第九章 久遠の呪詛に緑風は打ち勝つ 3

 柚良の手をもすり抜けて走ってきた葛良を、男が腕にかき抱く。彼女の瞳からは完全に光が消え失せていた。だがそれでも柚良は表情を変えず、感情をはらまない声で男へ問いかけた。


「その娘をどうする気じゃ」

「そうだな……まずはその神獣どもの守護壁を消してもらおうか。話はそれからだ」


 くくっと喉を鳴らし、舌なめずりをして男は嗤う。そんな条件を飲んでは駄目だ。そう叫ぼうとした市伊は、振り返って艶やかに微笑んで見せた柚良を見て何も言えなくなった。


(もしも、わらわに何かあったときは――)


 真剣な目をして市伊に頼んだ彼女の顔が脳裏をよぎる。行くな、と言わなかったことをあとで後悔するかもしれない。それでも、彼女の決意を揺らがせるような真似をしたくはなかった。


「……引け、皆の者」

「なりませぬ。元は山に弓引いた者の一味。捨て置けばよろしい」


 無慈悲にそう吐き捨てたのは大だった。紫金と大天狗はじっと黙り込み、成り行きを見守っている。だが印を組む手を下ろそうとしないところを見ると、柚良の命令に従う気はないようだった。


「もう一度だけ言う。紫金、翠鳳、大――


 しゃらり、とかんざしが鳴った。その場全てを制圧してしまいそうなほどの神気が満ちる。その一瞬で彼女の意思が固いことを悟ったのか、神獣たちは渋々といった様子で守りを解いた。


「忠義心のなんと篤いことよ。主の命に逆らってまで主を守ろうとする。なんとも泣けるではないか」

「無駄なお喋りはいらぬ。娘をこちらへ寄越せ」

「はは、守神どのはせっかちだな。そう急かさずとも、ちゃんと渡してやる」


 まるで犬にでもおもちゃを投げ渡すかのようなぞんざいさで、日下は葛良の体を投げて寄越した。その体を大天狗が受け止める。全身に力が入らないらしい葛良は、大天狗の腕の中でうわ言のようになにかを呟き続けていた。


「……め、こ……だ……」


 なんだ、と大天狗が耳を寄せ、柚良と共にその言葉を聞き取ろうとしたときだった。日下がにぃっと嗤ったかとおもうと、印を結んで口を開く。これは罠だ。そう市伊が叫ぶよりも、術の発動の方が一歩早かった。


『かーごめ、かごめ……!』


 どんっという音と共に、力の本流が葛良の体から溢れ出す。どす黒い濁流のような呪詛は大天狗と柚良を絡めとり、中へと閉じ込めた。神獣たちが悲鳴のような雄叫びをあげて三人の元へと駆け寄ろうとしたが、呪詛に阻まれて全く近づけなかった。


『かごのなかのとりは――』


 葛良の声が日下の声に重なり、二つの旋律が術を組み上げる。呪詛は複雑に編み合わされ、半球状の「籠」がぎちぎちと音を立てて出来上がっていく。これが彼女の言っていた「月士の禁術」なのか、と市伊が絶望のうちに呟いた。


 かごめはすなわち「籠目」であり、力あるものを封じ込める術式である。一度完成してしまえば、内からも外からもその術を破ることは容易ではない。山伏天狗たちに授けられた知識を引っ張りだし、なんとか対抗できる術はないかと必死に考えてみたが、術式が完成するまでに術者を害すことぐらいしか思い付かなかった。


(今、俺しかあいつを攻撃できる者はいない)


 自分に何かあったときは、と言い残した柚良の言葉が胸の内に響く。神獣たちは籠目の術式を打ち破ろうと必死で、日下には見向きもしていない。何か武器になるものはないか。そう思ってあたりをみまわせば、大天狗が背負っていたはずの漆塗りの大弓がひとつ地面に転がっていた。


『いついつでやる、よあけのばんに……』


 ごおっという音を立て、天まで届くような赤い焔が籠目を取り巻いた。大きくうなり声をあげて焔が揺らめき、焼き尽くせ、神の社を途絶えさせるのだと声が響く。日下はこの地の全てを滅ぼす気なのだ。そう理解した市伊は覚悟を決めて大弓を拾い上げ、己の腕にはめられた数珠を勢いよく引きちぎった。


「狐の数珠よ。全てを打ち破る力をくれっ!!」


 かつてこれを授けられたとき、命に関わるような呪詛から身を守ってくれる力があるのだと聞いた。それならばきっと、柚良たちを捕らえて苦しめる呪詛も跳ね返せるはずだ。そう信じて数珠へ全霊力を集中させると、ばらけた数珠玉は光の粒子となって一本の矢へ変化した。


(待っていてください、柚良さま……!)


 きりり、と静かに弦を引き絞る。機会はたった一度しかない。ぴたりと矢の先を日下の方へ向けて、大きく息をひとつはく。男の姿は立ち上る炎の渦でほとんど見えないが、まがまがしい霊力のお陰で居る場所は見ずともわかる。むしろこちらの姿が見えない分、好機とも言える状況だった。


『つるとかめがすべった……』


(大城山の生きとし生けるものたちよ。柚良さまをお救いする力をどうか――!!)


 ぎぃん、と空気を切り裂いて矢が放たれた。炎に包まれた籠目に刺さってもなお勢いは衰えることなく、矢は放物線を描いて飛んでいく。


 もっと早く。もっと鋭く――そうひたすら希う市伊の願いが届いたのか、緑の疾風をまとった矢は籠目の力を打ち消しながらまっすぐ進み続ける。やがて天に届くかというほどに高く立ち上っていた炎の渦がまっぷたつに割れ、間から男の驚愕した顔が現れた。まさか自分へ反撃する者がいるとは思ってもみなかったようだった。


「貴様……!!」


 男の顔が憎々しげに歪む。だが、矢を避けられるだけの十分な距離はもう残っていなかった。籠目の術式は最後まで完成することなく途絶え、同時に矢が男の体を貫く。次の瞬間まがまがしい霊力は霧散し、三人の姿が徐々に現れ始めた。


「あと、もう少しだったのに……ッ!!」


 口から血を吐いた男が吼える。全ての力を使いきった市伊は身動きがとれず、膝をつきながら静かに男を見据えていた。


 お前ごときにやられるなど。そう言って最後の力を振り絞り、男はもう一度印を結ぼうとしていた。だが、突如体の中から無数の針のようなものが突きだし、日下の体を貫いた。無惨に砕けて霧散した籠目の呪詛が術者に跳ね返ったのだ。そう市伊が理解した頃にはもう男は馬の背から崩れ落ち、目を見開いて絶命していた。


「柚良さま……っ!!」


 日下が動かなくなったのを確認したあと、市伊は神獣たちと共に呪詛の中心地へと走りよった。全て焼き付くされ、ぶすぶすとそこかしこから煙の上がる地に倒れ伏す三人のうち、大天狗のからだが微かに上下しているのを見てまずは安堵する。葛良は融に、大天狗は大に任せて、市伊は紫金と共に柚良をそっと抱き起こした。土気色の肌は生気を感じさせず、いつも彼女を満たしていた神気は一欠片も残っていない。祈るように、震える手でそっと柚良の頬を撫でる。


(お願いだ、どうか間に合っていてくれ……!!)


 少しでも彼女の力になるよう自分の霊力を注ぎ込みたかったが、先ほどの戦いで全てを出しきってしまったためそれもままならない。力なく体を預ける柚良の体は服の重さしかないのでは、と思うくらいに軽かった。厳しい表情で唇を噛み締める紫金を見て、状況はかなり悪いことを悟る。あと一歩間に合わず、全てを呪詛におかされてしまったのだろうか。そんな最悪の想像をしたときだった。


「……い……」


 微かに彼女の唇が震え、吐息のような言葉が吐き出された。しゃべっては駄目です、と慌てて言い聞かせるようにぎゅっと柚良の体をかき抱いた市伊に、彼女はほんの少し微笑んで見せる。こんなときまで強がって見せなくてもいいのに。思わず胸がつまって何も言えなくなってしまった市伊の頬へ、そっと手が延びた。


「わらわは大丈夫じゃ……ほんの……少し、眠れば元通りになる。だから……そんな顔を、するでないぞ、いちい……」


 ふふ、といたずらっ子のように笑う彼女に、市伊はただうなずくことしかできなかった。神気は枯渇し、立ち上がる力もなく、体は羽のように軽い。彼女のからだの状態全てが、無事ではないのだと言うことを告げている。それでも、彼女のついた優しい嘘を否定することなど出来はしなかった。


「葛良の体に巣食う悪鬼も……籠目の呪詛も、全て消え去った……全て、市伊のおかげじゃ……」

「……もしもの時はあの男を討つ、とあなたに誓いましたので」

「そうじゃな……約束を守ってくれたこと、感謝する、……!」


 言葉を継ごうとした柚良の喉が、ひゅうっと鳴る。後の事は全て任せて、どうか柚良さまはお眠りください。精一杯声が震えないよう抑えながら絞り出した言葉に、こくんとひとつうなずいて。幼子が安心しきって眠りにつくときのように微笑みを浮かべたまま、市伊の腕の中で柚良はそっと目を閉じた。


 遠くの方で、妖たちの勝鬨かちどきがあがる。勝利を祝福するかのように、空の上で数羽の鳶がひょろろろ、と鳴いていた。

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