第三章 紫紺の闇に浮かぶ星は揺れて 4
「それでは、そろそろ本題に入りましょう。決して昼間のお礼を言うだけに、あなたを呼びつけたわけではないのよ」
ひとしきりついたあと、すっと表情を引き締めた紫金はこう切り出した。切れ長の紫の瞳は濃さを増し、真剣みを帯びている。それに追随するように柚良も厳しい表情へと変わり、少しうつむきながら話し始めた。
「市伊、今回の罠について何か気付いたことはあったかの?」
「普通の罠でないことは分かりましたが、それ以外はなんとも。ああでも、確か天狗たちが《神獣捕らえの罠》だとか何とか言っていたのは聞きましたけど」
「ふむ……」
市伊の答えに、柚良はしばらく考え込むそぶりを見せる。口を開こうとしてはやめ、思案することに戻る。言うべきか、言うべきではないか。そんな風に思い悩む表情がありありと見てとれる。
「柚良。これは、隠しておける問題ではないのよ。いずれ彼も知ることでしょう。それにわたくしたちのことが知られれば、更なる危険に晒してしまうかもしれないわ」
「そうじゃが……これ以上市伊を巻き込んでは……」
「先ほども言ったでしょう? あなたが市伊を特別に扱っている時点で、この人間はもう巻き込まれているのよ。もしも彼を危険な目に合わせたくないのならば、巻き込んだあなたがあいつらから護るべきだわ」
ぐずぐずと迷う姿勢を見せる柚良に、紫金は厳しい言葉を矢継ぎ早に述べた。問題だの、危険だのという物騒な単語が飛び交っているところから推測するに、何か良くないことが起こりつつあるらしい。そして、おそらくそれは昼間の罠の一件に端を発している。 そんなことを考えていると、紫金の言葉に黙り込んだ柚良が面を上げた。揺れる瞳はまだ話すことをためらっているようだったが、ややあってゆっくりと口を開いた。
「まずは、罠のことから話そうかの。あれは市伊もきいたとおり、《神獣捕らえの罠》じゃ。何者かが、この山の神獣を捕らえようと罠を仕掛けた。何の意図を以ってかはわらわにもわからぬが、もしも本気で神獣を捕らえようとしているのならば一度や二度の失敗ではめげず、手を変え品を変え神獣を捕らえようとするだろう」
そこで柚良は一度言葉を切った。深く深呼吸して、次に話すべき言葉を探すかのように目をさまよわせる。一瞬だけ市伊と柚良の視線が交差したが、あっという間に逸らされた。傍らにたたずむ紫金は黙って柚良の言葉を聞いていて、あくまでも彼女に話させるつもりのようだ。
「しかし、この山の神獣たちはたやすく罠などに掛かりはせぬ。唯一掛かってしまう可能性を孕むものが紫金の息子だったのだが、それは市伊が今日の昼間に助けてくれた。故に、彼らがこの山の神獣たちを捕らえられる可能性はぐっと少なくなる。そうなれば、次に彼らはどのような手を使ってくると思うかの?」
今度は逸らされることのない、まっすぐな瞳が俺を見据えた。柔らかな大地の色をした双眸には、深い悲しみと焦り、そして怒りの色がない交ぜになって浮かんでいる。神獣を捕らえんとする者たちが次に取る手段。罠は失敗してもう使えない。一度罠に掛かった獣は疑り深くなり、二度と同じ罠には引っかからないからだ。しかし、壊れた罠を見た者は考えるだろう。どうして一度罠に掛かった獣はこの罠を抜け出せたのか、と。神獣の力を完全に封じ込められるだけの力を持っている術者なら、罠に残った痕跡を読んで状況を把握することも可能かもしれない。そうして、もしその罠にかけられた術を破ったのが人間だと分かれば、どうするだろうか。
「――俺を利用する、ですか?」
その答えを聞いた途端、柚良の表情が大きくゆがんだ。紫金は否定も肯定もせず、ただ黙ってその様子を見守っている。二人の様子に、先ほどの答えが正しかったことを悟った。
「おそらく……そうなるはずじゃ。そなたを囮にするなり、後をつけるなり、必ず接触を持とうとするだろう」
「俺はそんな奴らに協力するつもりは全くもってありませんが」
「それはわらわもよくわかっておる。じゃが、家族を盾に取られたとしたらどうじゃ? 従わねば村人を皆殺しにする、といわれたならどうする? 情に厚いそなたのこと、決して見捨てられはしまい」
静かに告げられた言葉に、後頭部を殴られたような衝撃を受けた。何か言おうと口を開いたものの、何も言うことが出来ない。否定しなければいけない、頭の中ではそう思うのに、いつまでたっても否定の言葉は紡げないままだった。家族を――瑞季を盾に取られたら。早くに親をなくした自分たち兄妹を温かく受け容れ、ことあるごとにたくさん手助けをしてくれる村人たちを殺すといわれたら。きっと、自分は従ってしまうだろう。市伊にとって、それは生きていく世界を失くすも同然のことだった。
「心配せずとも、市伊を責めることはせぬ。そなたは人間で、わらわはこの山を護る神だ。生きてゆく世界も、流れる時間も全て違う。どうして、わらわたちのために全て犠牲にしろなどと酷な事が言えよう」
答えに窮する市伊に向かって柚良は首を振る。柚良の頭に挿された簪がしゃらしゃらと音を立てた。面は伏せられていて表情はほとんど見えなかったが、告げた言葉とは裏腹に声は泣いているように聞こえた。それでも、市伊に出来ることはただひとつ、柚良の力になれないことを謝るだけだった。
「すみません……柚良さま」
「そなたが謝ることではない。それに、まだそうなると決まったわけではないからの。用心と覚悟はするに越したことがない、ということじゃ」
「ええ、そうね。わたくしたちも、そうならないように出来るだけのことはするわ」
あわてて湿っぽい声を打ち消してあくまでも可能性だと言う柚良の言葉に、紫金がそう付け加える。まだ、決まったことではないから。その一言が気休めだということは分かっていても、安堵せずにはいられなかった。なんだかんだで、柚良やこの山に暮らすものたちと過ごす時間は嫌いではなかった。すくなくとも、家族や村人か、この山かどちらを取らなければいけないという選択を突きつけられて、答えに窮してしまうほどには、市伊の中で存在が大きくなっていた。
「わかりました。出来るだけ気をつけるようにします。俺のほうからも、何かあれば知らせるようにしましょう」
「市伊……」
「まだそうなると決まったわけじゃない、のでしょう? どっちにしろ山に薬草を採りに来なければ、生計が立てられなくなるんです。だから、山に来なくなったりはしませんよ」
なんともいえない顔で見上げる柚良にそう言って笑いかけると、彼女はぐっと何かをこらえるように唇をかみ締める。
そうして――泣きそうな顔は次の瞬間ふわりと笑み崩れた。
ああ、俺はこの表情が好きなんだ、と市伊は思った。柚良のくるくる変わる表情は見ていていつも飽きなかったが、一番好きだったのは大輪の花が咲き零れるような笑顔だ。彼女に逢えなくなったら、それはもう見られなくなる。だから、できれば二つとも護りたいと思った。
「二つとも護るのは難しくてよ、市伊。あなたには、それが出来るの?」
「出来るとは言いません。でも、覚悟は決めました」
「そう。ならば、しっかりおやりなさいな」
柚良とのやり取りを見守っていた紫金にそう問いかけられて、迷いなく市伊は答えた。出来るかどうかはわからない。でも、何もせず最初から諦めるのもいやだった。
紫金はどうやらその答えに満足したらしく、ようやく今まで浮かべていた厳しい表情をといて柔らかく微笑む。そうして唇に手を当てたかと思うと、ひとつ、ふたつ、みっつ……合計九つの狐火を吐き出した。
「あなたの覚悟に敬意を表して、わたくしからはこれを授けましょう。さあ、手をお出しなさいな」
「これは……?」
「狐火の数珠よ。一度だけしか効果はないけれど、きっとあなたを助けてくれるわ」
吐き出された狐火はあっという間にしゅるしゅると縮み、一列に並ぶ。言われたとおりに手を差し出すと、紫金の指が手首のまわりを一周する。するとその動き通りに一連に繋がった狐火が輪を描き、手首の大きさぴったりの数珠が出来上がった。
「ならば、わらわからはこれを」
紫金に追随するように進み出た柚良はそう言って、自らの髪に手をかけた。一体何をするのかと見守っていると、おもむろに髪を二、三本引き抜き、狐火の数珠と同じように市伊の手首へと巻きつける。そうして、彼女の唇から
『玉の緒を
柚良の言葉に合わせて、ひとつずつ狐火がぼうっと輝く。言霊の終わりに彼女の指がそっと数珠へ触れると、美しい黒髪は青白い光の中に溶けていった。
「これでよい。見た目にも、ただの数珠と変わらぬが、たとえ力ある術者がそれを見たとしても、人外の者が授けたとは気取られぬはずじゃ。安心して身につけておくことが出来よう」
「ありがとうございます、柚良さま、紫金どの」
左手にはめられた数珠をぎゅっと握りしめ、言い尽くせぬ感謝の言葉を言う。礼を言われた二人はただ黙って頷いた。よくよく考えると危機に晒されているのは彼女たちのほうなのに、それを差し置いて一介の人間を救うために尽力してくれる。狐と女は情が深い、とはよく聞く話だが、彼女らもまた自分の存在をそれなりに大切にしてくれているのだ、ということが嬉しかった。
「さて、夜も更けてきた。そろそろ帰る時間じゃ。わらわの風と紫金の狐火で送るゆえ、家に帰るがよいぞ」
「お心遣い、感謝します」
「わらわたちが勝手にそなたを呼び出したのじゃ、それくらいせぬと罰が当たる」
至れり尽くせりに恐縮して礼を述べると、柚良は少しいたずらっぽく笑いながら言霊を紡いだ。いつもは勝気な少女だが、それなりに殊勝な面もあるらしい。それに気付いた市伊は思わずほほえましさに笑ってしまったが、彼女の起こす風は天狗ほど荒っぽくないにしても少々心構えが必要なことを思い出し、つられて笑うのもほどほどにして表情を引き締めた。
「それではまたお会いしましょう、柚良さま」
風が渦を巻く。最後に見たのは、市伊の言葉に嬉しそうに頷きながら手を振る柚良の姿だった。
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