第八章 臥花の野に赤光は満ちる

第八章 臥花の野に赤光は満ちる 1

 父に見送られ、すぐさま神域へ向かった市伊を待っていたのは、白鹿の大と大鼬の佐井だった。大に導かれて神域に入るなんて、と笑う市伊に白鹿は少し呆れたように角を振ってみせる。全てはあの日、大を追いかけて神域に足を踏み入れたところから始まったのだ。


 峠にある入り口へ立ち、いざ立ち込める濃霧の中へ足を踏み入れようとしたとき。市伊の名を呼び止める者があった。


「――待て! 俺も連れて行ってくれ……!!」


 その声に、市伊はほんの少し緩んだ表情を引き締め、半ば睨みつけるようにして振り返った。今更何をしに来た、と問い詰めたい気持ちを必死で抑え、冷静を装って口を開く。


「何の用ですか、融さん。あなたは別の任務があったはずでは?」

「そんなものは、葛良が俺を遠ざけるための言い訳だ。お前と一緒にいないということは、あいつは神域の中に入ったんだな」

「それがどうかしましたか。全て、あなたがたの作戦どおりなのでしょう」

「ああそうだよ。すべてあいつの作戦どおりだ……!!」


 いつもなら市伊に突っかかってばかりの融は目に見えてわかるほど覇気を無くし、がっくりとうなだれていた。彼がこういう態度を取るのは、これで二度目である。一度目は、彼女が父に連れて行かれたときだ。力を強くするための政略結婚とはいえど、傍目から見ても融は葛良を深く愛し慈しみ、大切に扱っていた。そんな彼女を前置きもなく突然連れ去られた彼はひどく憔悴し、都まで彼女を取り戻しに行くと言っては何度もじじに止められていたのを、市伊はよく覚えている。今もまた、それに劣らぬほどの必死さが彼の顔には浮かんでいた。


「この作戦はもしかして、あなたは賛同していないのですか?」

「けっ。あいつが――葛良が、命と引き換えに神殺しをするのに、誰が賛同なんかするか……!!」

「命と引き換え……まさか禁術でも使う気か?!」

「月士に代々伝わる秘術だそうだ。自分の命を使って封印を施す術らしい」


 だから俺はあいつを止めなければならない、と必死で言い募る融に、市伊の表情が一変した。いくら葛良が有能でも、彼女は「人」である。紫金もいるし、神域は一番柚良の力が強まるところなので「神」である彼女が負けることはまず無いはずだ、と心の何処かで思っていた。


 けれども、誰もがその慢心を持っていたとしたら。たとえば和解をしたと見せかけて、葛良がその禁術を発動させてしまったら――そんな不安が一気に胸のうちで膨らむ。その可能性を否定できない今、一刻も早く柚良のもとへと急ぐ必要があった。


『こいつも……連れて行くのか』

「先に入った女の恋人だ。何らかの抑止力にはなるだろう」

『二人が結託していない証拠は?』

「ない。が、こいつ自身は俺よりも力が弱くてたいしたことはできない。そしてなにより、融は水城神社の次期神主だ。己が弓引いたものが何なのか、見ておくのにはちょうど良い機会だろう」


 鷹揚おうように言い放つ市伊に、大は不服そうに鼻面を突き上げる。こいつの身元は保証すると市伊が言葉を重ねて説得してようやく、大鹿は渋々納得したように引き下がった。いいか人間、少しでも変な真似をしたら踏み殺してやる、と物騒な脅しをかけてから大は濃霧の中へと入っていく。その後ろ姿を追って、市伊と融も霧の中へと足を踏み入れた。


(柚良さま……どうか、ご無事で)


 祈るような思いで一歩ずつ歩を進めながら、市伊は柚良と葛良の対峙する場所へと向かっていったのだった。





 金狐に導かれて神域に足を踏み入れた葛良は、不思議な懐かしさに首を傾げながら歩いていた。何が、と言われればうまく説明ができないが、流れる空気感を知っている、というのが一番近い感覚だった。遠い昔、葛良が身を置き修行をしていた場所――水城神社の一番奥の「夢殿ゆめどの」と呼ばれる聖域に、ここの神域はとても良く似ていた。


「……似ているのは当然じゃ。かつて『夢殿』とここは、一つの場所だった。傷つき彷徨う異形の血が混ざった者たちの安寧のために、山神が分け与えたのが『夢殿』なのだからな」


 麗しく響く、艶めき大人びた少女の声にうっすらと漂っていた霧がさあっと晴れていく。その先に、圧倒的な神気を纏って立っている人影があった。


 凍りつく大地の色を宿した瞳が静かにこちらを見つめている。複雑に結い上げられた烏羽玉の黒髪は玉の簪と白い花で彩られ、それだけでも見る者を圧倒する美しさを放っていた。何より着物の寒椿の赤がたおやかに笑う彼女の輪郭を際立たせ、幼さの残る少女に大人びた印象を与えていた。


「案内ご苦労であったな」


 その言葉にうやうやしく頭を下げた金狐は静かに葛良と距離を取り、女神のそばへとつく。ふるりと身を震わせて人化を解いた神獣は、八尾の狐だった。


「遠路遥々ようこそ、かつて村の娘だった月士よ。ここの空気は懐かしいであろ?」

「……そんなものはもう、忘れてしまった。今ではもう、私は月士の一員だ。こんな村などに、心を残してはいない」

「それは悲しいのう。幼き頃、夢殿でわらわとも言葉を交わした娘が、故郷に弓引く者として戻ってくるとはな」


 くふくふと笑う女神に負けじと葛良は言葉を返す。ほんの少しでも気を抜けばあっという間に膝をついてしまいそうなほど、神気の乗せられた言葉は葛良を圧倒していた。神とはいえど、ここでくじけるわけにはいかない。自分は彼女を「殺す」ためにここへやってきたのだから。そう気を取り直して、必死で自我を保ちながら葛良は女神に向き合っていた。


「都の偉大なる御帝より、あなたに命じます。この山を去り、人の居ない遠くはなれた地へ行きなさい。さもなくば、あなたの命はここで潰えることとなるでしょう」


 近づくことすらままならないほどの神気を身に受けながら、葛良はなんとか歯を食いしばって言い切った。格の違いを見せつけられても、今更引き下がることはできないのだ。葛良の実力と「月士の秘術」があれば、絶対にこの女神を封印することができる。そう言われて、自分はこの地に赴いた。その誇りと任務は月士であればこそ、必ず全うせねばならぬものだった。


「ほう。神を脅すとは身の程知らずな。その身に巣食う悪鬼に、わらわを喰わせでもする気かの」

「これを悪鬼と言うならば、あなたも人の心を惑わせる邪神でしょう。お似合いでは?」

「そうか、わらわは邪神か。勝手に山の神に祀り上げておいて邪神呼ばわりとはまあ、ほんに人間とは身勝手なものじゃ」


 女神の瞳の色がさらに濃さを増す。風など吹いていないはずなのに、着物の裾がはたはたと揺らめいていた。寒椿色の紅を履いた唇が少しばかり釣り上がり、氷の刃のような神気が葛良の体へ突き刺さる。ぜい、とこごる息をようやく吐き出して片膝を付きながら、それでも葛良はひたと前を見据えていた。


「ならば一つ真実を教えてやろう。その悪鬼は、あの男の一族が配下を囮に使うときに身に仕込む術で、秘術でも何でもない悪趣味なものじゃ」

「それがどうした。私はちゃんと認められた月士だ。お前の言うような捨て駒ではない……っ!!」

「いかにも、あの男が言いそうなことだのう。可哀想に……そなたの体は禁術と悪鬼に食い尽くされてぼろぼろになっておる。たとえ任務を終えても、都に戻るまでは持つまいよ」


 哀れみの色を浮かべる女神の前で、葛良はとうとう両膝をついた。体中がばらばらになりそうな痛みの中で、目の前の少女を睨めつける。そんなことはとうにわかっている、と叫びたいのをぐっとこらえて唇を引き結ぶ。父が自分のことをただの駒としてしか見ていないのは、都に連れて行かれたときからわかっていた。


 この身に巣食う悪鬼の呪いは、葛良が里心を起こさぬようにという戒めである。禁術は、一度使えば葛良の命を代償に発動すると言われて授けられた。それでも、たったった一度だけでもいい。父に役に立ったと言われたい。立派な月士になったと認められたい。その一心でここまで来た。今更命が惜しいからと引き下がるわけにはいかなかった。

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