03

 彼が来た。

 自分の隣に、座る。


「炭酸飲料を」


 ジンジャーエールのようなものが、運ばれてきて。彼が、それをあおる。


「仕事が大詰めでさ。時間が取れない」


「そっか」


 わたしはここであなたに会えるだけでいいよ、とは、言えない。恋人ではない、ぎりぎりの間合い。


「一日中、ラップトップとにらめっこでさ。そろそろ身体を動かしたい」


「ラップトップ?」


「あ、ああ。パソコンだよ、パソコン」


 今回はデスクワークなのかな。彼の仕事は、分からなかった。以前は、海を一週間ぐらい泳いだと言っていた。


「泳いだりはしないの?」


 訊いてみる。


「泳ぐ?」


「ほら。一週間ぐらい泳いでたって」


「あ。ああ。空母のやつね」


「空母?」


「ちょうど空母が行方不明とか爆発したとかあったじゃん。ニュースで。そのときの仕事だよ。一週間ぐらい泳いだのは」


「からだ動かしてるね?」


「あのときは、いまとは別な仕事仲間と泳いだんだけどさ。その仕事仲間が泳ぐの得意で、自分だけ置いていかれたんだよ。あとでそいつが呼んだ船に救助された」


「たいへんな仕事だね?」


「ほんとだよ」


 嘘みたいな話なのに。彼は、さも、本当にあったことのように、話す。もしかしたら、本当に海を泳いだのかもしれない。その間、彼はバーに来なかった。


「また、来れなくなるの?」


「分かんない。もしかしたら、この世にいないかもな」


 笑った彼のしぐさに。切ないものを、感じたから。手を伸ばしそうになった。彼の頬。


「そっちは。仕事とか、交遊関係とか」


 話題の切り替えで、わたしの手だけが。宙空を切る。


「仕事は、普通だよ。昇進届を出してないから、幹部職候補には入らないの」


「もったいないな」


「ここより上にいくと、こんなふうにバーでゆっくりできなくなっちゃうし」


 あなたに会えなくなる。


「友達はね。結婚式が、今月3回あるわ」


「結婚ラッシュだな」


「しかたないよ。この年になると、みんな、焦るから」


「年か。焦って結婚っていうのが、わかんないなあ」


「あなたは、そういうの、ないの?」


「どういうの?」


「結婚したいとか、理想の相手とか。そういう、将来設計っていうのかな。そういうの」


「将来設計か。考えたことなかったな。仕事柄、いろんなところを転々としてるし」


「そっか。風の向くまま、気の向くままだね?」


「そうでもないよ。風はいつも誰かが起こしてるし、気分が晴れることなんて、なにひとつない」


 彼。一瞬だけ、表情が曇る。


「なんだ、この暗い雰囲気は。やめだやめ。ストップ」


 彼が、わたしの飲み物を手にとって。少しだけ、口をつける。


「うまい。いちご味だ」


「あなたのをちょうだい」


 彼が、さっきまで口をつけていたグラス。彼の跡を探して。そこに、自分の口をつける。勇気を出せないわたしの、せいいっぱいの間接キス。


「ごほっごほっ」


 炭酸が強い。


「刺激が強すぎたかな?」


 彼の笑顔。

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