第九話 10円玉

「やだ、パパが仕事に行くのやだ!」


「楪ちゃん、ダメだよ、わがまま言っちゃ」


「楪、パパとずっといたいもん!」


「楪……」


 胸がじーんと熱くなった。


 楪の言葉がずしんと俺の胸の奥底を貫いた。


「俺、有休取ろうかな」


「バカ言ってないで、早く仕事に言ってこないかなー」


 意地悪モードの愛だ。


「ずるい! 楪を独り占めするつもりでしょう!」


「うふふ」

 

 愛は返事の代わりにくすくすと笑った。


「……行ってきます」


「やだ! 楪も仕事いく!」


「楪ちゃんにはまだ早いわよ? パバ、行ってらっしゃい~」


 楪が2歳になってから、こういう朝のやり取りは日課となった。




 そして、月日が経ち、楪の3歳の誕生日当日になった。


「今日は楪の誕生日なのだ!」


「はいはい」


 はしゃいでいる楪を愛が優しく宥める。


 家のあっちこっちを走り回る楪の姿を見ると、愛しさが胸から込み上げてくる。


 楪の存在は俺と愛にとっての幸せの象徴なのだから。


「ママ!」


「はーい」


「ずっと思ってたんだけど、このタンスにあるたくさんの10円玉ってなに? これで新しい家を買うの?」


「買いません。楪が産まれた後に買ったばかりだから」


 愛はすっかり母親になっていた。


 楪の天真爛漫な質問に、愛が真面目に答える姿は様になっている。


「じゃ! じゃ、これってなに? 何買うの?」


「何も買わないかな」


「ちょきんってやつ?」


「うーん、ちょっと違うかな」


「もう、楪分かんないよ!」


 愛の煮え切らない返事に業を煮やしたのか、楪はとうとう拗ね出した。


「もう、ママのバカ、けちんぼ!」


 どこで覚えたのか、楪は精一杯愛のことを責め出した。


「分かったから、もうママのこと悪く言わないで?」


 愛娘の悪口が応えたのか、愛はついにお手上げだ。


「それはパパがママに払ってる給料だよ?」


「きゅうり?」


「きゅうりじゃなくて給料、えーと、ママが働いたからパパがご褒美をくれたみたいな感じかな」


「なんで、パパがママにご褒美あげてるの?」


 愛は微笑んで、視線をこっちに向けた。


「それはね、パパがママを彼女とした雇ったからだよ?」


「やとった? 楪分かんない!」


「分かんなくて当然か。ママにも正直分からない」


「なにそれ!」


 楪はぷぅと頬をふくらませて、不満をあらわにした。


 愛の説明に満足していないみたい。


「うーん、困っちゃったわね。えっと、理由はうまく説明できないけど、ママにとって、この10円玉たちはパパからママへの愛情だよ?」


「愛情!」


 「愛情」と聞いて、楪の目はキラキラしだした。


「パパ、楪にも愛情ください!」


 楪はそう言って、布団の上に横になっている俺のお腹の上に乗っかってきた。


「分かった。楪のお願いは断れないもんね」


「えへへ」


 楪の笑う顔は愛にそっくりだ。


 そう思うと、また胸が愛しさでいっぱいになった。


 上半身を起こして、ゆっくりと、そっと、俺は楪の額にキスをした。


「これでいかがですか? お嬢様」


「悪くないのだぞ!」


 楪は満足そうに腕を組んで、頭を仰向けた。


 うちのお嬢様はどうやらすごい偉いようだ。




「ご飯できたわよ~ パパ、ケーキ出して?」


「分かった」


 予約していたケーキを取りに行ってきたら、愛は晩飯を作っていた。


 帰ってきたら、楪は俺の周りをぐるぐる回っていた。


「いちごの味だ!」


「まあ、高めのケーキだからね」


 奮発して、新鮮ないちごをたっぷり使っているケーキを作ってもらったからね。


 何せ、愛娘の一年に一回しかない誕生日なのだ。


 箱ごとケーキを食卓の上に置いて、寛いでたら、ご飯が出来上がったみたい。


 箱を開けて、ゆっくりとケーキを出す。


 生クリームがたっぷり塗られていた。


 俺と愛は苦手だけど、楪は大好きみたい。


 そういえば、小さい頃は、俺も生クリームのこと好きだったな。


 それが苦手になったのはいつだろう。


 ふとそういうことを考えてしまった。


「やいやい、生クリーム!」


「ママが料理持ってくるまで待っててね」


「はーい!」


 元気に返事する楪。


 今日が自分の誕生日みたいに嬉しい。


 いや、自分の誕生日より遥かに嬉しいか。


 しばらくして、食卓は美味しそうなご馳走で満たされていた。


 愛はもともと料理上手だったけど、結婚して専業主婦になってからより腕に磨きがかかっていった。


「はい、楪ちゃん、ママからの誕生日プレゼントだよ」


 愛が楪に渡したのは綺麗に畳まれているピンクの洋服だった。


「ありがとう! ママ!」


「やはり女の子は服だよね~」


 そう言って、愛はちらっと俺の方を見た。


 どうだ? 私のプレゼントのほうが凄いだろうって言わんばかり。


 俺はもう大人だから、そんな挑発には乗らない。


「これ、パパからのプレゼント」


「えっ? ありがとう! パパ」


 楪は俺のあげた綺麗な腕時計を付けて、手をブンブンと振っていた。


 ちらっと視線を愛の方に寄せる。


 勝った。


「ううっ……」


 軽く唸る愛。それがほんとに可愛らしい。


「ママ、これはママへのプレゼント」


「えっ?」


 愛の手を引いて、楪と同じデザインの腕時計を愛の腕に付けた。


「……なんで?」


「楪の誕生日ってのは、愛が1番頑張った日でもあるから……」


 ほんと、3年前のこの日は、愛が頑張ったから、こうやって楪がいるわけで。


 だから、この日は俺にとって、愛にもプレゼントをあげないといけない日になっている。


「……ありがとう、パパ」


 愛は腕時計を見つめたまま、目が少し潤んできた。


「もう、パパとママだけがイチャイチャしてずるい! 今日の主役は楪なんだから!」


「あっ、ごめんね、楪」


「楪ちゃん、これもプレゼント」


 そう言って、愛はポケットから10円玉を綺麗な糸で紡いだペンダントを楪の首につけた。


「ママ、これって?」


「パパとママからの楪への愛情だよ」


 楪は10円玉を握りしめてえへへと笑っていた。


 そんな楪を見ている愛も幸せそうに笑った。

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