五章 煉躯の勇者
僕は熱い湯の張られた浴槽に浸かると、ゆっくりと息を吐き出す。
市長公邸には広大な浴場まで設置されていた。水量も多く、使う燃料もこの時代にしてはすごいのだろうが、どうやら使用人も奴隷も皆使えるようにということらしい。旧世界はあまり身分というものにうるさくないようだった。ただ、街中の公衆浴場に行く者が多いので、ここはいつもすいていた。今も僕一人だ。そういえば現代でも、いつも一人でナノマシンゲルの
と、思っていたら誰か入ってきた。水を流す音。ここで働いている男性の使用人は少なく、話したことがないのでなんとなく気まずい。前を向いたまま考え事にふける。
ここ最近はフライ麺ばかりで僕は少しうんざりしていた。旧世界風即席麺は製法が単純なためか一発で成功したのだが、シーズニアは味に納得がいかないらしい。
試行錯誤の繰り返しでよくなってきてはいるものの、味見させられ続けてもう飽きた。麺に合うスープも作りたいとか言っているし勘弁してほしい。
「いつから魔王は料理人になったんだよ……」
「ケ、ケイ……?」
本人の声が聞こえ、僕は驚いて振り向く。
案の定、そこにはシーズニアがいた。
眩しい銀色の髪は、今は上にまとめられている。手にした浴布にかろうじて隠された裸身は、真っ白な肌で、少女らしい華奢さで、だけど女性らしい丸みがあって――あたりまで考えて、僕は慌てて後ろを向いた。
「シ、シーズニア!? ごめんっ、でもあれ、使用人の人が今ならまだ入れるって……」
「…………今はまだ、女性の時間帯ですよ。はぁ。まだケイの性別を勘違いしている者がいるようですね」
水音。
シーズニアが話しながら湯船へと入ったようだった。僕は戸惑いながら口を開く。
「あー……ごめん。僕、もうあがるから」
「いいですよ、別に」
シーズニアがそっけなく言う。いい? いいってなにがだ?
「ええと……この時代って混浴文化とかあったっけ?」
「祖父の頃までは。今は、あまり」
あまり? あまりなんなんだ?
言葉が尽きて僕は沈黙する。すると今度は、シーズニアが話し始めた。
「あの……ここのボイラーも、実は私が改良したのです。ちょうど故障した時に……燃焼室との接水面積を増やしたので、少しだけ早く沸くようになりました。少しだけですが」
シーズニアも気まずいのか、声がうわずっている。
僕も僕でなんとか言葉を探す。
「へ、へぇ……あ、あんまり複雑にすると整備とか大変そうだしね」
「そう! そうなのです。もっと効率よくできたのですが、故障もしやすくなるので……」
「……」
「……」
それきり、会話は途切れる。
「その……ケイ」
シーズニアが一呼吸置いて言った。
「前にも一度、訊いたかもしれませんが」
「……?」
「ケイは、どうして戦うのでしょう」
躊躇うように発せられた言葉に、僕は心臓が跳ねた。
「……もしかして、それが訊きたかった、とか?」
「あまり訊ける
恐る恐る口にされた問い。
一度は、言葉にするのを避けた答え。
だけど今、僕はそれらを自然に受け入れることができた。
「いいよ。僕は、――――」
一度もしたことがないこの話を。
僕は、誰かに聞いて欲しかったのかもしれない。
◇ ◇ ◇
僕は、二人の男女の、自然人の間に生まれた。
現代で、これは珍しいことだった。
ほとんどの国のほとんどの国民は、国家によって生産される。
定期的に国民の遺伝情報を収集し、文字通りの意味での遺伝子
もちろん、例外も多い。
いろんな例外の中でも、僕の両親はきっとたちの悪い部類だっただろう。
ただ、少なくはなかった。
子供を持ちたがる夫婦の例に漏れず、僕の両親は共に裕福な人間だった。高度に知的な、あるいは創造的な経済活動で高給を得るエリート。
だが残念なことに、二人は賢明さというものだけは持ち合わせていなかった。
彼らは当然のように、自分たちの遺伝情報から生まれてくる子供を最良の形に
遺伝情報を修飾する
二人がデザイナーに出した注文は、知的能力、創造的能力、肉体的能力、疾患耐性が高く、性自認が女の、美しい半陰陽というとち狂ったものだった。
なぜこんな子供を欲しがったのか、定かではない。
過去に観た感動もののIR映画の影響とか話していた気もするが、結局は馬鹿だったのだろう。
様々な性形態が市民権を得ている現代でも、一般男女以外を排斥している国家だってあるし、それ以前に、疾患ギリギリに子供をわざわざ
デザイナーにとっては難題だっただろう。
遺伝情報のほとんどが解明された現代でも、技術的な難しさは存在する。男でも女でもない半陰陽は色々な発現パターンがあるが、どれも遺伝子配置の微妙なバランスが要求される。しかも、遺伝情報は両親由来のものしか使えないという制限まであった。
ただ、それは難題でしかなかった。不可能なことではなかった。だからデザイナーは注文を受諾した。常染色体が二十二対、性染色体XYの通常男性をベースに構築しようとして、そして、失敗した。
子供は両親の望みに反し、肉体も性自認も完全な男性として誕生した。
それが僕。
失敗作として生まれた僕だ。
二人は当然のように訴訟を起こし、当然のように勝って多額の賠償金を手に入れた。ただ、それはなんの解決にもならなかった。
物心がついてからずっと、僕は女の子としての振る舞いが求められた。
かわいらしい服を着せられ、髪を整えられた。玩具やアプリケーションソフトや娯楽作品は女児向けのものばかりが買い与えられ、持ち物の色も暖色系しか許されなかった。青や黒を好むと叱責された。
性別関係以外の注文は容姿を含めきちんと叶えられたらしく、僕は見た目だけで言えばその頃完全な女の子だったようだ。両親は性同一性障害の可憐な少年という育成目標を新たに掲げ、計画的に子育てに取り組んでいた。どう考えても狂っていた。
破綻しないわけがなかった。
年齢を重ねるにつれ、僕の仕草や嗜好などの、男性的な部分が否応なく両親の目につくようになった。二人の要求を拒み、暴れたこともあった。両親の間でも、次第に言い争いが増えていった。
ある日、僕の公称性別に合わない格好や持ち物を教育センターの職員が訝しみ、最終的には福祉局に通報された。国家の捜査権限により、遂に両親の所業は、公的機関の知るところとなった。
一度目の警告。
それは社会的にはそれほど重大なものではなかったが、歪んだ家族関係を終わらせるには十分すぎる一撃だった。
二人は婚姻関係を解消した。
どちらも僕の親権放棄を申請し、それは国民の当然の権利として、役所で受理された。
こうして、僕は捨てられた。
当時十にもなっていなかった僕は当然、国の庇護下に入ることとなった。国家の子が生まれた時から暮らす集団生活施設にこの年で入り、国営の教育センターに転入するということだ。こういうケースは少なく、あまり想定されていない。だから、当たり前のように問題は起こった。
僕はまったく集団に馴染めなかった。
それどころか積極的にいじめられ、排斥された。
国家の子たちには彼らの内のルールがあり、仲間意識があった。僕は、完全に違う群れの個体だった。
私物は隠され、壊されることも多かった。
一年飛び級し十六歳で義務教育課程を終えた後は、各分野の専門教育機関に入ることもできた。だけど僕は推薦をすべて蹴り、現代の冒険者ギルド、攻性人材派遣企業に登録した。
もう、なにもかも嫌だったのだ。
他人も、世界も。
かつて途上国に住む貧困層の若者は、平和な世で戦争を望んでいたと、歴史の記述記憶の中にあった。彼らは、世界が混乱に陥れば、自分を底辺に押し込めるすべてのものが破壊されれば、自分も這い上がれると、自分のためのなにかが生まれると、望む物が得られると、無根拠に信じていたという。
同級生たちが愚かだと笑う中で、僕だけはその感情を深く理解できていた。
彼らが幸福になるための方法は、破壊しか、暴力しかなかったのだ。本当にそれしかなかった。無根拠でも信じるしかなかった。幸福になれる可能性があると。そう信じて、生きていくしかなかったのだ。
僕も、同じ心境だった。
他人も世界も気にくわない。僕ばかりこんな目に遭う理不尽さが許せなかった。進学しても、僕の過去は消えない。幸福になれるイメージなんて欠片も湧かなかった。
だから、命を危険に晒そうと思った。
死亡率の高い、暴力の世界で生きれば、余計なことを考えなくて済むと思った。破壊し、敵を圧倒する快感に浸れば、過去や、他の嫌なことを忘れられると思った。
それは、概ね予想通りに達成できた。
だけどそれ以上に、大切な出会いがあった。
ニルヤの第一印象は、少なくともよくはなかった。
『え、女の子!? わ、やった! 女の子のパーティメンバー増えるよやったねマナちゃん! はじめまして、私が隊長のキセ・ニルヤです。これからよろしくねケイちゃん!』
このとき他のパーティメンバー三人の頭には疑問符の嵐が吹いていたという。
なぜなら事前に渡されていた資料にはしっかり僕の性別が書いてあったし、そのことを前日に四人で話したばかりだったからだ。だけどニルヤは僕を見て資料と昨日の記憶など頭から吹き飛んだようだった。
僕を女の子と決めつけてはしゃぐニルヤに三人は呆然としていた。僕は憮然としていた。ニルヤだけが楽しそうだった。
誤解が解けるとニルヤは平謝りしてきたが、その後も時々かわいいかわいいと言っては僕をいらだたせた。
この頃には、僕はこのパーティを見限っていた。
心理適合度が高く、それなりに高レベルで、メンバーの質もよかったため即決したのだが、隊長がこれではたかが知れていると思った。ニルヤにリーダーの資質があるとは思えなかった。
だけどクエストをこなす内に、それが間違いだとわかった。
普段は抜けているニルヤだが、パーティリーダーとしては優秀だった。常に全体を見て、的確な指示を飛ばす。迷いなく振る舞い、引き際の見極めも早い。戦闘中でも新入りの僕に気を配る余裕すらあった。そしてなにより、魔法無効化や身体強化の魔法を駆使して前線に切り込む、剣士として確かな腕を持っていた。ニルヤは、理想的な〈
だけど、僕はそれを認められなかった。
それどころか、他の三人のことも軽く見ていた。
一度見限った相手を再評価するのは難しい。
アレンジドチャイルドとして屈折したプライドを持っていた僕は、虐げられていた環境から解放された反動もあって、その頃は傲慢になっていた。早く実績を積んでより高レベルのパーティに移るのだと、独断専行が増えた。メンバーともしばしば衝突した。
実のところは、彼らを同級生たちと重ねて逆恨みしていたのだろう。
仲間と楽しそうに過ごす姿は、僕が欲しくて手に入らなかったものだから。
当然のように、身勝手な行動のツケを払う日は来た。
遺棄された旧式核融合炉での回収クエスト中、僕は勝手な判断で独立電源の警報装置を無視した。ほとんど魔獣の姿はなく、鳴ったところで問題ない、足止めされる時間が無駄だと思ったのだ。
ニルヤの制止を適当に流し、先頭を進んでいた僕がセンサーに引っかかり、警報が鳴った。
予想外だったのは、その発電所全体が、ジグロゴブリンの巣になっていたことだった。
偽霊長目ゴブリン科の一群は、魔獣の中でも比較的知能が高い。さらに群れである程度連携して狩りをするという厄介な性質を持っていた。知っていたわけはないだろうが、ゴブリンどもは警報のやかましい音を侵入者の知らせと素直に受け取った。
僕らは、一瞬で危機に陥った。
押し寄せるゴブリンの群れに魔法を放ちながら、僕はニルヤに言った。僕を残して撤退してくれと。ゴブリンがまだ侵入者を脅威と捉えているなら、巣に残る僕に戦力を集中する。侵入者が獲物になり、連携されだしたら撤退も難しくなる。今ならまだ間に合うから、と。
本音では、こんな無様な失態をして逃げ帰るなんてできなかった。
もう、いいと思ったのだ。
でも、ニルヤは聞き入れなかった。
圧縮思考で皆に戦闘陣形を指示し、迫るゴブリンに剣を振るう。そして、僕に言った。脱出できる可能性が一番高い経路を算出してほしいと。これはケイにしかできないことだから、と。
僕に一緒に戦って欲しいと、ニルヤはそう言った。
僕はエコーを必死で働かせ、ゴブリンの分布予測と施設通路の総当たりをし、数千ミリ秒ほどで脱出経路の第一から第六候補とそれぞれの利点と難点と総合確率をまとめてニルヤに送った。
ニルヤは笑った。
『いいね』
そこからは早かった。
陣形を保ちながら、僕たちは脱出経路に沿ってゴブリンの群れを切り開いていった。キィルのガンマ線レーザーが密集箇所をなぎ払い、カイロウの
ニルヤのパーティは、レベル以上の実力を持っていた。
施設の敷地外にまで退避し、ようやく安全が確保できると、ニルヤは言った。ケイのおかげでみんな助かったよ。ありがとう。
僕は首を振り、やめてくれと言った。パーティを危険に晒し、クエストは失敗した。すべては僕の軽はずみな判断のせいだった。それに僕がいなくても、四人だけでこの程度の群れなら殲滅できたじゃないか、と。
『そうだね。でもね、ケイ。失態は失態、成果は成果だよ。あの状況ならやっぱり撤退が最善だったし、それを最善の形で達成できたのはケイのおかげ。〈
押し黙る僕を見て、ニルヤは付け加える。
『あとねー、リーダーからの小言があるとすれば――』
ニルヤは、にっと笑って言う。
『もっとみんなを信頼して欲しいな。ケイっていっつもハリネズミかハリセンボンみたいに構えてつんつんつんつんしてるけど、そんなに怖がらないで欲しい。私は、ケイの敵じゃないんだよ? だからもっと頼って欲しい。みんな、ケイの仲間なんだから』
それからの日々は、僕にとってかけがえのないものになった。
僕がそれまでの勝手を謝ると、みんななんてことなく許してくれた。いきがった新入りが身の程を知って懲りるという展開は珍しくないどころか冒険者の
みんなに色々なことを教わりながら、冒険者としての生活を送り始めた。
僕はずいぶんまともになったと思う。以前は許せなかった些細な軽口も、好意的に受け取ってうまく返せるようになった。誰かと交流する楽しさを、僕はその頃初めて知った。
みんなといると、時はあっという間に過ぎた。
一緒に色々なところに行って。
一緒に色々なものを見て。
一緒に戦った。
命を危険に晒し、暴力の興奮状態に身を任せて、僕は過去と、世界への恨みを忘れられた。だけどもう、そんなことはどうでもよかった。みんなと出会って、もっとずっと大きなものを得られたから。
見えない隔たりを感じることがないでもなかった。
みんなは僕のような過去なんて持っていないだろう。きっと普通に生まれ、普通に成長し、普通に喜び、普通に苦労して、普通に乗り越えたに違いない。そしてそれぞれの大切なもののために、冒険者になった。
助けを求める仲間のため。
未来の家族のため。
人々のため。
弟のため。
僕なんかよりもみんなは遙かに立派で、胸を張れる人間だった。誰かのために戦える人間。世界を呪ってここに辿り着いた僕とは違う。
仲間が対等な関係を指すならば、僕に本当の仲間なんていなかった。
だけど、それでもよかった。仲間じゃないのならなんと呼ぶのかわからないけれど、ニルヤは、みんなは僕にとって大切な存在だった。それだけで十分だった。
あの日々が永遠に続かないことはちゃんとわかっていた。
攻性人材派遣企業の労働災害発生件数は公表が義務づけられており、その中には当然、死亡事故の項目もあった。確率だってその気になれば割り出せた。
僕は残酷な計算はしなかったが、理解はしていた。
いつか、僕らは別れる。その原因が、確率的な悲劇となる可能性はそれなりに高かった。
願わくば、最初に死ぬのは僕であって欲しかった。
だけど、長い間忘れていたことだったけど、僕にとって世界は理不尽なものだった。
あの日。
マナが死んだ。
キィルが死んだ。
カイロウが死んだ。
そして、ニルヤが死んだ。
僕だけが生き残った。
大きなものを失い、生きる世界すら変わり果てて、僕はまた一人になった。
◆ ◆ ◆
気がつくと、裸の腕で抱き寄せられていた。
すぐ目の前に、シーズニアの胸元がある。細い腕が頭の後ろに回され、垂れた一房の銀髪が頬をくすぐった。シーズニアの滑らかな肌と、柔らかい体の感触が、僕に直接伝わってくる。
だんだんと現実を認識しだした僕はちょっと正気を失うくらい驚いたけれど、でも不思議と、なにかが解きほぐれていくようなあたたかい感覚があった。
「シーズニア……?」
ようやく出せた僕の声は、泣き疲れた子供のようにかすれていた。
「……ケイのことを、誤解していました」
シーズニアが腕を解き、僕から離れる。
正面から見る
「私はケイのいた未来を、理想的な世界だと思っていました。物質的に満たされ、争いも貧困もない、皆が苦痛から解放された、私の考え得る完璧な世界だと。ケイが戦うのも、一部の剣闘士のように、満たされてなお闘争の快楽を求めた結果なのかと思っていました。でも……そうでは、ないのですね。人が営むのです。完璧な世界なんて、考えてみればありえない。ケイは……とても辛い思いを重ねてここまできたのですね」
シーズニアの透明な瞳が、まっすぐに僕を見つめる。
「ケイの苦しみが理解できるなんて、驕ったことは言えません。でも、少なくとも私はこう思います。ケイはやさしい人です。他人を思いやれる、立派な、胸を張れる人間だと思います。だからケイと戦友たちは、きっと本当の仲間であったことでしょう。そしてケイなら、これから新しい大切な仲間だって絶対に得られます。それがあるべき形だと、私は心から思っています」
そのとき、僕の胸中に湧いた感情を、なんと表現すればいいだろう。
激しく波打つ感情の中で、シーズニアに話してよかったと、僕はそれだけを確信していた。
「あ……」
ありがとう。
と言おうとして、僕は余計なことを考えて躊躇った。ここでありがとうって、一体なにに対して感謝したんだって誤解されないか?
「あ、あー……ありが、とう」
冷静に考えて×××××××てくれてありがとうだなんて思われるわけない、と五百ミリ秒で考え直して口に出したが、迷いすぎた。動揺が顔に出ていたせいで完全に察せられた。シーズニアは顔を真っ赤にして俯くと、浴布を握りしめながらゆっくり後ずさって最終的に僕から三・二メートル離れたところで止まった。横目で見ると、口元まで湯に浸かって小さくなっているようだった。
僕は早い鼓動を押さえるように一つ息を吐くと、言葉を紡ぐ。
「ありがとう。そう言ってくれてうれしい。だけど……僕は、やさしい人間じゃないよ。みんなともたぶん、本当に仲間なんかじゃなかったんだ」
僕は湯船の水面を見つめながら続ける。
「みんなを亡くしたら、僕は立ち直れないかもしれないと思ってた。でも実際には……全然、そんなことなかったよ。普通に過ごして、普通に戦えてもいる。涙すら出ない。僕は……自分で思ってた以上に、薄情な人間だったみたいだ」
独白の最後の方は消えかけていた。
「それはっ……」
シーズニアはなにか言いかけて、そのまま沈黙する。
言葉にするかを迷うような数瞬が流れ、結局シーズニアは、そうですか、とだけ小さく呟いた。
僕は努めて明るい声を出す。
「でも、話したらちょっとすっきりしたよ。シーズニアに聞いてもらえてよかった」
「えと、その……どういたしまして」
シーズニアは照れたような、しかしまだ伝え切れなかったことがあるような、そんな声音で言った。
「わ、私もうあがりますね」
「あ、うん」
シーズニアが湯船から出る水音を聞く。
脱衣室へと向かう足音が、途中で止まった。
「あの……ケイもあがったら、テラスに来てくれませんか。よかったらもう少し、お話しましょう」
◆ ◆ ◆
市長公邸二階の広大なテラスで、シーズニアはぽつんと、一人手すりにもたれかかって街を見下ろしていた。
シーズニアは僕に気づくと、穏やかな調子で言う。
「最近は、よくここでこうしているのです」
僕が隣に来るのを待って、シーズニアは遠くそびえる城壁を指さす。
「ここから城門が見えるでしょう? あそこから終戦の知らせを携えた伝令が、今日こそはやってくるのではないか、と。ふふ、まるで愛する騎士の帰還を待つ姫君のようですが……でもたぶんそれは、そう遠くないうちに起こることなのです」
「終戦が近いってこと? どうしてわかるんだ?」
「今が春だから、ですよ」
シーズニアは静かに続ける。
「包囲が完成したのは秋でしたから、帝国首都は冬に向けた食糧を貯蔵していたことでしょう。ですが、それもそろそろ底が見えてくる頃です。これ以上城内の兵が飢えれば包囲の強行突破という見せ札を失い、ますます厳しい条件を飲まされかねません。逆に我が国の側も、早期講和の声が強くなるでしょう」
「相手側が苦境なら、こっちはじっくり待てばいい気がするけど」
「冬が終わり、旅の季節を迎えれば、『勇者』が増えます。この街に攻めてくる『勇者』が」
淡々と、シーズニアが言う。
「クルーストが私の避難先となった理由には、山岳都市であるという以上に、大商会や元老院内部での政治的な駆け引きがあったようなのです。この街の発展を妨げたい者がいた、ということでしょう。ですがこれ以上『勇者』の襲撃が増え、民への被害が増すとなっては、いつまでもそんな主張を続けることはできなくなります。私を王都へ戻す方法もありますが、おそらく終戦派や私を擁立しておきたい派閥がこれを利用し、一気に講和へと導くでしょう」
シーズニアがふっと息をついて付け加える。
「戦費という頭の痛い問題もありますしね。いずれにせよ統治機構を破壊しての完全な征服など、財政的にできるわけがないのです。今講和を結ぶのが一番だと私も思います」
「……そっか」
逆に言えば。もし戦争が長引けば、勢いを増す『勇者』の攻勢にシーズニアはさらなる苦境に立たされるということだ。
しかし僕は、シーズニアが先に希望を見いだしているのなら、それを信じたいと思った。
シーズニアが顔を上げ、城壁のさらに向こう、遠くを見据える。
「初代魔王は、人間の女性を妻に迎えました」
話題が変わり、僕はシーズニアに顔を向ける。
「種族やその力、人柄に至るまで、ほとんど記録が残っていない初代魔王ですから、当然、なぜそのようなことをしたのかもわかっていません。勝利の証とするため、あるいは蜂起そのものが、その女性を手に入れるためだったという説もありますが……私は、未来の平和な世を見据えていたのではないかと思うのです」
「未来を……?」
「魔族が統一され、互いの交流が進めば、混血の増えます。現在でもある程度の対立が見られる魔族同士です、そのままであれば、混血の立場はきっと非常に弱いものとなっていたでしょう。偏見と差別は、国を蝕む毒になり得る……だからこそ初代魔王は、異種族の人間を妻に迎え、次代を混血の魔王とすることで、差別を防ごうとしたのではないかと思うのです」
「それは……効果あっただろうなぁ」
魔王が混血なら、誰も混血の悪口なんて言えない。
「ええ、だから現在でも混血の立場が悪いなんてことはありませんし、婚姻によって対立していた二種族の関係がよくなることすらあります。それどころか……長年敵対していた人間に対しても、我々は種族的な差別感情を持っていません。魔王の一族は、たびたび人間の血を入れていますから。私の母もそうでした……代償に魔王は魔族としての力を薄めることとなりましたが、その意味はあったと思います。この戦争が終わって、人間という種族と真の同胞となることも、きっと難しくないでしょう」
シーズニアが僕に向き直る。
「終戦すれば、私は王都に戻されます。相変わらず実権のない、儀礼的な役割ばかり任せられる立場になると思いますが……できることは増えます。人間帝国を属国とすれば、世界の有り様は大きく変わるでしょう。その変化の中で、私は、私の目的を果たしたい。でも、一人では無理です。今の私は、一人の無力な娘に過ぎません……だから、ケイ」
シーズニアは、透明な瞳でまっすぐに僕を見据える。
僕に、手を差し伸べる。
「私の、仲間になってもらえませんか」
僕は、思わず息をのんだ。
初めて会った時、迷わず拒否した言葉。
それが今は、まったく違う色に輝いて聞こえた。
「今の魔王にも、
シーズニアがはにかみながら言う。
それはたぶん、僕が心から欲しかった言葉だっただろう。
「僕は、でも……」
だけど僕は、それを受け取ることを躊躇った。
感情が内心で渦巻く。
怖い、と思った。
世界を恨んで、代わりに壊せる物を求めて戦いに身を投じた僕が、シーズニアの手を取る資格なんてあるのか。
みんなを失ってもなにも思わない僕が。
自分のためにしか戦えない僕が。
いつか僕の本性を知られ、シーズニアに失望されることが恐ろしかった。
でも、だけど――、
「大丈夫ですよ、ケイ」
躊躇う僕に、シーズニアは、少し気を抜いたように微笑む。
「実は、私も――――」
そのとき、風が吹いた。
大きな影が、テラスを覆っていく。
風と影は――竜の形をしていた。
「――久しいな、シーズニア」
羽ばたきが打ち下ろす強風と共に降ってきたのは、少年の声。
深緑の厳めしい鱗を纏った大型の竜が、広げた翼で大気を掴み、テラスへと降り立った。加重で足下が微かに揺れる。突然の事態に、僕は思考が硬直する。
竜に据えられた鞍から、一人の少年が僕たちの眼前へと身を躍らせた。
「三年ぶりくらいか。見ぬ間に美しくなったじゃないか」
少年が微笑する。
年の頃は僕やシーズニアと同じか、少し上くらいか。輝くような麦穂色の金髪に翠眼。軽装だが、腰には装飾された鞘を提げている。どこか気品を感じさせる精悍な顔立ち。
まるで少年俳優のような容貌だが――纏う雰囲気には、なにか言いようのない、剣呑なものが感じられた。
僕はハーモナイザーを引き抜き、静かにエコーを希薄化させていく。
少年はキョロキョロと辺りを見回すと、感心したように声を上げた。
「ほう、なかなかの仮住まいだな。うちの別荘よりも広そうだ」
僕が眉を顰めると、傍らでシーズニアが唖然と呟く。
「フィ、フィゼル……? どうして、ここに……」
僕は驚いてシーズニアを見やる。
「知り合いなのか?」
「え、ええ。先代魔王が追放された際に、私たちが身を寄せていた母の祖国……ギムル王国王家の者です。フィゼルは現王の三男、第三王子ということになります」
僕は僅かに目を見開く。
まさか王族、しかも上位の継承権を持つ人間だったとは。
「母は傍系でしたが、王家の血を引いていましたので……一応、私の親戚でもあります」
人間のようだが、どうやら敵ではないらしい。しかし、シーズニアの表情は固い。
フィゼルは僕に一瞬だけ視線をやると、シーズニアに含みのある笑みを向け、ははーん、と言った。シーズニアが表情を歪める。
「……なんです」
「いや、なにも言うまい。わかるぞ、シーズニア。お前も寂しかったんだろう。勇者に狙われる恐ろしい日々が続けば無理もないさ。まあ、そういうのに手を出すにはちょっと早すぎる気もするが」
シーズニアがはっとして目を剥くと、顔を赤くして俯いた。なにか通じたらしいが、僕には見当がつかない。
「……誤解です。それよりもフィゼル。あなた、なぜここに」
「すごいだろう、シーズニア。こいつは」
フィゼルはシーズニアの問いかけを無視し、竜の鱗を叩く。その所作には、明らかな傲慢さがあった。
シーズニアが顔をしかめる。
「相変わらず人の話を聞きませんね。その竜がどうしたのです」
「ぼくの新しい友達さ。アルーという。こいつじゃなきゃここまで来れなかっただろうな」
僕はその竜を観察する。
後頭部に並ぶ角状の鱗に、翼竜としては大きな体躯。おそらくは六肢綱翼竜目山岳竜科の一種だ。元々高山に生息するこの一群ならば、標高の高いクルーストまで飛んで来れても不思議はない。だが山岳竜科はどの種も、気性が荒く群れも作らず繁殖方法も特殊と、典型的な家畜化困難種だったはず。飼い慣らしていることが信じられない。
「おっと」
フィゼルが腕を掲げると、そこに一羽の白いオウムが舞い降りた。フィゼルが腕を下ろす合間にも、オウムは暢気に毛繕いを始める。
シーズニアは少し気を緩めたように呆れ声を上げる。
「まさか、トットですか? こんなところまで連れてきたのですか」
「こいつが来たがったのさ。僕の初めての友達で親友だからな」
「相変わらず動物には好かれるようですね。人の友人はできましたか?」
「なぜそんなもの作る必要がある」
シーズニアとフィゼルの交わす言葉は、いつの間にか既知の者同士が使う、気安いものになっていた。
僕は、小さな疎外感を覚える。
「お父上はご健勝ですか?」
シーズニアが訊ねると、フィゼルはオウムを竜の頭にとまらせながら答える。
「ああ。だがまあそう遠くないうちに――王位は譲られることとなるだろうな」
「……? なぜです。現王はまだ壮年のはず。さすがに時期尚早では? それとも第一王子、ワイナード様の側になにかご事情でも?」
「いや……くく、事情などないさ。長兄のワイナードにも、次兄のベレンにもな。そもそも、関係がないんだ――――次のギムル王は、ぼくなのだから」
「フィゼル……?」
シーズニアの声に困惑が混じる。
「どういうことです、あなた……なにを考えているのです」
「くく……男で生まれたからには、王位を目指すのは当然だろう? なに、ぼくだって十分上位の継承権を持っているんだ。兄上たちにはちょっと遠くに行ってもらい、父上に“ご納得”いただければ、それで済むのさ」
「あの方たちを、そんな……本気で、言っているのですか」
「当たり前だろう」
「……ずいぶんと変わりましたね、フィゼル」
「いつまでも子供ではいられないさ、シーズニア。お互いにな」
「一緒にしないでください」
シーズニアは静かに声を荒げる。
「フィゼル、愚かな方向に歪んだものです。わかっているのですか? ギムル王国が独立を保てていたのは、王位継承者の承認を人間帝国に委ね、属国となっていたからでしかないことを。戦争が始まり真っ先に魔王国へ恭順を誓っても、それは主人が替わっただけに過ぎません。我が国は次王の選定くらいならば好きにさせるでしょう。しかし、内紛は傍観しません。必ず軍をもって介入します。おそらくはフィゼル、あなたの敵として」
「おお、シーズニア……はは、お前も十分変わった。随分魔王らしく喋るようになったじゃないか」
フィゼルは愉快そうに言う。
「だがな、そうはならない。まず、これはぼくがご提言奉った計画に父上が乗った形なのさ」
「あなたの戯れ言に、現王が応じたと? そんなばかな……」
「応じるさ。なんと言っても、我が国が真に独立できるんだ」
フィゼルが口の端を吊り上げる。
「魔王国を取り込んで、な」
「なっ……」
シーズニアが、驚きに声を詰まらせる。
「どういう、ことです」
「そうそう。今日はなぜ来たのか、だったな」
フィゼルが突然、話の流れを無視して言った。軽く鼻で笑う。
「お前を助けに来たのさ。シーズニア」
「はあ……?」
「このまま勇者の襲うこの街に居たら、本当に死んでしまいそうだからな。現魔王の苦境を放っておけるわけがない。古くから魔王国と交流の深い、ギムル王家の者としてはな。我が国に亡命しろ、シーズニア。ギムル王国は安全だぞ。誰もお前の命を狙うことはない」
助けに来たと言うフィゼルに、しかしシーズニアは表情を強ばらせる。
「……私に、なにをさせようと言うのです……答えなさい、フィゼル」
「くく、なに、大したことじゃないさ」
フィゼルは空を仰いで言う。
「亡命しても魔王でなくなるわけじゃない。それどころかこの国の、唯一の正当な君主だ。だが王が他国に亡命しなければならないなど、妙な話じゃないか……誤った国は正さねばなるまい?」
フィゼルがシーズニアに向き直ると、語調を強める。
「お前は信頼できる少数の有力魔族と共に、我が国で臨時政府を設立する。そして、こう宣言するんだ――魔王のいる我が方こそが、マグナ・メルジア魔王国の正当政府である。現在の政府は、元老院によって玉座の打ち捨てられた、簒奪者どもの巣窟に過ぎぬ。集え、同胞たちよ。そして共に戦い、あるべき魔王国を取り戻すのだ!」
芝居がかった言葉。聞いているだけの僕もぞっとする。
こいつは……、
「魔王国を、割ろうというのですか……! ふ、不可能です。そんな、私の言葉ごときで、動く種族などあるわけが……」
「その辺は外交的な根回しさ。お前の言葉は聞かなくても、動く理由があれば動くだろう。魔族の間にも派閥があるようだしな。ぼくが今ここにいる意味を考えろ。そういうことだ」
「ま……魔王国の内戦を、小国に御しきれるわけがありません」
「なに、ある程度の領土と種族を分割できれば十分だ。それなりの戦力と生産力が期待できる程のな。そして内戦が落ち着いたあかつきには」
フィゼルが大仰に言う。
「ぼくは魔王を妻に迎える」
「は、はあ!?」
「お前はギムル王に嫁ぐんだ、シーズニア。王位を継いだぼくとお前の子は二つの国の継承権を持つ。そう、次代には、分割した魔王国と我が国を一つにできるんだ。ギムル王国は、もうどの国の機嫌も窺わなくて済む強国となる。どうだ、すごいと思わないか?」
フィゼルが笑みを深める。
「お前を我が国に迎え入れ、計画を進める大役を果たしたあかつきに、父上はぼくに王位を譲ると約束してくれてな。これはその第一歩というわけさ。シーズニア、いずれお前は魔王でありながら、ギムル王国の王妃ともなる――――ああ、ちなみに」
フィゼルはどうでもよさそうに付け加える。
「ぼくにはもう妻が三人いるから第四夫人ということになるが、まあ気にするな。最初に子を産めるようたっぷりかわいがってやる。それが一番面倒がないからな」
フィゼルは竜の鞍に触れると、シーズニアに手を差し出す。
「というわけだ。行くぞ、シーズニア。持っていきたい物があるなら早くしろ。身につけられる物だけにするんだぞ。こいつが飛べなくなるからな」
「……あなたがここまで愚かだとは思いませんでした」
シーズニアは怒りを声に滲ませる。
「あなたの計画とやらで、いったいどれだけの人が犠牲になるのですか」
「臨時政府側が劣勢に立てば我が国にも戦禍が及ぶだろう。そうでなくとも、魔族は結構死ぬだろうな」
「あなたは……それを、なんとも思わないのですか」
「目的のためには仕方がないさ。そうだろう、シーズニア。まさかお前がそれを批判するのか? こともあろうに、お前が?」
シーズニアは唇を引き結ぶと、絞り出すように言う。
「批判するつもりはありません。ただ……あなたは、そんな人間ではないと思っていただけです」
シーズニアは毅然とフィゼルを見据えると、迷いない口調で告げる。
「私は行きません。フィゼル、あなたの無謀な計画に乗るつもりはありません。ましてや、あなたと褥を共にするなどごめんです。私の命運も、もはやあなたには関わりのないこと。国に戻りなさい、フィゼル。あの穏やかな国に。あなたはすでに、たくさんのものを持っているのですから」
「たくさんのもの、か」
フィゼルは自嘲するように笑うと、差し伸べていた手を下ろす。
「悪いが……ぼくは、お前の意思を訊きに来たわけじゃない」
少年は表情を消して言い放つ。
「来い、シーズニア。これは決まったことだ」
シーズニアが怯えたように一歩後ずさる。フィゼルはそれを見て溜息をつく。
「そんなに怖がるな。ぼくだって力づくで連れて行きたいわけじゃない。ほら、そこの。シーズニアを連れてこい。お前の主人を助けるためだ」
「――どうして僕が、お前の言うことを聞かなきゃいけないんだ?」
僕の声は、まるで何年も出していなかったかのように、ひどく乾ききっていた。
「ん? はは、おいおいシーズニア。ダメじゃないか、主人ならちゃんと躾けておかないと」
「っ、ケイはっ」
「シーズニアが帰れと言ってるんだ――お引き取り願おうか、王子様」
僕はフィゼルへと、ハーモナイザーの切っ先を差し向ける。
自分で出したはずの声音は、信じられないくらい冷たかった。
どうやら、僕は怒っているらしい。なぜなのか分析する余裕もないほどに。
フィゼルは呆れたような溜息をつくと、腰に提げた鞘に手を伸ばす。
引き抜いたのは、緩く湾曲した曲刀だった。
刀身に刻まれているのは、幾何学的な紋様。
曲刀をだらりと下げたフィゼルは、申し訳なさそうな声を出す。
「すまない、シーズニア。一応先に謝っておく――――」
紋様が励起光を放つ。
フィゼルの姿勢が沈む。
それを認識すると、
「――――ぞ」
《警こ――――》
すぐ目の前に、銀の刀身があった。
全身が総毛立つ。ただ全力で回避する。首筋に熱。熱い液体感覚が、鎖骨や胸を流れていく。
大きく距離を取りつつ首筋を押さえると、ぞっとする量の血が手を濡らした。
IMに真っ赤な警告ポップが点滅する。重要血管の損傷。ナノマシン群が血相を変えて傷口に殺到し、断裂箇所を修復していく。応急止血が完了。警告ポップが黄色に変わった。大丈夫、まだ死なない。
「ケイっ! ケイっ!」
シーズニアが悲鳴のような声を上げている。
突きの姿勢を戻したフィゼルは、不思議そうな顔をしていた。
「浅いが、入ったはずだったんだがな……見た目の割に頑丈じゃないか、男娼クン」
こいつが僕とシーズニアをどういう目で見ていたのかやっとわかった。頭に血が上る。怒りのままにレシピを選択。
「失せろバカ王子」
《“マンストッパー・Basic”をロード》
最大サイズ、最高速でゴム弾が射出される。
非殺傷弾だがただではすまない。あばら数本と共に眠ってもらう。
「ほう?」
だが興味深げな声を上げたフィゼルは、曲刀を瞬時に下段に運ぶと――――切り上げるように一閃。
ほとんど同時に。
フィゼルの背後で、ゴム弾の命中した手すりが砕け、白い石片が散った。
「なんと、魔術師だったか。これは失礼。シーズニアの客か、それともああ、新しい
フィゼルが楽しげに言う。一方で、僕は愕然としていた。
奴は体を横に向け、姿勢を低くして被弾面積を減らした後。
命中軌道にあったゴム弾二発を、下段からの一振りで両断して見せたのだ。
常人の反射神経じゃない。
あの刀身に刻まれた魔法陣は――おそらく身体能力を強化する、剣士としての魔法。
こいつも『勇者』と同じ魔術の徒だ。
「もうやめてください! こんなところで争う必要などっ……」
「あるだろう。ぼくはお前を連れて行きたい。こいつはそれを止めたい。ならば戦うしかない。せっかくの御前試合だ。お前も楽しめ、シーズニア」
フィゼルは僕から目を離さず、半笑いのまま曲刀を構え直す。
僕は内心で呟く。その通りだよ、フィゼル。だけど一つだけ訂正してやる。
僕が戦うのは自分のためだ。これまで、ずっとそうだった。
今だって――、
「フィゼル、フィゼル。アブナイヨ、アブナイヨ」
竜の頭にとまったオウムが、突然甲高い声で喋り出す。
フィゼルは舌打ちしそうな顔でオウムにちらと目をやると、抑揚のない声で言う。
「心配するなトット。大した相手じゃない。少し楽しむくらいなら」
《“基本盗賊シリーズ・投げナイフ36”をロード》
ずっとオウムと喋ってろ。
魔法陣から三十六条のナイフが射出される。
視線を逸らしたタイミングで完全に不意を突いたはずだったが、フィゼルはまるで予期していたように動いた。回避行動から曲刀を振り、命中するはずだったナイフを弾く。やはり異様な運動能力だ。僕はさらに“投げナイフ”を展開。攻撃を重ねていく。
接近されるとまずい。
ギリィの時とは違い、近接戦では圧倒的に分が悪い。だが、離れて戦うにはこのテラスは狭すぎた。攻撃の手を緩めず弾幕を張り続けるしかない。
意外にも、フィゼルは防戦一方だった。銀刃の雨を前に、回避、防御に手一杯で距離を詰めてくる様子がない。
そうだ、いくら身体能力を高めても対処できる物理的な限界はある。人工意識は人間の魔法使いとは違い、疲労という意識媒体の消耗がなく、魔法の連続展開にほぼ制限がない。物量で攻められる。ここは回避スペースも少ない。テラスの狭さは、奴の不利でもある。
いける。このまま押し切れる。
逃げ回っていたフィゼルが手すりの支柱を蹴り、逆方向へ跳んだ。走る奴へ狙いを修正し、僕ははっとして止まる。
奴の背後に、シーズニアがいる。このままでは射線に被る――――。
フィゼルが口角を吊り上げるのが見えた。
床を蹴り、ほぼ直角に方向転換。僕へ、一気に距離を詰める。
恐怖と共に掲げたハーモナイザーに、フィゼルの斬撃が叩きつけられる。想像以上の衝撃に、堪らず後ずさり、倒されるのを防ぐ。
「お、お前、シーズニアを……っ」
「なんだ? 地形を有効活用しただけじゃないか」
嘲笑するようなフィゼルに、怒りが脳内物質調整を決壊させる。こいつは殺す。絶対に。
《“ネオンちゃんの
魔法陣が、僕の背後に小さく展開する。
「……行動が王子らしくない。もっとお姫様を大事に扱ったらどうだ」
「はっ、シーズニアがお姫様か。おもしろいことを……」
フィゼルが表情を歪める。鍔迫りを離すと、逃げるように後ろへ距離を空けた。
目を眇めて僕を見据えると、訝しげな顔で、軽く胸元を押さえつつ言う。
「貴様……今なにかしたか?」
「……さあね」
“
ブルクテルの時とは違い、範囲が狭いためかなり精密に発動できた。この辺りの酸素濃度は相当低下したはず。わざわざ会話まで誘った。だから、確実に呼吸したはずなのに。
昏倒させるはずが、あの程度だと?
魔法で強化しているのは筋力や神経系に限らないのか。
「ふ、よくわからんがなかなか多芸なようじゃないか。魔術師」
フィゼルが笑みを深める。
「楽しい。楽しいぞ」
「うるさい」
《“基本盗賊シリーズ・投げナイフ36”をロード》
再び襲いかかるナイフを捌きながら、フィゼルが退屈そうに言う。
「それはもう飽きたな」
フィゼルは左手を腰にやると、目視できないほどの速度で閃かせる。
《警告。ランクB》
ギリギリで顔を逸らし、唸りを上げる投剣を躱す。頬が僅かに切れた。内心で舌打ちする。素手や刃物など、人間が直接行う攻撃ほど警告が遅いか出なくなる。危機予測の仕様上の問題だが、やはり僕には相性が悪い。
回避のせいで弾幕が途切れ、再びフィゼルが迫る。
僕はハーモナイザーを構える。
曲刀は基本、突きには向いていない。
だから本気の戦闘ではほとんど斬撃になる。
予想していた袈裟切りを、一歩踏み出し、前に突き出したハーモナイザーの外側で受けた。さらに踏み込む。勢いの残るフィゼルの左をすり抜け、位置が入れ替わる。振り返りつつ、バックステップで適度に後退。そして、レシピを解放。
《“
これを防げるものなら防いでみろ。
雷撃は制御が難しいが、この距離なら外さない。電流ならば剣での防御も回避も不可能。これで終わりだ。
必殺のはずの雷撃は、
「っ!?」
身構えるフィゼルの手前で、突如停止。
そして逆流するように、魔法陣の根元まで消失した。
僕は目を見開く。信じられない思いが、同じレシピを再度選択させる。
《“
再び雷撃の魔法陣が展開。
だが、結果は同じだった。またしてもフィゼルに届く前に、電流は流星のように消失してしまう。
フィゼルは構えを解くと、溜息をついて言う。
「無駄だ、魔術師」
《“基本盗賊シリーズ・
施錠部破壊用の散弾が弾ける。
回避困難な面での攻撃も――フィゼルを前にして、弾丸すべてが消失。
これは……間違いない。
魔法無効化の魔法。
こいつ、こんな奥の手も持っていたとは。
「つまらん飛び道具はもうやめようじゃないか」
フィゼルが悠然と歩み寄ってくる。防御もなにもない。
バカが。
「断るっ」
魔法の無効化は現代にもある技術だ。これには、ある大きな弱点がある。
当たり前だが、無効化するには対象の魔法を確認しなければならない。つまり、なんらかの形での観測が必要になる。
だがこの世界では、光以上の速度で情報を運ぶことはできない。
だから光だけは――命中しないと観測できない。
《“
魔法陣より光速の熱線が放たれる。
未来の技術でも、レーザー魔法の無効化は原則的に不可能だ。
ただ歩みを進めるフィゼル。
その目前で、
「剣で決着をつけよう、魔術師。貴様は剣士でもあるんだろう」
紫色の光線は、途絶。
そして、光の帯は儚く霧散、消失した。
「……はあああ?」
僕の口から、間抜けな声が漏れた。
起こった現象を認識する。内心から恐怖が滲んでくる。
近づいてくるフィゼルを愕然と見つめ、後ずさる。
ありえない。
ありえない。原理的に、こんなのは……。
「もはやそれ以外にないのさ。貴様が望まずともな」
迫るフィゼルに、僕はひたすらに後ずさる。恐怖心に突き動かされるまま、がむしゃらにレシピを選択する。
《“基本盗賊シリーズ・投げナイフ36”をロード》
《“基本盗賊シリーズ・
《“マンストッパー・Basic”をロード》
魔法陣が次々と励起。
生み出されたナイフが消え、散弾が消え、ゴム弾が消えていく。
《“基本盗賊シリーズ・
《“
《“
フィゼルがさらに近づく。
魔法陣に励起光が点るが、鉄球も、電流も、光線も顕れない。もはや二次励起反応すら起こらなかった。それでも僕は、壊れた端末のようにレシピを選択し続けることしかできない。
――勝てない。
フィゼルは呆れたような顔で言う。
「無駄だと言っているだろう」
《“
合金鋼の壁が、僕とフィゼルの間に立ちはだかった。
「っ!」
弾かれたように、僕は駆け出す。
勝てない。勝てるわけない、あいつには。逃げないと――――。
風切り音。鋭い音がして、足下に二本の投剣が突き立つ。思わず足を止めてしまう。
「なんだ、その様は」
声に振り返る。
斬撃を予想し、体勢の悪いまま、ハーモナイザーを身を隠すようにして掲げる。
降ってきた刃は、重すぎた。
手からハーモナイザーが弾き飛ばされる。
衝撃に僕は、足をもつれさせてテラスの床に倒れ込んだ。
体を起こす間もなく、眼前に曲刀の切っ先を突きつけられる。
「剣が泣くぞ」
すぐ目の前にある、死。眼球が張り付いたように動かせない。
空気が、いつの間にか冷たい。
反対に、心臓は激しく拍動していて熱い。
フィゼルが、退屈さと忌々しさが入り交じった表情で呟く。
「はあ……やはりこうなってしまうか」
「フィゼル、ツヨイ。フィゼル、ツヨイ」
「ああ、そうだなトット」
フィゼルが無表情でオウムに返すと、僕に温度のない視線を向けて告げる。
「礼儀として言っておこう。良い戦いだった、魔術師よ。それではな」
少年剣士が曲刀を振りかぶる。僕はそれを、呆然と見た。
たぶん、僕は一瞬で死ぬことだろう。
きっと戦いとなった時点で、こうなることは決まっていた。この『勇者』に勝てるわけがない。だって――――、
だって、だって……なぜだろう? どうして僕は、こう思うんだ?
「やめなさいっ!!」
死の直前の曖昧な時間を、シーズニアの叫びが破った。
曲刀の刃は、僕の首に届く直前で止まる。
フィゼルはシーズニアへ視線をやると、にやりと笑う。
「おっと、そういえば御前試合だったな。姫の制止がかかればここまでというわけか」
僕に曲刀を突きつけたまま、続ける。
「さて御前試合といえば、勝者には褒賞が与えられるものだ。そうだろう? お前はぼくになにをくれるんだ? シーズニア」
シーズニアは、押し殺した声音で告げる。
「……あなたと、一緒に行きます」
「ん?」
「あなたの計画に乗ると言っているんです! それでいいでしょう!」
「シ、シーズニア……? なに言ってるんだ、そんな」
顔に衝撃。テラスの床に這いつくばる。フィゼルに蹴られたのだと気づいたのは、七百ミリ秒ほど経ってだった。口の中に流れ始めた生ぬるい血を吐き出す。
「やめなさいフィゼルっ!」
「敗者が納得いかないと暴れるものでな。そうだシーズニア、もう一つ約束してもらおうか――ぼくの臣民やお前の同胞に、妙な知識は絶対に広めるな」
シーズニアが目を見開く。
「妙な知識、って……」
「とぼけるな。先代魔王が研究していたアレだ。不確定要素が増えるのは望ましくない、計画の邪魔になるからな。錬金術師の真似事もダメだ。いいな?」
シーズニアは唇を引き結び、堪えるように言う。
「……ました」
「ん? 聞こえないな」
「わかり、ました。約束します。だから、もう……」
「どっ……」
どうして。
言葉は、声にならない。
フィゼルが溜息をつく。
「無駄に手間取ったが……まあいい。多少の退屈しのぎにもなったしな。では行くぞ、シーズニア」
フィゼルは曲刀を静かに納めると、シーズニアの手を乱暴に掴み、引いていく。僕はそれを、揺れる視界の中に見ている。
フィゼルがシーズニアを竜の鞍へと放り投げた。危うく落ちそうになるシーズニアを構いもせず、自身も飛び乗る。
翼の周囲に励起光が瞬く。オウムが逃げるように飛び立つと同時に、竜の魔法が発動。風がテラスに吹き荒れ始める。離陸のための七、八気圧という高圧状態が竜の周囲に発生し、周りに空気分子をまき散らす。
八倍近い大気圧に、シーズニアの表情が苦痛に歪む。慣れているのか、フィゼルは平然と手綱を手に取る。
「それではな、男娼クン。いや魔術師クンか。もう会うこともないだろうな」
「ま……」
待て。
またしても、声は出せなかった。
竜の翼が羽ばたく。濃密な大気を掴み、巨体が上昇。燐光の残像を残しながら、テラスから、僕から遠ざかっていく。
やがて十分に上昇したためか、小さくなった竜から青い励起光が消失。ゆったりとした羽ばたきと共に、南の空へと消えていく。
僕はそれを、見ていることしかできなかった。
動けなかった。声すら出なかった。
勝てるわけがないと思った。あの『勇者』には。フィゼルには。僕なんかでは、到底――――。
「あ……」
不意に、僕は気づいた。
どうして、僕がそれを確信しているのか。
「あれは……」
魔法無効化と、身体強化による剣技。
あれは、ニルヤの。
〈勇者〉の戦い方だ。
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