第7話
それからも相場は荒れに荒れ、暴落が終わって大反発したと思ったらまた大暴落をして、また暴騰してを繰り返していた。きっと中学生の時の実力も無いのにイキった私なら機会損失を気にして相場の荒波に揉まれに行っていただろうけど、今はあの頃に比べたら性格も丸くなったし、相場にいつまでも噛り付いている余裕も無くなったので地道に積み立て投資と暴落時のスポット買い増しくらいに留めている。バーゲンバーゲン♪
だけど経験の浅いカレンはそうも行かないようで、暴落の度に恐怖に駆られたような様子で、会社でも時折うなだれていた。そんな日の夜はカレンの部屋を訪れ、優しくハグして落ち着かせ、カレンが私に腕を廻し、手を絡ませ、唇を重ね、肌を合わせ、朝を迎える。
そんな日々を半月ほど過ごし、私たちの間に暴落という言い訳が不要になった頃、相場も落ち着きを取り戻したのか値動きが緩やかになっていた。カレンの腕に包まれ気を遣った余韻に浸っていると、満足気な顔だったカレンの顔に不安が混じっていた。
「そういえばルナちゃん、投資信託が含み損のままなんだけど、ずっとこのまま何てこと無いよね?」
「うーん、どうだろうね。今回は世界情勢の不確実性が何個も同時に重なって起こった暴落だったみたいだし、この状況が解消されるまでは数年以上かかるんじゃないかな」
私が思っていたことを何も考えずに言うとカレンの表情がより強く曇っていった。あれ?何かマズいこと言っちゃった?
「そうなの?投資で儲けたお金でルナちゃんに恩返ししようと思ってるのに、数年も先になっちゃうの?そんなに待てないよ……」
「カレン、何度も言ってるけど、投資は自己責任なんだから勝った分も自分のために使いなよ」
「自己責任なんだったら儲けた分を何に使っても私の勝手でしょ?私が私のために、ルナちゃんにお礼をしたいの」
カレンが膨れっ面になっている。カレンってこんな表情もするんだな。また新たな一面を見つけられて嬉しいな。
「カレン、お礼って言うと聞こえは良いけど、まるで借りを返すみたいじゃない?借りを返してはい終わり、みたいな?カレンと私は貸し借りのドライな関係じゃなくて、与え合い受け取り合う、見返りを求めない繋がりだと思ってるんだけどな」
「見返りを求めない……か。そうだね。ルナちゃん、ありがと。だったら儲かったらお礼じゃなくてわたしの祝勝会に付き合ってね」
「うん、それなら良いよ。楽しみにしてるね」
カレンの表情に笑顔が戻ってきた気がした。腕を伸ばして頭を撫でてあげると嬉しそうな顔をする。かわいい。
「まぁ、カレンの投資信託の含み損が消えて含み益に変わるのは数年もかからない、割かしすぐだと思うよ」
「そうなの?ルナちゃんがそう言うんだったらそうなんだろうけど、どうしてそう思うの?」
「人間って奴はしぶといからだよ。さて、今度はこっちの番だよっ」
「ルナちゃん、待って、それってどういう……んっ――」
―――
――
―
時は過ぎ、道端に残っていた雪も融けてなくなりかけた頃、カレンと私は夜景が一望できるホテル最上階のレストランを訪れていた。ちんちくりんで地味な自分には場違いなところだけど、今日は華やかなカレンの付属品なんだから大丈夫のはずだ。
「ルナちゃん、綺麗……」
「そうだね。流石に駅前だと普段の山奥とは違ってちゃんと綺麗な夜景があるね」
「うぅん、そうじゃなくて、ルナちゃんが綺麗過ぎて……」
「ふふ、お世辞でも嬉しいよ。ありがとう。カレンも良く似合ってるよ」
「もぅ、お世辞じゃないのに」
私はネイビーのワンピースタイプのドレスにベージュの長袖ボレロを合わせた簡単な装いなのに、そんなことを言われると照れちゃう。まあこのドレスも私の大胸に合わせて立体裁断してもらった特注品でスッキリして見えし、いつものボブカットをヘアゴムで二つ結びにした少女スタイルじゃなくてアップにしてるし、普段はしない化粧もしてるし、いつもと雰囲気違ってもおかしくないかな。
てっきりカレンは自分の華やかさに負けないような真っ赤なドレスでも着こなしてくると思ってたけど、白のブラウスに朱色でフレアのロングスカートと少し控えめだった。白も朱色もカレンのイメージにピッタリだし、肌の露出が少ないのも私好みなんだけどね。
「それにしてもカレン、今日はありがとうね。こんな良いところご馳走になっちゃって」
「ううん、わたしの祝勝会に付き合ってくれて、こちらこそありがとう。ルナちゃんの言った通り、あんなにあった含み損がいつの間にか消えて暴落前よりも儲かっちゃったんだもん。嬉しくってね」
席に通された私たちはノンアルコールで乾杯をした。きっとこういうところの料理はお酒が飲めたらもっと楽しめるんだろうけど、お互い苦手だし仕方ないね。私の場合は頼んだら身分証を求められたかもしれないけど。
「これからもっと上がりそうだったのに、カレンは勿体ないことしたかもね」
「そんなことないよ。投資で儲かったら早めにこういうのをしておきたかったんだ。モタモタしてたら投資が日常になっちゃって、祝勝会なんて発想自体が無くなっちゃう気がしたからね。チャンスはお金じゃ買えないよ」
「お、カレンさんも言うようになりましたねぇ」
「ルナちゃんのせいだよ。わたしがこうなっちゃったのは」
そう言われると何だか悪いことをしてしまった気がしてくる。確かにお金が必要になった時に必要な金額分だけ利益確定するのは積立投資の出口戦略としては間違ってはいない。カレンと過ごして来たどこかでポロっと出ちゃったのかな。色々教えるというか、思ったことを都度言って来たからな。
「そういえばどうして暴落前よりも儲かったんだろう。まだわたしの買ってる株価指数も、投資信託の基準価額も暴落前のところまで戻ってないんだけど」
「それはカレンが積立投資をやめなかったからでしょ。そのおかげで安い時にたっぷり仕込めた。だから株価が完全には戻ってなくても、ドン底から少しリバウンドしただけで儲けが出たんだよ」
私は前菜のサラダを口に運んだ。少し酸っぱいドレッシングが食欲を刺激する。カレンが口にしているサーモンのマリネも脂が乗っていて美味しそうだ。
「なるほどねぇ。あの時ルナちゃんに諭されなくて積み立てを止めてたらこうは行かなかった訳か」
「私は諭したつもりなんてないよ。カレンの自己判断の結果だよ。あのまま下がり続けた可能性もあったし、こんなに上手く行ったのは偶々だから調子に乗らないようにね」
「はぁい、ルナちゃん先生♪」
次はオニオンスープだ。コンソメの香りと温かさ前菜で冷えた口が温められて嬉しい。
「そう言えばルナちゃん、まるで直ぐ株価が上がってくるのが分かってたようなこと言ってたけど、何で分かったの?人間はしぶといとか何とか、あ……」
カレンの顔が真っ赤になっている。これはきっとスープが熱いからじゃない。ベッドでその話をしたときのことを思い出したからだ。私も思い出して顔が熱くなってきた。いけないいけない、人前だ。
「カレン、それはまた後でね。すぐ上がって来るのは、確信があった訳じゃないんだけど、一度不景気になっちゃったら脱出するのって大変じゃない?どこかの失われた30年とか言われてる国みたいに」
「うーん、そういうものなの?」
「不景気っていうのはお金が無い状態じゃなくて回っていない状態。みんながお金を使わなくなって、企業の収入が減るからみんなのお給料が減って、みんなもっとお金を使わなくなって、もっと企業の収入が減ってもっとお給料が減って、企業は生き残るためにクビ切りをしたり、生き残れず倒産をして失業者が増えて、またお金を使わなくなって……を繰り返すの。このスパイラルに嵌まると放っておいたら抜け出すのはとっても大変」
「なるほどねぇ」
お、メインディッシュが来た。地産のブランド牛のオーソドックスなヒレステーキだ。カレンが期待したような眼差しで私を見つめている。さては子どもみたいに付け合わせのニンジンを除けると思ってるんだな。
ニンジンを除ける振りだけして、いの一番に笑顔で口にしたらカレンの表情は露骨に残念そうなものに変わった。ニンジンは私の大好物だ。
「だから、まともな国なら不景気の兆しを感じたら金融政策とか財政政策を組んでお金をばらまくの。金融政策って言うのは金利を下げて銀行からお金を借りやすくすること。財政政策は公共事業をやったり補助金を出したりすること」
「うんうん。それで?」
「金利が下がって企業がお金を借りやすくなると、事業がやりやすくなって利益が増える期待で株価が上がる。ついでに銀行預金の利息も付かなくなるから、株でもやってお金を増やそうとする人が増えて、株が買われて株価が上がる」
「え?」
「公共事業はそれ自体が企業の仕事になるから利益が増える期待で株価が上がる。補助金も企業に出れば事業がやりやすくなって利益が上がる期待で株価が上がる。消費者に出れば企業の需要が伸びて企業利益が増える期待で株価が上がる」
「ルナちゃん、ちょ、ちょっと待って?」
「どうしたのカレン?」
「株価って、何というか、企業が頑張って仕事をして、利益を伸ばして上げていくものじゃないの?そんな政策で株価が上がるって、株価って一体何なの?」
カレンが目をまん丸に見開いている。投資をしているとだんだん当たり前になって麻痺してくるけど、私も最初は理解が追いつかなかったな。言われると正しそうなんだけど、それまで思い込んでた先入観と違い過ぎてさ。お、お肉が外はカリっと、中はジューシーで美味しい。これは当分口にできない味だな。
「株価は期待と思惑の生々しい人間ドラマの結果だよ。実際の企業業績が伴っていなくても期待と思惑だけで株価は動いちゃう。何らかの理由で株を買いたいと思う人が増えれば株価は上がって、手放したいと思う人が増えれば株価は下がる。業績がどうだったかは、たくさんある株価を決める要因の一つに過ぎないよ」
「株価って不景気だと下がって、好景気だと上がるものじゃないの?」
「そうとも限らなくて。不景気だと財政出動や金融緩和でむしろ株価は上がる、逆に好景気だと緊縮財政や金融引き締め、更には増税で株価は逆に下がる、何てことはザラにあるよ。不景気に増税をした国がどこかにあるみたいだけど、何を考えていることやら」
最後にデザートとドリンクが運ばれてきた。カレンはショートケーキとブレンドコーヒー、私はチーズケーキとレモンティーだ。カレンさん、こんな時間にコーヒーなんか飲んだら眠れなくなっちゃうよ?さては
「もちろん財政出動や金融緩和のおかげもあって企業業績が期待以上に上がってくれば株価は更に上がるよ。逆に期待に沿えなければ株価は下がる。これはイメージ通りかな?」
「そうだね。なるほどねぇ。景気や業績だけじゃ株価は決まらないんだね」
「そういうこと。今回の株高は、暴落の原因になった幾重もの世界情勢の不確実性による景気悪化を恐れて、まず金融緩和政策が打たれたからだね」
「暴落から金融政策が打たれるまでのタイムラグに積立投資で仕込めたから、今日ここに居るんだね」
私が話しながらカレンの手元を見ていたのに気付いたのか、互いのケーキを一口ずつとりかえっこすることにした。ファミレスとは違ってこういう少しちゃんとしたところだと何だか恥ずかしい。もっとフォーマルなところだったら絶対無理だったな。
「そうそうルナちゃん、すっかり言いそびれてたけど、研究班のリーダー抜擢おめでとう。その若さでリーダーなんて出世頭なんじゃないの?」
「ありがとう。でも経緯が経緯だから全然嬉しくないよ。雑用ばっかり増えたし、部下が年上で疲れちゃうし。手当は出るけど全然割に合わないよ」
思い出すだけでも
しかしそうなると研究班のリーダーが空席になる。そこで白羽の矢が立ったのが私だ。苦しめられていた交叉汚染のデータ取りと製造さんへの繋ぎを、あの日私を怒鳴りつけた生産技術の人の協力も得ながら息も絶え絶えでやりきった功績と、その過程で意図せず広範な関係部署に顔が売れ信頼まで置かれるようになってしまったためだ。後から聞いた話によると元上司の評判は非常に悪く、サバンナに飛ばした後釜に私を嵌めこむためにヨイショされた面もあるようだけど、大人の事情は良く分からない。
「でもまぁ、皆様に支えられて何とかやっていますよ」
私が誇らしげな口ぶりをすると、カレンがいたずらっぽい笑顔を浮かべている。この子は今度はいったい何を言い出すんだ?
「じゃあルナちゃん、今度はルナちゃんの出世祝いしよう!もちろんルナちゃんの奢りでね」
「何それ?私のお祝いなのに私の奢りなの?」
「もちろん!ご馳走様です♪私なんかより投資でも儲けてるだろうし、良いでしょ?」
「そりゃぁ、まあ、ね。もぅ、仕方ないなぁ」
「やったー!楽しみにしてるね♪」
ひとしきりお喋りした私たちは約束通りカレンの奢りでレストランを後にし、腕を絡ませてホテルのダブルの客室に足を進めた。滅多に来るところでもないから、せっかくなので泊まることにしていたのだ。カレンとの夜はまだ長い。
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