第八話 出産
1秒が永遠のように感じてしまう。
愛の手を握っている俺の左手は彼女の爪によって、いく筋かの赤い痕が刻まれた。
それでも分かっている。
愛の方がずっと痛くて、辛いって。
分娩台の上で苦痛にも悲鳴にも似た声をあげる愛。
聞いていて、何度も心が抉られるような感じがした。
看護師さんは休まずに愛を励ましていて、額に汗を垂らしている。
父ちゃんと母ちゃん、お義父さんとお義母さんは分娩室の外で待っていて、その心中も穏やかではないことは容易に想像出来る。
だから、安心して生まれてきて……俺と愛の愛する子供。俺たちの娘。
心の中で時間を数えては、愛の痛みによる悲鳴を聞くとそれを中断して、強く愛の手を握る。
看護師さんは俺の血痕だらけの左手の手の甲を手当てしたいと言ってきたが、断った。
今は自分自身のことより、愛のこと、子供のことが全てだから。
もう何時間経っていたのだろう。
今が昼なのか夜なのかすら分からない。
病院から電話が来て、急いでタクシーに乗り、そのあとはどうだったっけ。
意識は朦朧としていく。
手の甲に新しい傷が出来ても、その感覚は鈍化した。
でも、俺の心臓はいつもより早く鼓動していて、俺の覚醒を促している。
もう一方の手で胸に当てたら、情けなくなった。
俺の心臓はこんなにも頑張っているのに、なぜ自分だけ楽になろうとしたのだろう。
愛がこんなにも頑張っているのに、なぜ自分だけ意識を失いそうになったのだろう。
バシャっと自分の頬を思い切り叩いた。
すごく痛い。
でもこれで目が覚めた。
俺は愛のそばで頑張らなきゃいけない。
それは夫の責任であり、子供のパパの責任でもある。
愛の叫び声が徐々に落ち着いてきて、張り詰めていた神経は少しだけ癒しを得た。
しばらく経ち、それが浅い呼吸音となった。
「産まれました! 母娘とも無事です! おめでとうございます! よく頑張りました!」
それから30分後の先生の言葉で、体から力が抜けていき、緊張が解けたのだ。
俺と愛の子供が産まれたのだな……ようこそ、パパとママのもとへ。
「……あなた」
それから2時間くらいが経ち、昏睡していた愛が目を覚ました。
愛が寝ている間も、俺は愛の手を離そうとしなかった。
右手を看護師さんに念入りに消毒してもらってから、俺はずっと俺と愛の赤ちゃんの小指を軽く握っていた。
あーあーと泣いてる俺たちの娘の泣き声は天使のように聞こえる。
「……ごめん」
俺の手の甲の血痕を見て、愛はなぜか謝った。
「なんでよ、はは」
苦笑いして、俺は愛にベッドの隣の娘の入っているゆりかごを指さした。
「愛と俺の娘だよ」
気のせいか、愛に見られた瞬間、娘の小指が一瞬動いたような……
「しくっ……」
愛はしくしくと泣き出した。赤ちゃんを見つめたまま。
これは紛れもなく、母親が子に向ける愛情溢れる視線そのものだった。
愛は手を俺たちの娘の空いてる方の手に伸ばして、俺と同じように娘の小指を軽く握った。
「……あたたかい」
「うん、とても暖かいよ。俺たちの娘だから」
「……うん」
「あなた……いや、もうパパか……パパ、この子の名前、もう教えてくれてもいいでしょう?」
「うん」
俺はこの瞬間まで愛に子供の名前を教えていなかった。
理由はなんとなく。
なんとなく今のタイミングがいいと思ったから。
「
「ゆずりは?」
「うん、花の名前でもある」
「そうか、楪ちゃん、ママだよ……」
気のせいか、楪は一瞬だけ泣き止んで微笑んだような気がした。
「理由を聞いてもいいかな」
「名前の?」
「うん」
俺は少し溜め込んで、楪の名前を決めた理由を話し出す。
「花言葉ってあるでしょう?」
「うん」
「ピンクのガーベラは『感謝』で、赤いガーベラは『愛情』」
「……」
「アネモネは『君を愛す』という意味で」
「……」
「アカネは『私を想って』なんだ」
「私の夫はいつの間にロマンチストになったのかしら?」
「あはは」
愛に言われて苦笑いした。
確かに、女の子と聞いて花から名前をつけようと思ったのは少し安直だったのかもしれない。
「フジは『決して離れない』で、キキョウは『永遠の愛』。どれも素敵で決められなかった」
「それで、なんで楪になったの?」
愛の質問に、俺は愛の手を握っている左手をそっと離して、空中で線を描いた。
「でもね、どれも物足りなかった」
「……」
愛は何も言わずに、ただ空中で揺蕩う俺の手を見つめていた。
「楪の花言葉は『若返り』、『世代交代』、『譲渡』なんだよ」
「私たちの子供だから? 親としての愛情を注ぐから?」
「ううん、一応それもあるけど」
「けど?」
「こういう解釈の仕方もあってもいいんじゃないかなって思って。『命の続き』。楪は俺と愛の命の続きなんだよ」
そう言って、俺は空中をさまよっていた手を改めて愛の方に差し出した。
愛は俺の手を取り、握ってくれた。
「表現が下手くそ……」
予想していなかった愛の言葉に、俺は驚きで何度も瞬きした。
「『命の続き』はこうやって表現するんだよ?」
愛は上半身を起こして、楪のほっぺにゆっくりとキスをした。
「バトンタッチだよ?」
「あはは、確かに愛の方が上手いな」
俺が空中に描いた延々と続いた線より、何百倍も何千倍も愛の表現の仕方のほうが上手かった。
「……楪、これからは、ママとパパがあなたを守るね」
愛の言葉を聞いて、気づいたら涙が止まらなくなっていた。
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