第2話 最悪の目覚め

 マルシャン伯爵家の一人娘であるアリアが高熱を出したのは、五歳の誕生日パーティーが終わって数日後のことだった。


 伯爵家の小さなプリンセスは、周りからの祝福に大喜びしていたのだが、一転、ベッドにぐったりと横たわり、水すらまともに飲めなくなっている。

 この状態が三日続いていた。


 当初、伯爵家の主治医は子どもにはよくある発熱だと診断した。けれども一向に良くならない娘の状態に、マルシャン伯爵は主治医と叱責したあと首にし、宮廷医を邸宅に招き診断を仰いだ。


 最年少で王立医学校を卒業した秀才であり、皇太子の専属医である。しかし彼もアリアを目覚めさせることはできなかった。アリアの体温は一時四十度を超えていたが、三日目の今、平熱に戻っている。しかし意識は戻らず脈は弱々しい。


「これは病気ではありません」


 若い医師の言葉に伯爵夫妻は当惑の表情を浮かべた。すると医師は声を落とし、囁くように付け加えた。


「きっと呪いでしょう。ぼくではなく魔術師に診せるほうがいいでしょう」


 夫妻は一瞬にして青ざめた。

 震える妻の肩を伯爵はたくましい腕で抱き寄せる。


「誕生日の祝い客に怪しげな奴が混ざっていたのかもしれん」

「でも客人リストは何度も確認したでしょう?」

 伯爵夫人は夫を見上げ、眉間に皺を寄せる。

「不審な人なんていなかったわ。警備だっていつも以上に厳しくしていたじゃありませんか」


 だが数日の間に新しく雇った使用人はない。呪いを疑うなら、発熱の時期から見ても、パーティー客、あるいは準備の時に出入りした者が怪しい。


「呪うなんて!」


 医師の言葉に強いショックを受けていた夫人だが、次は怒りで体をわななかせ頬を上気させる。


「裏切り者がいたのよ。きっとアリアの愛らしさを妬んだんだわ!」

「伯爵」


 若い医師が穏やかな、しかしはっきり響く声で言った。ヒステリックな苛立ちを見せる夫人に対し、咎めるような視線を一瞬やる。


「お抱え魔術師はいらっしゃいますか? 急いだほうがいいかもしれません」

 アリアの小さな手首に指を当てる。

「脈が弱すぎる。体温まで下がり始めたら危険です」


 険しいまま伯爵は先代からひいきする老魔術師の名をあげた。すると夫人がすかさず「だめよ」と否定する。


「余興の占い程度なら役立つでしょうけど、アレはもう老いぼれだわ。もっと若くて優秀な魔術師を呼ばないと」


「だが……」


 王国ジャルディネイラは偉大な魔術師を祖として建国した歴史ある大国だった。しかし数百年のうちに魔力は低下し、今では国民の多くは魔力を持たない。わずかに残る魔術師や弟子は国が徹底して管理しており、雇うには国王の許可がいる。


「今から宮廷に行って申請しても遅いのではないか?」


 不安げな眼差しをむける伯爵に、若い医師はゆっくりと首を振る。


「間に合わないでしょう。今夜が峠です」

「今夜」


 夫妻は同時に窓を見る。三日月が浮かんでいた。


「あなた、誰でもいいから連れて来てくださいな。アリアが、私のアリアがなぜこんな目に!」


 悲痛な声を上げ、夫人は娘が横たわるベッドにすがりついた。


「誰でもいいわ。この子を目覚めさせてくれるなら」


 伯爵は妻の肩に手をやると、硬く引き締まった表情で部屋を出て行こうとした。今からでも王宮に行って、国王に直談判するつもりだ。


 マルシャン家は歴代優秀な武官を輩出している家柄である。先の戦争でも武勇をあげ、上位貴族としての地位も確固だ。


 さらに現国王と伯爵は年齢も近く、幼年期から親しくしている。自分が哀願すれば、国王は自身の優秀な魔術師を娘のために融通してくれるかもしれない。伯爵は荒っぽくドアを開け廊下に出た、その瞬間だ。


 う、と微かに呻く声。

「アリア!」

 夫人の叫びに伯爵もきびすを返してベッドに駆け戻る。

「アリア」


 五歳の幼女が険しい苦悶の表情を浮かべている。何かから逃げようとしているのか、小刻みに顔を左右に振り、小さな手足をバタバタさせた。


「お嬢さま、アリアお嬢さま」


 医師が呼びかけるとアリアのまぶたがぴくぴくと痙攣する。


「アリア、ママよ」


 伯爵夫人は涙を浮かべて娘の小さな肩を揺らした。医者が手を重ね制止する。


「落ちついて。無理に目覚めさせないほうが——」


 ぐっ、と喉がつかえたような音を立て、アリアが硬直する。緊張が走るが、すぐにアリアは胸を上下させ長く息を吐き出した。そして、ぱちりと目が開く。


「?」


 わっと涙交じりの歓声が上がる。夫妻と医師が破顔するなか、アリアは天蓋にある天使の絵をぼんやり見つめていた。身体が重く、動くのが億劫なようだ。と、騒がしい足音と共にドアが盛大に開いた。駆け込んできたのは、廊下で状況に耳をそばだてていた使用人たちだった。


「お嬢さま」


 白髪が混じる乳母が頬を涙で濡らしている。その後ろにも若いメイドたちが「良かった」と繰り返し泣き笑いしていた。


 アリアはぼんやりしたまま、その光景を眺めている。伯爵夫妻は抱き合い、互いの肩や背を優しく叩き合っていた。若い医師が安堵の息のあと笑顔を見せると、アリアの手首に指を当てる。


「脈が戻りましたね。声は出せる? 名前を言えるかな」


 アリアは目を瞬かせたが、「あり」とだけ答えた。かすれ声に、乳母がベッドサイドに置いてあったグラスを手に取る。


「ゆっくり飲ませて」と医師。

「呪いなら目を覚ませば大丈夫と聞きますが、ぼくは専門家ではないので」

 伯爵夫妻に小声で伝える。

「念のため魔術師に診せてください。ぼくからは栄養剤を出しておきましょう」


 足元にあった鞄から小瓶を取り出すと、医師はスープに混ぜて飲ませるよう指示を出した。


 そうして医師が乗る馬車が王城に戻る頃、コック特製のオニオンスープが完成した。こっくりとした黄金色のスープは香りだけでも心満たされる。栄養剤を混ぜると、やや混濁したが味に変化はなく、アリアはぺろりと完食した。その様子に誰もがほっと息をつく。


 伯爵夫妻は娘のひたいにキスすると静かに部屋を出て行く。乳母はベッド脇の椅子に腰かけ、再び目を閉じたアリアを見守っていたが、時刻は深夜だ。安堵もあってか、こくりこくりと舟を漕ぎ始める。アリアお嬢さまの回復に、邸宅は数日ぶりに穏やかな眠りにつこうとしていた。


 ただ一人をのぞいて。


「何よ、この夢」


 アリアは目を荒っぽくこする。頬をつねる。痛い。ぐっと目を閉じ、ぱっと勢いよく開けてみる。おかしい、目が覚めない。まったく目が覚めない!!


「はあ!? わけわかんないっ」


 大声に窓の外では鳥がバサバサと飛び立ち、乳母がはっと目を覚ます。


「お嬢さま?」


 五歳のアリア・マルシャン——の中にいる丸島ありさは、自分の小さな手を見つめると、信じられない思いでぱちぱちと頬を叩く。


「え、ちっさ。なにこれ、わたし子どもになってんの!?」

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