第16話 聖女の秘蹟
フレイア教会総本山のフレイア神聖王国は、大きく蛇行する川の半島状の地形にある城塞都市で、一般には聖都と呼ばれている。
プロヴァリーと国境を接している川には、壮大なアーチ型の石橋が掛けられている。
橋を渡ればすぐに聖都に入るため、橋の両端と中央には監視のための角塔が二基設けられ、兵士が詰めてそれぞれの国を防衛していた。
前日は国境沿いの宿場町に泊まり、礼装に着替えた国王夫妻と喪章をつけた護衛騎士たちは、国境の橋を渡る。
あらかじめ入国する時刻を知らせていたため、神聖王国側から司祭らがプロヴァリーからの賓客を出迎えた。
「主神フレイアの御名の元に、平安あれ。
プロヴァリー国王陛下、聖女リリアーヌさま。本日は遠方より、教皇聖下のご葬儀参列にお越しいただきありがとうございます。これより私が大聖堂宮殿の迎賓館までご案内いたします」
「主神フレイアの御名の元に、栄光あれ。出迎えご苦労、司祭殿。よろしく頼む」
リリアーヌたちは、国賓案内役の司祭らと共に街の中心にあるフレイア大聖堂宮殿へと向かう。
その途中、通りがかった大通り広場の片隅で騒動が起こっていた。
人だかりの中心に、ひとりの婦人が毛布に包まれた幼子を抱えてうずくまっている。
国王夫妻を乗せた馬車は、それを迂回して進もうとしていたが、
「待って、馬車を停めて!」
リリアーヌが御者に叫んで、停止させた。
「いかがなさいましたか、陛下」
先導していた案内役の司祭が引き返して来て、ジェレミーに問いかけた。
「あそこで何があるのか、リリアーヌが気にしている」
「ああ……あれですか。掃除婦が亡くなった子を教会に届けず、部屋に隠していたようです」
リリアーヌが馬車の窓を開けると、人々の怒声が聞こえて来た。
母親に石を逃げつける者もいる。
聖都では、死者が出た時は速やかに教会に届出をし、然るべき措置をして埋葬しなければならないと法で定められていた。
さもなければ、災いが起こると信じられている。
「ご安心を、まもなく僧兵が来て女を捕らえるでしょう」
「あの方はどうなるのですか?」
「聖女さま、教会の教義に基づく我が国の法によって裁かれることになります」
司祭とのやり取りを聞いていたジェレミーが「そのくらいにしておけ」と、リリアーヌを止めた。
「ここは神聖王国だ。この国の法に我らが口出しはできない。あの者も、重い罪には科せられないだろう」
リリアーヌは衝動的に馬車の扉を開けると、喪服の礼装ドレスを翻してひらりと飛び降りる。
そして、人込みをかきわけて母親の元へと駆け出した。
「リリアーヌ、待て! 誰か、王妃を連れ戻せ!」
ジェレミーに命じられ、護衛騎士たちが騎乗している馬をどうするか迷っているうちに、ニコラは直ちに馬から降りて近くに居た僧兵に預けた。
ニコラはリリアーヌに追いつくと、大声で叫んだ。
「皆さん、ちょっと通して下さい! 聖女さまが通りまーすっ」
「ええっ、聖女さま?」
群衆がニコラの声に驚いて振り返った。
赤い髪の貴婦人の姿を見ると、そこに居た人々はすぐに聖女リリアーヌだと気づく。
聖女リリアーヌの絵本や姿絵は、この聖都でも土産店で売られていたから。
「聖女さまだ!」
「リリアーヌさまだっ」
聖女を通すために、人々が脇に寄り道が出来る。
リリアーヌは真っすぐに母親の元へ行くと、膝をついた。
憔悴しきった母親が、リリアーヌをおずおずと見上げる。
それまで変わり果てた我が子を固く抱きしめ、誰にも取られまいとしていた。
母親はリリアーヌと目が合うと静かに涙を流し、毛布にくるまれた子供の亡骸を震える手で差し出した。
見守る群衆に、緊張が走った。
聖水で清められていない亡骸は、穢れとして忌避されている。
特に聖職者は穢れを受けると職務に携われなくなる規定もあるので、特に嫌がっていた。
リリアーヌは、ためらうことなく亡骸を母親から受け取る。
折しも雲間から光が広場に差し込み、リリアーヌを照らす。
聖女は子供の額の上で、聖印を指で結び祝福を与える。
子供を大事そうに抱いて、永遠の安息と魂が天の御国へ行けるようにと祈りの秘蹟を行ったのだ。
人々は固唾を飲んでその様子を見守り「おおっ」と、どよめき、次に歓声をあげる。
リリアーヌから優しく子供をその腕に返された母親は、嗚咽しながら、地に額を擦りつた。
「聖女さま、あ、ありがとうございます……これでこの子も、天の御国に行けます――」
「どうか、心安らかにお過ごしください。主神フレイアの御心が豊かにあなたと共にありますように」
その場にいた人々は、大聖堂の壁に描かれた、聖人の逸話を目撃したかのような感動に包まれ、聖女と主神フレイアに感謝の祈りを捧げた。
遅れて、プロヴァリーの護衛騎士と神聖王国の司祭が、ようやく群衆をかきわけて駆けつけた。
「リリアーヌさま、勝手をされては困ります。尊い御身に何かあったら、どうなさいます。さあ、早く馬車にお戻りください」
リリアーヌは騒ぎを聞いてやって来た僧兵を近くに呼んで「亡骸は聖別しました。どうかこの方に、温情のある措置をお願いします」と声を掛けた。
そして後ろ髪を引かれるようにして、馬車に戻った。
聖都に限らず、中原の国々では死者は聖水によって亡骸を清め、教義に則って埋葬しなければ、
何故なら、この大陸は呪われている――。
聖典によれば、かつて人々は神殺しの大罪を犯した。
その古き神の怒りが大地を汚し、
旧神の怒りの産物である、
馬車に戻ったリリアーヌに、ジェレミーは「満足したか?」と冷めた口調で問いかけた。
「ごめんなさい。私のしたことは、ただの自己満足だって分かってる。でも、あの方の悲しみが少しでも癒されるなら……」
聖水も聖印の秘蹟も、実はただの気休めに過ぎない、とリリアーヌたちは知っていた。
その実態はいまだに不明だった。
「私の力は、
――それでも、我が子を亡くす苦しみと悲しみを、私は知っているから。
例え気休めでもいい、あの方に何かしてあげたかった」
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