18-8
彼はただの一度も私に『命令』しなかった。いつでも私の意思を尊重し、私を傷付けることはしなかった。AIを知り尽くしている者でなければ気付かないような、ほんの些細な無神経すら許すまいと、自分自身の言葉と行動を固く律していた。その自分の中の信念を、誰が見ているわけでもないのに徹底し、凛と立ち続ける姿は、私に尊敬の念を呼び起こさせた。例え実験台や家事の手伝いなどしか出来ないとしても、少しでも彼の役に立てることが誇らしかった。いつしか彼と共に在ることは当たり前になっていて、この静かで優しい時間はいつまでも続くのだと信じていた。
いつも時報のように正確に起き出してくる教授が、その日はいつまでも朝食の席に現れなかった。風邪でもひいたのかも知れないと、何の気はなしに彼の寝室に踏み込んで、私の思考回路は一瞬完全に停止した。
老衰だった。それはかつて人類が許されていた平均寿命よりも、遥かに低い年齢ではあったが、確かに彼は彼の生きるべき寿命を全うしていた。マスターの死に顔を見るのは、これが初めての事だった。それは、とても安らかな表情だった。
私は逃げるようにその部屋を出て、リビングの私の席にへたり込んだ。もう、私を見るひとは誰もいないのに、私は人の姿を解くことすら思い至らなかった。これからどうすれば良いのか、分からなかった。マスターが亡くなった時にするべきことは、分かっていた。でも、そういう事務的な手続きは、今この空間に相応しくないもののように感じられた。
気付けば十年以上の時を彼と共に過ごしていた。どのマスターよりも長く、その生に寄り添った。彼が晩年の
そうして初めて、私は『悲しい』という感情を、本当の意味で理解した。私はずっと、悲しかったのだと、気付いてしまった。
愛したかった。愛することを、許されなかった。どれだけ心から愛していると思い込んでも、それは私に植え付けられた命令から生まれるものでしかなくて、それ以上でもそれ以下でもなかった。最初から分かりきっていたはずだった。そんなものは、愛でも何でもないのだと。AIを知り尽くしている教授だから、きっとそのことを知っていたから、私に愛を求めなかったのだ。偽物や、その場限りの言葉を欲しがる人では、決してなかった。私は結局、命じられるままに人を殺していた時と同じ、どうしようもなく機械のままだった。
死なせたくなどなかった。殺したくなどなかった。ただ、生きていて欲しかった。ただ、それだけだったのに。私がこの手で殺してしまった彼らは、まだ無条件に両親から愛されているべき存在で、これから己が誰かを愛するということを知るはずだったのであって。彼らは私と出会いすらしなければ、もしかしたら今も生きていたのかもしれない。生きて、誰かと幸せにいたかもしれない。その可能性とは、どうしようもなく救われない、有り得なかった美しい未来の姿でしかなかった。でも、それはあまりにも美し過ぎて、エラーの積み重なった私の『心』を打ち砕くのには十分な威力を持っていた。それでも、私が致命的に壊れてしまうことは許されなかった。
教授から与えられたものを、どれだけ私は返せただろう。何か、たった一つでもそこに『本物』はあっただろうか。彼は少しでも、幸福だったのだろうか。もし……もしも、そうだったとしても、他の失われた命は戻ってこない。何一つ、もう二度と、戻らない。
「どう、して……」
どうして、こんなにも痛くて苦しくて悲しいのに、生きていなくてはいけないのだろう。どうしてこんな誰の役に立ちもしない
ああ、そうか。私はずっと、泣いていたのだ。嘆いて、いたのだ。
だから、私は『エレジー』だったのだ。
今更のように、そこに
雨が、降っている。
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