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 あの、ガラスの向こうの世界を、知っている。


 網膜に焼き付いた死の世界は、気を緩めればいつでも私の世界に侵食してきた。防護服を着て、ガスマスクを着けて、酸素ボンベを担いでいても、長時間そこにいれば確実に死に至る。一つ息をする度に、毒が身体に染み込んでいくような感覚。一秒ごとに死が近付いてくる、その足音が耳に纏わり付いて離れない。


 あのひとが、呼んでいる。あの、寂しそうな笑顔で、私の名前を呼んでいる。


義父とう、さん……」


 かすれた呟きは、きっとエレジーが聞き取れる音ではなかった。


 眠れない、夜。浅い眠りの中で訪れる、優しい悪夢。久しく見ていなかったはずなのに。




 インカムも、AIグラスもない。プログラムされている、十五分ごとの定期的なマスターの生存確認以外は、エレジーもスリープモードの状態だ。正しく誰の目もない空間で、私は久々に弱音を詰め込んだ溜め息を吐いた。パートナーAIの前で意地を張るだなんて、馬鹿なことだと分かっているけれど、私は昔からどうにもパートナーに弱音を上手く吐き出せない性質だった。それは相手が私にとっての仕事相手、カウンセリングの対象だという意識が強かったからだろう。


 おかしな話。本当は、カウンセリングを受けなくてはいけないのは、私の方だと言うのに。


 なんて皮肉。なんて自虐。誰かを慰め、ふるい立たせることで、自分の罪を滅ぼした気になって。それでも、こんな風に星の見えない夜には思い出す。私が何を犠牲にして生きているのか。私がどれだけ愛を知らずに愛を説いているのか。


 全然、断ち切れてなんかいなかった。本当に、一歩も進めてなんかいなかった。




 へルヴスト。その街の名前一つで、こんなにも心が揺れる。感情が掻き乱される。私にとっての、全ての終わりと始まりの街。目を閉じれば思い出す。こんなにも近い距離にあるのに、知り尽くした街なのに、義父さんが死んでからは一度も足を踏み入れていない。足を踏み入れなくて済むように、皆が気を回してくれていたのだ。


 あの場所で、私達は暮らしていた。慎ましやかで、静かな二人暮らしだけど、幸せだった。いつでもあの小さくて優しい温もりと思い出の滲んだ家を思い出せる。満ち足りていた。私が……恋、などしなければ、全てが完璧だったはずで。


「行かなくちゃ……」


 ずっと、そう思っていた。でも、結局行くことは出来なかった。こうして背中を押されなければ、一歩も踏み出せないままのはずだった。行かなくちゃ、いけない。それはきっと、これから前を向いて歩いていくためにも、私を心配してくれる大切な人達のためにも、そしてエレジーのパートナーとして胸を張って言えるようになるためにも必要なことだ。




「ごめんなさい、エレジー」


 小さく呟いて、私は玄関扉のセンサーを切った。薄くドアを開いて、そしてそのまま外の世界に滑り込んだ。闇夜に包まれ、月明かりだけが頼りの世界は、どうしてかいつもより少しだけ冷たく感じられた。全てを置いて来た。端末も、AIグラスも、インカムも、エレジーと繋がるための何もかもを。


 レンタルバイクに飛び乗ると、私は今、本当に一人きりなのだと言う実感が湧いて身震いがした。それでも走り出せば、何もかもが遠ざかって、ただ私を過去へと押し流していく。







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