第5話 小説『孤児グレイスの幸福な結婚』

 ロマンス小説『孤児グレイスの幸福な結婚』は、タイトルが示すように、孤児グレイスが幸福な結婚を迎えるまでを描いた小説だが、道中は幸福とは程遠い内容である。


 貧しい平民の家に生まれたグレイスは、流行り病で相次いで両親ときょうだいを亡くし、七歳で孤児院に預けられる。そこで十五まで過ごした後、看護助手の職を得た彼女は、従軍看護師の一員に混ざり苦戦がつづいている前線へと向かった。


 三年ばかり過ぎた頃、野戦病院にひとりの負傷兵が運びこまれる。彼は全身にやけどを負い瀕死の状態だったが、グレイスの懸命な看護で一命をとりとめ、回復する。患者は全身と顔の大部分にやけどの跡が残ったが、日常生活に支障はなく、会話もできるようになる。そうしてグレイスは彼の身分を知るのである。


彼は王国の第六王子ロザリオ・ジェルディネイラであった。あまりの身分の高さに、グレイスは怖気づくのだが、そのときにはもう、二人は恋仲になっていた。


このとき、グレイスは十八、ロザリオは二十一であり、彼には妻があった。同い年の王子妃アリア・マルシャン。政略結婚により結ばれた二人であり、アリアはもちろん、ロザリオのほうでも愛情はかけらも持ってなかったのだが、公式に認められた妃であることにはちがいなかった。


 ロザリオはグレイスに、戦争は自分が必ず近いうちに勝利して終わらせる、王都に帰還したあと、アリアとは離婚して、そなたと結婚する、などを約束して、戦地へと戻って行った。


 前線へ戻ったロザリオは、死をも恐れず戦いぶりをし、その勇猛さに触発された自軍の奮起もあって半年後、敵国の主要師団が拠点にする地域を制圧、戦況の大勢を決めた。戦後処理の協定も整えた翌年の春、英雄として王都に凱旋したロザリオは、アリアに離縁を申し渡すとともに、グレイスの行方を探す。グレイスは以前勤めていた野戦病院をやめたあと、姿を消していたのである。


 アリアは後継者争いから脱落していると思っていたロザリオが凱旋し、皇太子候補に名乗り出たことで、態度を軟化していた。それまでは、王子であっても中央に関わることはないと思っていた彼を見下し、興味を持たないどころか、大陸一の美女である自分が片田舎にある古臭い古城で暮らさねばならないことを嘆いて、夫をなじり倒していた。


 戦争中も、王子がすぐに戦死すると決めつけ、彼が前線にいる間に次の夫候補を探して王都に出向くと、王子妃である身分を最大限活用して豪奢な生活を楽しんでいた。ロザリオが戻った頃には莫大な借金まで作っていたが、本人はシラをきり、自分は世間知らずなので周りに騙され、また使用人たちが私腹を肥やしていくのを止めることが出来なかったと訴えた。


「あなたがいなければどうにもならない」


 涙をうかべてロザリオにすがりつき、同情と愛情を引き出そうとするアリアだったが、騙し合いが常の戦地で鍛えられた彼の精神が揺れることもなく、また、彼の心にはすでにグレイスがいたため、アリアの懇願にもなびくことはなかった。


 ロザリオは、借金のすべてを自分が受け持つこと、離婚後も前王子妃として一定の身分と生活は保障することを条件にアリアを納得させようとしたが、彼女は拒否。


アリアは王族の婚姻には国王と議会の承認がいることをあげ、こんなことは許されないとつっぱねた。またグレイスのことも調べ上げると、彼女が平民で孤児院育ち、病気もちの売女だと罵った。


上位貴族の娘である自分を捨て、売女と結婚することを、王が許すはずがないとたかをくくっていたアリアだったが、しかし、ロザリオの熱意、彼の戦果や国民の間での人気を考慮した国王は、アリアとの離婚を承諾、貴族からなる議会も、アリアの悪行を知っていたため、これに追従する。


 唯一、アリアの父親であるマルシャン伯爵だけは最後まで粘りを見せたが、結局、彼女の生活の保障、何の罪にも問わないことを条件に、娘をなだめる側に回ることに合意、二人の離婚が成立した。


 離婚後、アリアは実家のマルシャン家に戻ったが、グレイスの悪評を貴族、民衆を問わず、また外国へも風評して回り、やっと王子が見つけ出したグレイスのことも、「敵国のスパイだ!」と騒ぎたてた。


 それでも、グレイスの謙虚さ、美しさと聡明さをかねそなえた姿を知った人々は、アリアがいくら騒ぎたてようと、ハエを払うように、わずらわしさに顔をしかめるばかりだった。


さらに庇護者であった父親のマルシャン伯爵が病に倒れ亡くなり、娘の没落と夫を失ったショックに耐えかねた母親も精神を崩してしまったことで、アリアは孤立していく。


 次期マルシャン家の当主となり、爵位を継いだのはアリアの叔父、クロヴィスだった。クロヴィスは彼女の悪行を非難して、国王と皇太子候補のロザリオからの信頼を回復することに勤める。アリアを領内にあるさびれた修道院に送り、周りとの交流を遮断。人々の記憶からアリアを消し去ろうとした。


 修道院に入ったアリアの生活で特筆すべきことはない。彼女も自身の境遇を受け入れたのか、クロヴィスの手をわずらわせることはなく、しばしの平穏が訪れる。その間に、ロザリオは正式に皇太子として就任した。グレイスも国民の間で、皇太子の恋人として周知され、いずれ皇太子妃にとの声があがるようになった。


だが貴族の反発もあり結婚への道はいまだ困難を極めた。人柄はのちの王妃に申し分なかったのだが、やはり身分の低さがネックになった。しかしそれも、有力貴族の養女となることで道筋が立ちはじめる。その有力貴族が、マルシャン伯爵、つまりアリアの叔父であった。


 クロヴィスはアリアを厳しく断罪すると同時に、ロザリオとグレイスの結婚を率先してすすめることで彼らの信頼を獲得、宰相の座も狙えるまでに地位を固めていく。アリアは過去の人となり、人々は新しい皇太子夫妻を待ち望んでいた。


 そんな中グレイスが懐妊。これにより反対派の貴族たちも態度を軟化させはじめ、グレイスは正式に王家の仲間入りをする。ただし皇太子の正妃ではなく、あくまで妃であり、側室の扱いではあったが。


民衆の間でも懐妊の噂が流れたのを機に、クロヴィスはグレイスを正妃にすべく、昼夜奔走した。そのすきに、大人しくしていたはずのアリア・マルシャンが修道院から抜け出した。


行方はわからない。ただ昔からの使用人数名とわずかな所持品だけを持って逃げただけであり、いまさら彼女に何の力もないと判断したクロヴィスは、さほど憂慮しなかった。


報告を受けた皇太子だけは、唯一不安を見せたが、グレイスとそのお腹の子の成長を見守るほうに注力し、アリアに対しては表立った行動に出ることはなかった。


 出産間近になった頃、ある噂が流れた。グレイスが妊娠したのは皇太子の子ではないというありがちな悪評だ。


その発信元は敵国であるとも、また皇太子妃の座を狙っていた貴族、あるいは元妻アリア・マルシャンではないかと予想されたが、この噂も生まれた子グエン王子が金色の瞳をしていたことで、グレイスの潔白が証明される。金色の光彩を持つ瞳は王家の血を引く証であったためである。


 ロザリオとグレイスの生活は満ち足りたもので、懸念していたアリアの存在も王子の成長を見守る日々の温もりの前では、わずかな影も作りだすことはなかった。


アリア・マルシャンの捜索は秘密裏に行われ続けていたが、彼女の行方はいっこうにわからずにいた。しかし、あれだけ目立つ存在なのだから、すでに外国に逃亡しているのではないかという説が有望だった。よって国内の捜索も近々打ち切られる、そのような情報が流れ出た矢先である。


 王子グエンを狙った暗殺未遂事件が発生した。


 犯人は掃除婦に化けて城に侵入、乳母が王子からはなれたときを見計らい、毒針を手に近づいた。王子の丸い腕に針先が触れる寸前、戻った乳母が見つけ悲鳴をあげる。犯人はすぐにやってきた兵に捕らえられ、王子は傷ひとつ作ることなく、元気な泣き声をあげただけですんだ。


 その犯人は最初老婆だとされた。誰かに金で雇われた平民だろう、薄汚い服を着た貧しい老女、背骨は曲がり、手足は節くれだった枝のように細い女に注目する者はすくなかった。


 誰の指示で王子を狙ったのか。牢での尋問はそのことに集中していた。しかし尋問のさなか、直接経緯を聞き出そうと地下へ下りて来たクロヴィスの顔色がいっぺんしたことで事態は急変する。


 皆が老婆だと思った女は、アリア・マルシャン。皇太子の元妻であり、クロヴィスの姪、現在は皇太子の妃となったグレイスの従姉妹であった。


「悪魔に魂を売ったのか」


 クロヴィスの詰問に、アリアは笑みで応じた。


「魂を売ったのではない。奴らから力を奪ったのだ」


 逃亡中のアリアに何があったのか、小説『孤児グレイスの幸福な結婚』には記されていない。ただ彼女は二十代半ばにして百を超えた魔女のような容貌となり、皇太子の息子グエン王子を殺害すべく、自ら城にもぐり込んできたのである。


 現行犯で捕まったこともあり、アリアを擁護する声はなく、また、アリア自身も罪を逃れようとしなかった。形式だけの裁判が終わり、彼女には死刑の判決が出る。反対するものはなかった。


 秋の終わり。アリアの刑が執行される。伯爵令嬢として生まれ、やがて王妃になるやもしれなかった女の最期は、王都中央にある広場で行われ、民衆の好奇の目にさらされる中で幕を閉じた。


 翌春、皇太子ロザリオと妃グレイスの結婚が発表される。同時にグレイスが正妃につくことも決まった。


 結婚式は盛大に行われた。宰相になったクロヴィスがグレイスをエスコートして祭壇へと進む。祝福を受けた二人は歓喜する民衆に暖かく迎えられる。花びらが舞う中、よちよち歩きでそれをつかもうとする王子グエンの姿に、誰もが幸せな笑みを浮かべた。グレイスは誰よりも幸福であった。


 ――以上が、小説『孤児グレイスの幸福な結婚』のあらすじだ。


 小説が示すアリア・マルシャンの死まで、あと二十年。

 丸島ありさの魂を持つ新しいアリアの人生は、まだ始まったばかりである。

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