だったが、うるさいチビに付きまとわれたんじゃ、むしゃくしゃしてお茶すら楽しめないからだ。


 だが荷解き中の従僕に滞在の取りやめを伝え、再び荷造りするよう指示していたところで、マルシャン伯爵夫妻を乗せた場所が戻ってきた。


 妻をエスコートしながら玄関ホールの階段を上がっていた伯爵は、ブスッとした表情をした弟と鉢合わせし、目をぱちくりさせた。


「おや、クロヴィス、おかえり。元気にしてたか」


 笑顔の兄に対し、弟は目を細めてにらみ返す。

 

「俺、もう行くから。で、こづかいくれない? あと誰でもいいから、ひとり従僕を貸して。スヴェンかカーマインのところに行く」


「そうかそうか」


 うんうん穏やかにうなずく伯爵は、年の離れた弟の成長をしみじみ眺めやる。

 背がまたぐんと伸びている。もう少しで自分を追いこしそうだ。綺麗な顔立ちは母親似だな。軍人向きの体躯じゃないが、成績はいいから知略で活躍するかもしれん。


「あなた」


 伯爵夫人が、のんびりしている夫を小突く。しかし返事が「ん-?」とこれまたのんびりしたものだったから、夫人はため息だ。


「クロヴィス。どうして昼食に間に合わなかったの。あなたの席も用意して待っていたんですよ」


 のほほんとしている夫に変わり、義弟の無礼を叱る夫人。しかし相手は「あっそ」と反省した様子はない。心内で舌打ちする伯爵夫人。


 幼い頃からクロヴィスは、マルシャン伯爵家一門の華だった。伯爵夫人も結婚当初は絵画から飛び出てきた愛らしい天使のような義弟をかわいがった。


 しかしなかなか身ごもらない自分を蔑む声を聞くうちに、クロヴィスの愛らしさが憎らしさに変わってくる。そしてやっとアリアが生まれてからも、この義弟が一族の中でアリアと人気を二分するのが気に食わなかった。


 娘のアリアは純真無垢で愛らしいが、クロヴィスは金せびりの憎たらしいガキだ。アリアのほうが断然良い。それなのに周りは、やれクロヴィスさまは美しいだの、成長と共に美貌に磨きがかかるだの、信奉者が後を絶たない。


「兄さん、聞いてる? もう行くから、カネちょーだい」


 手を出して催促している義弟に、伯爵夫人はぴしゃりと言う。


「あらもう出ていくの? 身勝手は若い人の特権かしら」


 外出用の羽根飾りがついた帽子を脱ぎ、紙の乱れを整えながら見やると、クロヴィスが敵意ある目でにらんできている。


「おばさん」とクロヴィスは強調して言った。

「おたくのチビがうるさいんだけど。きゃんきゃん騒いでさ。兄さんたちが甘やかしたせいだ」


 おばさん、と呼んでくることに、伯爵夫人は毎度かちんとくる。少し前までは「おねえさま」と甘えてきたくせに、いつからか顔を合わすたび「おばさん、おばさん」と言ってくる。夫人が嫌がっているのがわかって、あえてそうしているのだ。


「チビ?」


 弟と妻の会話をほんわか聞いていたマルシャン伯爵だったが、ふと「チビ」の言葉に反応する。チビとは、はて? もしかして弟は犬でも見たのだろうか。猟犬が子犬を産んだとは聞いていないが、邸宅内を走り回ったのかもしれない。


「アリアは平気だったかい」と伯爵。本気で心配している。

「しつけが済んでない猟犬は子どもを噛むかもしれない。お前も気をつけるんだよ」


 くっ、とクロヴィスは奥歯を噛んだ。兄貴はいつも鈍い。頭の回転が自分よりも二周は遅い気がする。そして出した答えがいつも明後日の方向をひた走る。これでよく軍の指揮官が務まるな。大量の負傷兵を出したと聞いても驚かない。


 クロヴィスは、あんたなら話が通じただろう、という目を伯爵夫人に向けた。夫人は「おたくのチビ」が愛する我が子だとわかっていたので、帽子を潰さん勢いでつかんでいる。


「アリアは平気ですわよ」


 まず夫に言う。伯爵は「そうか!」と安心したようだ。

 それから、義弟をにらみ返し、

「出ていくのは良いけど、うちからは何も出しませんよ」

 と意見する。


 そしてここからが肝心だと、前に出て言い募る。


「クロヴィス、お小遣いは休暇に入る前に送ったはずです。それがもうなくなったなんて言わせませんからね。それからご友人たちだって、邸宅に戻ったばかりで遊びに来られたんじゃあ迷惑というものですよ。常識を考えなさいな。もしも邸宅が騒がしくてお嫌だというなら、領内に宿があるわ。若いんですもの、旅の方と混ざって楽しむのも良い経験よ。ねえ、あなた」


「ああ、そうだね」


 伯爵は「ねえ、あなた」と問われたら、「そうだね」とまず答えるよう妻に仕込まれていたので、特に意味も考えずそう応じた。クロヴィスが「ハッ」と短く笑う。


「宿? 冗談じゃない。あいつらはいつだって僕を歓迎しますよ、おばさん」


「あらそう。親切なご友人がいるのね。でもそれに甘えてはいけませんよ。クロヴィス、あなたももう十六歳でしょう。責任感というものを知って良い年頃だわ。ねえ、あなた」


「そうだね。責任感は大事なことだよ」


「ありますよ、責任感くらい。それより、兄さん。アリアのことだけど、あいつ俺のこと『おじちゃま』って呼んできて気持ち悪いんだけど。兄さんたちがそう呼ぶよう言ったわけ? あいつ俺に媚び売ってくるんだ。ああいうのは見苦しいからやめたほうが良いと思うな」


「媚びを売るですって?」


 伯爵夫人は愕然と聞き返した。


「ああそうだよ」


 クロヴィスは肩をすくめると、声を高めて言った。


「『おじちゃま、おじちゃま』って。発情したメス猫みたいにすり寄って来てさ、『アリー、おかしがすきよ』って食い意地まで張って俺の分も食おうとした。まだ子どもって言ってもアレはどうなのかな。伯爵令嬢として将来が心配だね」


「ま、まあ!」


 怒りで肩を震わせる伯爵夫人に、のほほん伯爵も遅れて空気を読みはじめた。和やかな家族団らんを楽しんでいたと思ったのに、いつの間にやら雲行きが怪しい。


「まあまあ落ち着いて」


 とりあえず小刻みに震えている妻の肩を優しく叩く。

 それから弟にも、「アリアと仲良くしてくれたんだね、ありがとう」とお礼をいう。


 クロヴィスは目をぐるっと回して「ダメだこりゃ」の気分だった。


 さて、その裏では。


 果たしてクロヴィスさまは出かけるのか、滞在をつづけるのか。荷造りの指示を受けた従僕は判断に迷い右往左往していたし、平穏を好む執事シェパーデスは「奥さまとクロヴィスさまが衝突しています!」の報告に耳をふさいでいた。


 そして渦中のアリアは自室に閉じこもり、ふっかふかの絨毯をまたもや涙で濡らしていた。繊細なアリアの涙腺は、最近どうも頻尿ぎみなのである。

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