18-4

 目の前に、小さな手の平が差し出されていた。


 私はその手の意味を、知識としては知っていたが、すぐには理解できなかった。手を差し伸べるのはいつだって我々AIの方で、それも必ずそうした行動のどこかに埋め込まれた命令が裏打ちされていた。思いやりだとか、人としての優しさだとか、そういうものはこんな毎日人が死んでいく場所では誰も考えられなくなっていて。きっとそれが、私が目覚めて以来、初めて受け取った『人間らしい』思いやりだった。


「そんなに堅苦しくしないで。ほら」


 促されて、反射的にその手を取っていた。感覚を持たないはずの私の手が、彼の手に触れた瞬間、その柔らかさや温もりをじかに感じたような錯覚がした。


「僕のことは『ヒカル』って呼んで。あと、君のマスターじゃなくて『パートナー』だよ。君の名前は?」

「私に、名前はありません……ヒカル、貴方が名前をつけて下さい」


 これが、最初の儀式だ。マスターたる少年兵達は、パートナーAIに対して名前をつけることで『自分のテリトリーにいるもの』として認識し、心を開く。そこから関係が始まるのだ。そのはずだった。




「えっ、いつもこんな風に呼ばれてるとか、これが自分の名前だっていうのは何もないの?」

「ええ。皆様、好きなように名付けられるので、特には……強いて言うならば、私の型番を取って『K』と呼ぶ方が多いくらいですね」


 何気なくそう付け加えれば、彼はどうしてか難しそうな表情で口を開いた。


「それは、名前じゃないよ。記号だ。名前っていうのは、もっと意味があるものだと僕は思う。本当なら、一生それと付き合っていくはずのものだから。それを重荷だって嫌がる人もいるけど、僕は世界で一番尊い贈り物だと、そう思うよ」

「贈り物……」


 私は彼の言葉に、自分の中の何かが揺さぶられているのを感じていた。そんな風に考えたこともなかった。彼の指摘したように、今まで名前などマスターが私を呼ぶための記号でしかなかった。そこに意味や感情などが差し挟まれる余地などないと、そう思っていたのに。


「ねえ、名前をつけるのは、もう少し待ってもらっても良いかな?長いこと待たせるわけにはいかないだろうけど、それでも君のことを少しくらいは知ってからつけたい」

「私は構いませんが……」


 そう答えながら、どこか出鼻をくじかれたような複雑な心境だった。名前があろうと無かろうと、私自身に不都合はないはずなのに、何となく座りが悪く、珍しく思い通りに行かない現状に溜め息を吐きそうになる。




 ……溜め息?

 私は自分で自分の行動に愕然とした。喉元まで出かかっていた息を、呑み込む感覚がやけに生々しかった。こんなに『人間らしく』動揺している自分が自分で信じられなかった。ただそれは、きっと命令されて生まれたのではない、初めて私自身から生まれた感情だった。この世界が見せている姿が目まぐるしく表情を変えていくような、そんな感覚を抱きながら、私は新しいマスターの朗らかな笑顔を見詰めていた。


 その日から、奇妙な共同生活が始まった。彼はマスターとサポートAIという一方的な関係ではなく、パートナー制度という言葉通りに対等な関係を強く望んだ。彼は今までのマスターたちとはまるで違って、私のことを知りたがったし、ころころと良く表情を変えていつも真っ直ぐに感情をぶつけてきた。他の人間がするように、持って回った言い方をあまりすることがなく、彼の言葉はいつも明快で分かりやすいし、裏表のない好感の持てるものだった。


 私達は朝起きてから夜眠る時間のギリギリまで、行軍や何をしているとも分からない(きっと考えてはいけない)勤労や土木工事をしている時でも、時間と状況の許す限りずっと語り合っていた。それは大抵が何てことのない、他愛のない、他にもっと何か話すべきことがあったのではないかと言いたくなるような下らない話ばかりだった。それでも、そんな風に時間を使ったことの無かった私にとっては、ヒカルの行動や言動の何もかもが新鮮で、目覚めてからこれまでに過ごしてきた決して短くはない時間よりもずっと、人の『心』というものに近付いているような、私の求めていた『答え』に後少しで手が届きそうな、そんな気がしていた。


 ヒカルはかつての『ドイツ人』の父と『日本人』の母を持つハーフで、その濡れたような黒髪の隙間から覗く、新緑を思わせる緑の瞳はいつも柔らかくきらめいているように見えた。美しい、子どもだった。きっとそれは容姿の問題ではなく、心の問題なのだと私でも良く分かった。彼は驚くほどにAIのことを心得ていて、私よりもずっと私のことを知っているようにすら感じられた。私達はヒトとは違って、視線や瞳の揺れで感情が見えるわけでもないのに、彼のグリーンアイズにじっと覗き込まれると、自分の全てが暴き出されていくような錯覚を覚えた。

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