第九章 久遠の呪詛に緑風は打ち勝つ 2
「……父様」
ようやく市伊がまわりにも気を配れるようになったころ。ふいに葛良が震える声で絞り出すように呟いた。
彼女の視線の先には、黒馬にまたがった一人の男がいた。ようやく姿が見えたぐらいでまだ十分距離も離れているのに、ただそこにいるだけなのに圧倒される気配だった。男は底知れぬ闇をまとっていて、気を抜けば闇の底に引きずり込まれてしまうような気がした。
霊気というには禍々しすぎ、邪気というにはあまりにも研ぎ澄まされすぎている。彼の力は闇そのものだ。そう表現したくなるほど彼の力は強かった。予知の感度を半分にしてもらっていなければ、今ごろ正気を失っていたかもしれない、と市伊は身震いをした。
男は微動だにせず、柚良たちが近づくのを待っていた。はっきりと顔が見えるくらいまで距離を縮めても、余裕すら感じさせるほどに男は落ち着き払っていた。
「久方ぶりじゃの、日下の」
「おや、これは大城山の守神どの。あなた自ら出向いてくださるとは。こちらから首を取りに行く手間が省けると言うものだ」
「勘違いするでないぞ。わらわはそなたの息の根を止めに参ったのだ」
一歩も引かずに笑いながらにらみ合う両者を、市伊たちはただ見ているしかなかった。下手に手を出せば柚良の不利になる。万が一戦闘になった場合も足を引っ張らぬよう立ち回らなければ、と市伊は神経を研ぎ澄ませながら成り行きを見守っていた。
「ただの人間上がりの小神が朝廷に楯突くなどおこがましい。そこの出来損ないの娘もろとも刃の錆にしてやろう」
すらりと剣を抜き放った男は、慣れた手付きで剣先を柚良に向ける。その剣を見て、神獣たちの表情が変わった。市伊には普通の剣に見えるが、力のある神器なのだろう。その剣について補足をしてくれたのは、傍らで血の気を失った顔をした葛良だった。
「あれは
「神殺し……」
「神気を吸って強くなる剣なので、柚良さまも
その説明で、この戦いがどれだけ柚良にとって不利なものなのかを市伊は思い知った。攻撃を打てば力を吸われ、防御してもその守りは無効化される。なんとかしてその剣を破壊することはできないのかと聞いてみても、葛良は無言で首を振るばかりだった。
「ほう、そなた少しは使える武器を持ってきたのじゃな。よいよい。そのぐらいの方が、楽しめるというものじゃ」
「ふん、その威勢もいつまで持つか見物だな。地面に這いつくばることになっても後悔するなよ」
にぃ、と男が嗤って剣を薙ぐ。その途端辺りを満たす邪気が膨れ上がった。柚良の神気が剣に吸われてその分男の力が強まったのだ、と市伊が理解したころにはもう戦いが始まっていた。
大地がびりびりと震えるほどの、圧倒的な力と力がぶつかり合っていた。男が斬りかかれば、柚良はひらりとかわして合間に攻撃を放つ。それを剣で切り裂いて、負けじと男も術を展開する。蔦のように伸びて全てを絡め取ろうとする術は柚良の
日下隼人の一方的な攻撃かと思われた戦は、意外にも柚良の力が勝っているように見えた。神気を吸う剣は無条件に全てを吸うわけではなく、その刃で切り裂かないと無効化できないらしい。さらに後ろに控える神獣たちが幾重にも柚良の周りに守護壁を展開しており、かなり厳重に守られている。これならまだ柚良にも十分利はある、と胸をなで下ろして市伊は戦いを見守っていた。
異変が起き始めたのはそんな時だった。隣にいた葛良が突然胸を押さえて苦しみだしたのだ。
「葛良?! どうしたんだ?」
「身体が……熱い……っ!!」
異変に気付いた神獣たちのうち、紫金が葛良の体へ手をかざす。良くないわね、と呟いた彼女は柚良の守護を二匹にまかせ、神気を一気に解放した。金糸の束が燐光を振り撒きながら葛良の体へ絡み付く。それでも彼女の様子はよくなるどころか、どんどん悪くなっているように見えた。
「どうなっているんだ……!?」
「あの男がこの娘の中に仕込んだ術を増幅させているのよ。勝つ見込みが薄くなってきたから、彼女を利用しようとしているのでしょう」
「何て卑怯な……」
「そうよ。こんなことなら聖域に居るときに身の内にいる悪鬼だけでも封印しておくべきだったわ」
悔しそうに紫金が唇を噛む。そうしているうちに、葛良は紫金の手をすり抜けてひとりでに立ち上がり、俊敏な動作で走り出した。その娘を止めてちょうだい、と叫んだ声に反応した神鹿と大天狗が前に立ちはだかったが、なんなく二人をするりとかわして葛良は走り去ってしまった。
「葛良、どこへいくんだ!! もどってこい!!」
突然いなくなった恋人にあわてふためいた融が叫ぶ。その声に一瞬反応して葛良が立ち止まった。つう、と一筋頬に涙がこぼれ落ちたあと、彼女は身を翻してまた走り出す。
行き先は――あの男のところだった。
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