第七章 ゆれる天秤が傾く先は白か青か 3
神域の扉が開く。その気配を察知して、柚良はふわりと大樹から降りた。紫金は何とか間に合ったらしい。同じ血の流れを分けた娘との対峙を前に、柚良は深く息を吐いた。
(彼女は何がなんでもわらわを封じにかかるだろう。おのれの命をかけてでも――)
葛良は敵である。だが、彼女の背負うものの大きさに柚良は同情を禁じ得なかった。自分が過去に大きなものを背負わされたからこそわかる感情だった。彼女も柚良も、身寄りがなく神社で育てられた子供であり、それ故に重責を背負わされた。どこか違う場所で道が交われば、同じ方向を向いて生きていく未来もあったかもしれない。そう思ってしまうほど、柚良は葛良に過去の自分を重ねていた。
神木村を救うためにその身を山に捧げ、人ならざるものになった自分を。あのとき、柚良は嫌だと声を上げることができなかった。共に育ち切磋琢磨して力を磨きあった次期神主の明日葉といずれは夫婦になり、神社を、ひいては神木村を支えていくのだと、そう信じていたのに。その願いは、柚良を山神にと望む大人たちの手で粉々に砕かれたのだ。
ゆるりと目を閉じると、今でも鮮明に思い出せる記憶がある。もう何百年も前のことなのに、その声も、姿も、ずっと覚えていた。
柚良が山へ捧げられる前夜。精進潔斎のために人と会うことを禁じられ、柚良はおろしたての布団に座って眠れない夜を過ごしていた。縁も少なく別れを惜しむほどの人もほとんどいなかったが、明日葉と別れの言葉をかわせなかったのが唯一の心残りだった。柚良にとって彼は想い人であり、たった一人の家族であった。
己の体を包む真白い衣装の重さにため息を付き、そっと目を閉じる。横になれば衣装に皺が寄ってしまいそうで、少しうたた寝をするのがせいぜいだった。明日は大変な儀式になるから少しぐらいは眠らなければと自分に言い聞かせて、柚良は眠りの中へと意識を溶かす。修行の一環で何日も横になれないことはあったので、座ったまま体を休めるのはそこそこ得意だった。
『……ら、ゆら……』
どれぐらい眠った頃だっただろうか。水面に投げ入れられた小石のように、凪いだ意識に波紋を起こす声があった。せっかく眠っていたのに、と文句を言おうとして、柚良は自分を呼ぶ人の正体に気づく。たったひとり、力のある巫女ではなく「柚良」として自分を見てくれるひとが目の前にいた。
『
『どうしても、最後に君に会いたかったんだ』
だから夢渡りの術を使ったんだよ、と言われて、柚良はそっと微笑んだ。最初に彼と出会ったのも、夢の中だった。
力をうまく制御できず、あの世とこの世の狭間にある
そうして十歳になったとき、柚良は明日葉の許嫁となった。異形の力を強くするため、代々神主となる青年は村で一番力の強い巫女を娶る、と言う掟により定められた婚姻を柚良は喜んで受け入れた。人目を忍ばず彼に会いに行けるのが、何より嬉しかったのだ。その婚姻は柚良が山に捧げられることが決まって破談になってしまったが、最後にまたこうして夢の中で出会えたこと、彼がわざわざ夢を渡ってきてくれたことがとても嬉しかった。
『ごめんね、柚良。君をこんな目にあわせたくはなかったのに……』
『いいの。山の神様に誰かがならなかったら、村のみんなが大変なことになるのよ。こんな私でも役に立てるなら、喜んでいくわ』
(……嘘。本当は怖い。山神になんてなりたくない。ずっと明日葉のそばにいたい)
正反対の言葉を飲み込んで、柚良は毅然と微笑んでみせた。今ここで彼に本音を言っても、何も変わらない。彼の心の中に抜けない棘を残してしまうだけだ。それならば、最後までいい思い出だけを残して終わりたい。みっともない姿は見せたくない、その矜持だけで柚良は心を強く持つことができた。
『明日の儀式は僕も補佐をする。村のために……ありがとう』
『私は山で神木村を守るわ。あなたが村を守りやすくなるように』
『僕も毎日祈りを捧げるよ。神木村に――大城山全域に君の守護が行き渡るように』
柚良と明日葉の視線がそっと絡み合う。一瞬だけ柚良は明日葉へ手を伸ばしかけて、慌ててすぐに引っ込めた。たとえ夢でも、決して人に触れてはいけない。現世の
『……そろそろ行くね。君に穢が移ってしまう前に』
『ありがとう。私、あなたのそばに居られて幸せだった』
『柚良、覚えていて。いつか……いつか絶対、君のそばに行く。今生は無理でも、生まれ変わってもう一度君に会いに行くよ――……』
明日葉の姿が光に包まれて、どんどん輪郭がぼやけていく。それと同時に声が遠ざかり、つかの間の逢瀬は終わりを告げた。意識が急速に引きずられ、現実に戻される。最後の明日葉の言葉だけが、いつまでも胸の中に残っていた。
ほたり、ほたり、頬を伝う涙が白い衣装を濡らす。彼の言葉が。いつかまた会いに行くよ、と言ってくれたことが何より嬉しかった。人ならざるものになる柚良は
そうして今までずっと彼を待ち続けながら、柚良は山神として神木村を、大城山を守ってきた。彼が亡くなったあとも子孫たちに祀られ、祈りを糧に守護を敷き、幾度となく侵攻をはねのけてきた。だんだんと祈りが減り、子孫たちの力が弱くなっても、その守護を緩めることは一度もなかった。
市伊に出会ったのは、柚良が半ば明日葉の生まれ変わりに出会うことを諦めていたときだった。子孫たちの力は以前に比べて格段に弱くなり、普通であれば適度な年齢で代替わりをするはずの神主の座はいつまでたっても代替わりしない。現神主に理由を問えば、子供も孫にも神主の座を務めるだけの力がない、という。孫を力のある巫女と結婚させて子を産ませるか、数代前の巫女の子孫で力に強い子供がいるからそちらに神主の座を譲るか。そう悩む神主の言葉に、もしかしたらもう明日葉が生まれ変わったとしても柚良と言葉を交わすだけの力はないのかもしれない、と思った。
そんなとき、市伊に出会ったのだ。もともと大天狗に人との間にもうけた子がいる、ということを聞いてはいたものの「神木村の人間」という以上の認識はなかった。だが彼と出会ったとき、直感的に一度きりの邂逅だけで終わらせたくないと思った。なぜ自分がそうしたいと思うのかもわからないまま、何度も市伊に会い、言葉を重ねるうちに柚良はある一つのことに気づいた。
彼は明日葉の生まれ変わりではないか――いつしか、そんな思いが胸の内を占めるようになった。なにとも分け隔てなく接する姿や、ひたむきに柚良を守ろうとしてくれる態度の端々に、明日葉の面影が見えた。声も、姿もにていないはずなのに、まるで明日葉がそばに居てくれているような感覚になるときさえあった。
生粋の「神」であれば魂の色や気配で彼が生まれ変わりかどうかわかったのかもしれないが、人からなり上がった神である柚良は輪廻転成に関わることは全く視えない。そのため彼が本当にそうなのか判断する術はなかったが、気のせいだと片付けるには難しいほどに似ている部分が多かった。
一度気づいてしまえば、どれだけ市伊は明日葉ではないと自分に言い聞かせても、彼への想いは日々募るばかりだった。自分が抱くのは明日葉への想いなのか、市伊へのものなのか。決着がつかぬままこの日を迎えてしまったことが、なにより柚良の心残りである。
「すまぬな、市伊……わらわが、不甲斐ないばかりに……」
ゆるく吐き出す息に合わせて吹いた風に、白花が揺れる。その甘い香りを胸いっぱいに吸うと、少しだけ高ぶっていた気分が落ち着いた。柚良の神気を受けて美しく咲き誇る白の山梔子は特別で、時期に関係なく常しえに咲き続ける花である。よく明日葉が一枝とってきて送ってくれた花を忘れることができず、彼を偲ぶ
(戦いが終わったら、この想いにも決着をつけねばならぬな……)
彼は人ならぬ柚良と違って、徒人である。時間の流れが異なる自分の勝手な想いによって、いつまでもこちら側へ縛り付けてはいけないのだ。人には人の幸せがある。彼の幸せは柚良の傍には無い、ということは分かっていた。
柚良が想うひとが市伊自身であったとしても、傍にいることを願ってはならない。かつて明日葉と別れた時のように。柚良はただ、彼の幸せを願うことしかできないのだ。そう自分に言い聞かせて、柚良は胸を焦がす痛みに気づかないふりをした。
胸の内にくすぶる思いを断ち切るように、白花に手を伸ばして枝をぱきり、と折り取る。甘く香る花にそっと口づけてから髪にさし、柚良は神域の入口のほうへと向き直った。金狐に導かれて霧の奥から現れる少女を待ちながら、遅れて神域に入ってきた気配にかすかな笑みをこぼす。決して手を伸ばしてはいけないとわかっていてもなお、彼が柚良のために葛良を追ってきてくれたことがただ嬉しかった。ほんのひとかけらでも、自分にとってそうするだけの価値があるのだと。そのことを知れただけでも幸せだった。
「――葛良。哀れな娘よ……せめてその悲しい運命をわらわの手で終わらせてやろう」
すう、と深呼吸して大地の瞳の色を濃くした柚良は、鋭く霧を見据える。ここに立っているのはもはや「南木柚良」ではなく、大城山を守護する神である「
大城山を、そして神木村を護るため、柚良は幾度となく戦ってきた。「人」に「神」が負けることはあってはならない。その力の差をとくと知るが良い、と桜色の唇を釣り上げて柚良は笑った。
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