4-4
エレジーの悲痛な叫び声が、どこか遠くに聞こえて。
こつり、と。
指先に慣れた感触が突き当たった。
「あったわ!」
「っ、はやくっ!」
見付けた端末をしっかりとポケットに仕舞い込むと、エレジーにぎゅっと手をつかまれた。つかまれた、と感じていた。
「走って!」
私の手を引く手の温もりを、その力強ささえ、どうしてか感じている。偽物なんかじゃない、確かな実存。それともこれは、命の危険が迫る中で脳が見せている幻なのだろうか。
これが本当に、無機質なゼロとイチの信号だけでできた存在だというのか。
(あなたは、何者なの?)
胸の底から湧き上がる衝動のまま、その手をギュッと握り返して、ただ走った。
「間に、合えっ!」
崩れ行く足場の中を駆け抜けて、二人で外目掛けて飛び出した。
「――っ!」
全身を打ち付けられながら、地面の上を転がった。その矢先、背後で轟音を立てて角材やら鉄骨やらが完全に崩れ落ちた。
「まに、あった……」
「間に合った、じゃない!馬鹿ですか、貴女はっ」
大声で怒鳴りつけるエレジーに、私は目を丸くして彼を見上げた。
「私は身の安全を最優先にしてくれと言いましたよね?逃げろと言ったら、逃げると」
「でも、後少しだったから……」
「そんなのは結果論です。自分がどれだけ死と隣り合わせにあったのか、まだ自覚していないんですか?何が優先されるべきか、まだ分からないと?……他人の、それも死人の願いなんかより、貴女の命の方が重要に決まってる!そんなことも分からないって言うんですかっ!」
「っ!」
エレジーの叫びに、私は息を呑んだ。
「……貴女は私から、またマスターを奪うところだったんですよ」
目を伏せて落とされた言葉の重みに、胸の奥がギシリと軋んで。
「ごめ……なさい……ごめん、なさいっ」
気付けば、後から後から涙がこぼれ落ちていた。誰かに心配されて怒られるのなんて、本当に久し振りのことで、何より自分が何をしでかしかけたのか、ようやく自覚した。
『ここに人がいるんだっ……私のマスターがいるんだ!』
耳に蘇るエレジーの声が、心臓に突き刺さる。彼の言う通りだ。私はとっくに、彼の『マスター』であり『パートナー』だったのに。よりにもよってパートナーとの約束を、最悪な形で破ろうとしたのだ。
私は何も変わってなんかいなかった。自分を大事にできない人間に、ひとを大事にできるはずがない。何度も言い聞かされて、何度もその信頼を踏みにじって。大事なことなんて、何一つ見えていなかった、あの頃と何も変わっていないんだ。
「……ディアナ」
ふと頬に温もりを感じて、ハッと顔を挙げる。世界の優しい哀しみの色を、全て溶かしたような銀色の瞳が、泣きぬれた私を写し込んでいた。
そっと頬に寄せられた、細く美しい指先が、壊れ物でも扱うように私の涙を拭うように触れた。今この瞬間、確かに彼の温もりを感じていた。
「どうか、泣かないで……貴女の涙を見ると、どうしたら良いか分からなくなるんです」
困ったように眉を寄せて、エレジーは私に伸ばしていた指先を、何かを堪えるかのようにグッと握りしめた。
「どうしてか、ここが締め付けられるように痛むのです。私達には、痛みも苦しみもない、この
自嘲を含んだ笑みを浮かべて、揺れる瞳で苦しそうに胸を抑える姿に、私は思わず叫んでいた。
「おかしくない!」
雷に打たれたようにこちらを見上げたエレジーに、私はもう一度言った。
「おかしくなんか、ない。私達だって、脳で『痛い』と思って初めて痛みを感じる。私が見ているこの世界だって、今感じている温もりだって、全てが電気信号だもの。私と貴方の、何がそんなに違うの?貴方が感じる痛みも苦しみも、全部貴方だけのもので、偽物なんかじゃない!」
「私、は……」
何かを言い掛けて、揺れる瞳のまま口を噤んだエレジーに、ようやく自分が彼に本音をぶつけてしまっていたことに気付いた。自分の考えを押し付けることだけはしないと、心に決めていたはずだったのに、と後悔しても既に遅い。それどころか、彼には更に傷を負わせるような真似をしてしまった。これでは完全にカウンセラー失格だと俯く。
「ありがとう、ございます」
突然のエレジーの言葉に、私は弾かれたように顔を挙げた。
「……どうして?」
おずおずと問いかける私に、彼はふっと表情を和らげて首を傾げた。
「……どうしてでしょう。そう、言いたくなったのです」
その言葉が、ひどく重要な意味を持っていることを、心のどこかで直感していた。
でも今だけは、あれこれと余計なことに思いを巡らせずに、ただこうして彼と向き合っていたかった。
「本気で、貴方を
「うん」
「もっと自分を大事にして下さい」
私が頷くと、エレジーは小さく微笑んで立ち上がり、すっと自然に手を差し出した。
「「あ……」」
思わず、と言ったように声が重なった。さっきは確かに触れ合えていたように感じた手は、呆気なくスルリとすり抜けていく。それが普通だと分かっているはずなのに、ひどく寂しい感じがした。どことなく
さっきは確かに触れ合うことが出来ていたことを、何となくお互いに言い出せなかった。奇跡という安易な言葉で片付けることは、きっと互いに望まなかったし、逆に無粋な論理で固める必要性も感じなかった。
私自身も言ったように、全ての感覚は電気信号に過ぎない。だから、私と彼が触れ合うことだって、きっと出来たっておかしくはないのだ。ただ、彼も私と同じ温もりを、あの時感じてくれていたなら。きっと、それだけで良かった。
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